Elevator

エレベーターが怖い、という者がいる。
動く密室。
四角い箱の中だ。
独特の閉塞感や、細いワイヤーで吊られているという感覚が怖いという。
エレベーターは、今日も客を乗せ、客を運ぶ。
上がったり下がったりを毎日繰り返す、ただの『箱』だ。
今から、少し昔の話をしようと思う。
といっても、ほんの数日前の話だ。
数日前まで私が勤めていたのは、とある雑居ビルだった。
雑居ビルの一室に住み、八階の部屋に通う。
薄汚れた雑居ビル、その『空き部屋』の一つに密入国者が隠れ住む。
部屋にいるのは、国籍も定かではない老若男女たち。
その多くはアジア系だったか。
埃っぽい空気に耐え、この国に溶け込まんと息を潜める。
ここには、窓という窓に厚い布を張り、この部屋を出るときを心待つ人々がいる。
張り巡らされた布の隙間、光が差し込む。
下界をのぞけば交差点がある。
この国の民が、当然のように暮らしている。
アリのように小さく、当たり前の人間たちが群れ、歩いて行く。
モウスグ、アノ中ニハイレルノダ。
皆、希望にすがる。
地上に降りさえすれば、楽しい暮らしが待っているとでも言うように。
私の役目は人間の輸送だった。
人々を闇にまぎれさせ、こっそりと運び、仲間に渡す。
渡された人々の行き先は知らない。
どこへ行くのか、何をするのか、そんなことはすべて私の範疇を超えたこと。
私は『エレベーター』と呼ばれていた。
ただの『箱』だ。
『箱』に感情など不要である。
人々の行く末を案じたり、個人に情を移したりすることは許されなかった。
はるか昔、まだ外の世界に居た頃に持っていたさまざまな感情は、
この雑居ビルの中で曇り、消え失せていった。
私の仕事は単純だ。
閉ざされた部屋からひそかに人々を連れ出し、
荷物運搬用や従業員専用のエレベーターを使って、地上に降ろすことだけ。
一般客が使うエレベーターや、外から見られやすい非常階段はなるべく避ける。
時には人々を箱につめ、
時にはそうすることがごく当然であるかのようにそのままの姿で歩かせる。
そうしてビルを降りた人々は、都会の中に姿を消すのだ。
リピーターもいる。
一度きりの者もいる。
中には、私を密入国の仲介役と思い込み、賄賂を差し出す者もいる。
私は無反応に徹する。
ビル内の店の者たちは、私をビルの管理人が雇った清掃員だと思っていた。
実際はビルの管理人も私も、同じ組織のコマに過ぎない。
その日、私の駐在する一階の業務員室に一人の少年がやってきた。
今風の服装に身を包み、さらさらと細い髪をかきあげる。
鮮やかな青の輪っかを首につけていた。
(後から知ったことだが、あの輪は若者に流行の健康グッズだったらしい。
 マイナスイオンが肩こりなどに効くもので、アクセサリーでもあるそうだ。)
彼はずかずかと上がりこみ、“運んでくれ”、と言ってきた。
例の部屋に。
組織直通の非常ベルを鳴らそうと、手を伸ばす。
ボタンは押せなかった。
いつの間にか目の前に来ていた少年の手が、私の両手を捕らえていたのだ。
無表情に黙り込む私に、彼は頼むよと片目をつむった。
あんたの都合もわかるが、オレもお仕事なんだよね、と。
次に彼が発した言葉は、今この瞬間も耳に残っている。

“爺 さ ん、 俺 に つ か な い ?”

私に、組織を捨てろというのだ。
若い頃鳴らした敏腕『運び屋』としての名声。
今は過去の遺物となったそれを聞きつけたらしい。

“あ ん た の 組 織 よ り、 お れ の 方 が 上 だ よ。”

少年は、一人の男の名を口にした。
知っていた。
我々の組織で幹部と呼ばれるごく少数の人間の一人だった。
常に大勢のボディーガードで周囲を固める用心深い男だ。
ガードたちは一人残らず敏腕であり、男自身も腕一本でのし上がった実力者。
組織の中でも随一の武闘派であり、先日謎の死を遂げたボスの後継と目されていた。
少年は、その男やガードたちを合計したよりも腕利きであるという。
ありえない話だった。
この少年は、神をも恐れぬ輩だ。神などというものが実在するならば、の話だが。
不可能、と切り捨てた私に対し、少年は“俺に不可能はない”と言った。
なんとも自意識が強い、傲慢な発言だ。
自画自賛もいいところ、根拠のない言葉、と内心で打ち捨てる。
動かない私に彼は言った。
“見せてやるから、それ、押さないで。”
あごでしゃくったのは、押さえられたままの手元だった。
非常ベルのボタンを意味しているのだろう。
何を見ようと、心動くまい。
そう思いながらも、私はうなずき、非常ベルから手を離した。
思えば、このときからすでに、普段の自分とはどこか違っていたのだろう。
ごとり。
重厚な音を立てて、きらびやかなものが転がった。
貧相な机の上でギラギラと輝いているのは何だったのか?
驚くなかれ、それは、私にも見覚えのある品だった。
時価数千万だったか、億だったか。
その昔、例の男が自慢げに教えてきた値段は忘れてしまったが。
文字盤全面にダイヤモンドが散りばめられた、時計としては使い辛そうな装飾品だ。
片時も放さず、寝るときでも身につけているという話で有名な品だった。
それが、ここにある。
金とダイヤでできた文字盤を、蜘蛛の巣のようなひび割れで飾り付けて。
ベルトには、幹部自らがデザインした彼自身の名を示すロゴ。
ここにある意味は? 何をかや言わん。
驚き。
次いで、感動。
しばし遅れて、二度目の驚き。
ああ、私にも残っていた。
驚き、感嘆する心が。
自分の感情が動くなど、ここ十数年ばかりなかったことだ。
無論、完全に信じたわけではない。
偽物かもしれなかった。
しかし。

ふと思った。

運んでやろうか、と。

禁を破れば明日はあるまい。
組織を抜ければ、すべてを失う。それが常識だ。
組織は、仇なした者を決して許さない。例外はないはずだ。
だが、そうではないかもしれない。
強気な口調と不敵な微笑み。
私より四・五十歳も若そうな少年が、なぜだか頼もしく思えた。

よし、来い。

気づけば、そう言っていた。
若い頃のように、人間らしい生き生きとした声が出た。
明るい未来を夢に見て、一日一日を生きていた頃のような声だ。
それで、腹は決まった。
こうなったらとことん協力してやろう。
長年住み慣れたこのビルを離れ、彼と共に生きてみよう、と。
彼を清掃用具用のカートにつめ、従業員用のエレベーターに乗る。
いつものルートを下から上へ。
待つこと数分。
ほどなく、少年は帰ってきた。
彼が満面の笑みで、事は成したと親指を立てる。
事とは何か、とは聞かなかった。
ただ、そうか、とだけ言ってやった。
また彼をカートにつめ、上から下へ。
廊下を行く最中、突然携帯電話が鳴った。
出ると、いつも組織からの連絡を伝えてくる人間だった。

《おい、今どこにいる!? なぜ部屋にいない!?》
「……七階を掃除しとるところだが。」
《馬鹿な、指示もなしに動いたのか!?》
「スナックから出た客が、廊下でゲロをぶちまけたんだ。
 店の方から早く掃除しろ、と言ってきた。
 清掃員がいながら放っておいたら、かえって怪しまれるだろう。」
《ちっ。まあいい。それより仕事だ。》
「わかった、すぐ降りる。」

