でも、どこへ?
玄関を開けて、芝生の上に踏み出した。ここはまだ俺……、いや、親父の家だ。
父の爆発は俺が原因だった。
俺が、これ以上、親の世話になりたくないと言ったからだ。
俺は働いている、人並みに。
苦労や努力だってした。
だが、他人は俺のことを『優雅なご身分』だという。
俺には、それがひどく恥ずかしく思えた。
だから家を出たいと言った。
たかが一人暮らしの申し出が、これほど怒りを買うことだとは思ってもみなかった。
『 俺 という貴方の息子はもう大人なのに、なぜそれほど反対するのですか?』
心に浮かんだ問いかけを飲み込む。周囲には、答える者などいないのだから。
やっとの思いで顔を上げると、金属製の外門が見える。出口までは、遠い。
「待ちなさい。」
静かな声がした。
「これ、持って行って。」
母だった。
差し出されたカードと小切手に首を振った。
母の愛は哀れみに似ている。
彼女はまるで愚者を慈しむような優しさで、逃げてもいい、とささやいた。
今は逃げてもいいから、いつでも戻ってきて、と。
震えるほどに憤りながら、唇をかみしめた。
俺は、逃げ出すのだろうか?
逃げろ、逃げろ、どこまでも。
逃げよう、逃げよう、でも、どこへ?
烈火となって身震いすらしていた父と、彼の前にあったリビングのテーブルを思い出す。
テーブルの天板は厚手のガラスで出来ていた。
無残に割れた他のガラスたちとは異なり、それには傷一つついていなかった。
目を硬くつぶる。
まぶたの裏で、割れないガラスと父の姿が重なった。
傷つかず、混ざり合わない。決して俺を、受け入れてはくれない……。
俺は、足を引きずるようにして歩いた。
後ろから誰かが、俺を引き戻そうとしている。
そんな錯覚に襲われて、何度も頭を振った。そのまま下を向いて歩き続ける。
ざり、ざり、と靴底が鳴った。
重たい足を、一歩、また一歩、わずかに前へと動かした。足跡さえ残らない……。
住宅地を離れ、あてもなく歩き続ける。
月光が道を照らしていた。
どれくらい歩いたのだろう。
街灯が放つ白い光が、路上に円の形を落としている。
円の中心で、俺は、ふと立ち止まった。
どこまで行けばいいのだろう?
何一つ決められて……いや、決めていないと気がついた。
この道にはゴールがない。行くべき場所への道しるべもない。答えが、見えない。
途方にくれて立ちすくんだ。
フッと霧が流れた、と思う。
落ち着いてよく見れば、それは霧ではなかった。俺が吐いた白い息だ。
歯が鳴っている。カチカチカチ、コッコッ、と。
視界の端で、前髪が小刻みに揺れている。時計の秒針よりも、もっと細かく。
寒い。
自分の体を抱きしめると、なぜだか涙が浮かんだ。大人のくせに情けないと思った。
逃げろ、逃げろ、自由へと。
人の気配がして、俺は車道の向こう側を見やった。
何台かのタクシーが客を待っている。気がつけば、ここは歓楽街の外側だ。
ずいぶん歩いてきたのだ。
客待ちのタクシーはどれも暇と見えて、運転手どうし、雑談をしている様子だった。
俺はポケットから財布を取り出した。
開いてみたが、何枚かの紙幣があるだけだ。今の俺には唯一の財産だった。
たったこれだけで、いったい何ができるだろう。俺は、ため息混じりに顔を上げた。
次の瞬間。
飛び込んできた。
タクシーに寄りかかってタバコを吸っている、一人の運転手の姿が。
運転手はくわえタバコを手に移し、軽く灰を落としている。
脳内を閃光が走った。
タバコの煙。
先の方だけ、光って見えた髪。
いつかの記憶が、ほんの一瞬、脳裏にひらめく。
どうやってたどり着いたのかもわからない、薄汚い路地裏。
小さな天使と、不安定な点滅をくりかえす緑色の文字が見える。
≪Heaven≫
それはネオンで書かれた天国という言葉。
