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魅力的だが、乗りがたい。
物書きとして、過去を持つ者として、残しておきたいが記したくはない。
少年がそんな話を持ってきたのは、確か、午後から初雪が降った日の朝だった。


くしゃっ。
隣のテーブルに座った女子高生が、書いていた手紙を丸めて、捨てる音。
それからもう一度書き出す。真新しい紙に、最初から。

行き慣れないファーストフード店のテーブルで、接触を求めてきた少年と対面する。
メニューを見ながら、彼はこう言った。

一緒に『某国家』を相手にしてみないか。
どこの国とは言わないけれど、あなたと馴染みの深い国。

とても嫌な予感がした。

あの国は鬼門なんだ。できれば関わりたくない。

視線をそらしたまま、こう答えた。
少年はちらりと視線を上げ、こちらをとらえてこう言った。

あんたの生まれ故郷でしょう。大丈夫、おれが守ってあげるから。


「いらっしゃいませ、こんにちは!」
元気な売り子の声がして、店の自動ドアから人が流れ込む。
若者の一団。

ふと気がつくと、目の前の少年が怪訝そうな顔で私を見ていた。

どうかしましたか?

丁寧に聞いてやると、 どうしてそんなに力を入れているの 、と返してきた。
無意識に体がこわばっている。
私はふぅと肩の力を抜いて微笑んで見せた。指摘されて始めて気がつく己の緊張だ。
なんのことはない、ただ客が入ってきただけなのに、この緊張ぶり。
我ながら苦笑がもれる。
思わず下を向くと、少年が 大丈夫? と聞いてきた。
『手』で。
そう、私は耳が聞こえない。
全ての音は記憶の中にあるイメージ。
もしくは、物の本などからの知識を元に想像で補った音声だけ。
人差し指を立て、横に振りながら、少年の唇が「どうしたの?」と動く。
この国に住まうようになり早三十年。
日本語の手話もすっかり覚え、母国語のように使いこなしている自分がふとおかしい。
なおも不安げな表情の少年に何度かうなずいて笑顔を返す。
私は彼に、暖かいコーヒーを注文してくれるよう頼んだ。
レジのほうへ立っていく少年の後姿を視線で追う。
聴力を失ってから、目で見ることの大切さをますます知った。
それ以外に、触るでもなく感じる感覚というか、気配を感じる力が鋭くなったと思う。
ぼんやり少年の背を眺めていると、ふと、妙な感覚にとらわれた。
自分以外にも、彼を見ている者がいる。
そんな気がしてあたりを見回すと、若い母親に抱えられた赤ん坊が一人。
なぜか一心に少年の後姿を見つめていた。
赤ん坊の瞳の無垢なこと。
不思議なことに、赤ん坊はずっと少年の後姿を見つめている。
彼は私のコーヒーと自分のウーロン茶をトレイに乗せ、元の席へと戻ってきた。
その間、赤ん坊は変わらず少年のいた場所を ―― レジの辺りを見つめている。
視線の先を改めて見直し、合点がいった。
赤ん坊が見ていたのは少年ではなく、レジにすえつけられた立体式の広告だったのだ。
派手な色使いの厚紙か何かでできたそれは、くるくると動く仕掛けになっていた。
赤ん坊の目には、それがおもしろく映ったのだろう。
単なる取り違えだ。よくある話。

どうかした?

また問う少年に微笑んで見せ、私は香ばしい濃茶色の中にミルクをそそいだ。
「神か鬼にでも、護られない限り。」
私は『母国語』でささやく。
誰にともなく、目の前の少年にだけ届くかどうかの小声で。
きっと正しい発音ではないだろう。
聴覚に障害を持つ者の言葉は不鮮明で、聞き取りにくいのが常だから。
それでも少年は、まじめな顔で耳を傾けている。
「それほどの、よほどのことがない限りは。」
言いながら、言葉に自信がなくなってきた。
はっきりと話せているのだろうか。
目の前の相手は理解できているだろうか。
試すように彼を見れば、彼は素早くコースターに一筆を書いてよこした。
『神も鬼神も無問題! このおれさまがついてるでしょ!』
思わずこみ上げる笑いと、緊張・恐れで高まる動悸が一度に襲ってくる。
ふと、誰に見られた気配を感じた。
何かと視線を上げると、さっきの赤ん坊がまだくるくる回る広告を見ている。
私を見る誰かの姿はない。
半ば安堵しつつ、道に面した大きな窓ガラスを見てギョッとした。
コート姿の男がこちらをのぞいている。
鋭い目で私を見ている。
競りあがる恐怖に喉が詰まった。
しかし。
コートの男は視線を横に動かした。
なんだ、と胸をなでおろす。
男が見ていたのは、窓に書かれた店のメニューだったのだ。
勘違いだ。取り違えただけ。
安堵する私の前で、少年がまた何かを書いている。
『断らせません。もう逃げらんないよ!』
私の『母国語』で、彼が書いてよこす。
疫病神め。
心の中で悪態をついて、私は少年と握手を交わした。

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