電話を切ると、カートの中からごそごそと動く気配がした。
ぼうや、まだ動くな。
そう声をかけるとおとなしくなった。
いい子だ、と、声かけるでもなくつぶやいて一般客用のエレベーターに乗る。
幸い、乗客は一人もいない。
好機。
カバーをずらし、出やすいように手を貸してやる。
よっこいしょ、と言いながら出てきた少年は、初めて名を名乗った。
どこにでもいるありふれた名前。
腕前の特殊さとあいまって妙におかしかった。
十数年ぶりの笑いをこらえていると、彼はもう一つの名を名乗った。
『ブローニング・キッド』。
数日前からだと思うが、急に呼ばれ出した通り名……だそうだ。
聞いたことがあった。
ブローニング使いの『キッド』、と呼ばれる腕利きがいる、まだガキらしい。
組織の人間が立ち寄ったときに言っていた。
十五歳くらいの男が流れてきたら気をつけろ、子どもだと思って気を許すな。
とんでもない腕利き、おまけに遊びみたいに人を撃つ、と。
気に留めもしていなかった。
名を聞いてかろうじて思い出しただけ。ただの噂だ。
動く密室の中、私は彼と長年の仲間のように並んで立った。
こうしてみると、確かに、エレベーターとは箱の中だ。
どこにも逃げ場はなく、誰が入ってくるかわからない。
次の階で扉が開き、まずい相手が乗ってくるかもしれない。
最悪の場合、組織の人間たちが抑音機付の銃を構えているかもしれないのだ。
いや、さらに悪いことも考えられる。
たとえば箱を吊っているワイヤーを叩き切られたら?
キッドに噂どおりの腕前があれば、銃を持つ人間はどうにかなるかもしれない。
だが、箱もろとも落とされたのでは間違いなく大怪我、もしくは死だ。
三階で、動きが止まった。
扉が開く。
緊張のあまり、息が止まりそうだ。
久しぶりの緊張感にどこかわくわくしたものを感じる。
三階の雀荘から出てきたらしい、数人の男たちが乗り込んできた。
入れ替えに、キッドがエレベーターを降りる。
ごく自然に、まるっきり他人の顔で降りていった。
私とは赤の他人になりすまし、当然のように歩いていく。
その背中は、“清掃員の爺さんなんか知らないよ。”と言っているようだった。
私は階数表示の光を見ていた。
麻雀談義に花を咲かせる男たちの会話を聞きながら、緑色の数字を見ていた。
一階。
エレベーターを降り、裏口に向かった。
曲がり角から狭い通路をのぞき込むと、その先にうろうろしている男がいた。
さっき電話してきた連絡役の男だ。
従業員用のエレベーターの前で、待ちぼうけを食っている様子だった。
まだこちらには気づいていない。
いつまでもエレベーターが動かないためか、時折見える横顔はいぶかしげな風だ。
気づかれないよう、そっと角を離れた。
足早に向かったのは表玄関だ。
ガラス越しに、日差しが目に刺さる。
外の世界はひどく明るかった。


落ち着いて会話してみたキッドは、存外に幼かった。
妙に負けず嫌いな一面といい、つい格好をつけてしまうところといい、まだまだ青い。
キッド(子ども・若者)という呼び名にふさわしく、日常の彼は子供のような若者であった。
この子には、パートナーはおろか仕事仲間の類がほとんどいないこともわかった。
私は、『ブローニング・キッド』の貴重な仲間の一人となったのだ。
これからの私が運ぶのは、人に限らず、武器、情報、その他。
建物の上下に限らず、町から町へ、広い範囲を運ぶことも以前と異なっている。
呼び名も変わった。
『エレベーター』から、『ハコ屋の爺さん』に。
組織に追われることはなかった。
以後ずっと、だ。
その理由は知らないし、知る必要もない。
私は『運び屋』に戻ったのだ。
定住はせず、輸送用の車に住むことにした。
かつて『運び屋』として鳴らしていた頃と同じやり方だ。
昔どおりとまでは言わないが、そこらのヒヨッコよりはましだろうと自負している。
昔取った杵柄を頼りに、これからも毎日、仕事をこなす。
仕事に感情は不要だ。
仕事が舞い込めば、私はまた、『箱』にもどる。
キッドは仕事以外でもたびたびやってきては、じゃれついて帰っていく。
先日、あの子が現れると自分の口調が変わるのに気づいた。
自然と、まだ若い頃のような生き生きとしたものになるのだ、年甲斐もなく。
長話になってしまった。
ほんの少しだけ、話をしようと思っただけなのだが。
あの日、私は数十年尽くしてきた組織から遅い独立を果たした。
たった一度の反逆。
私がただの『箱』でいられなかった、たった一度きりの話だ。

Fin.

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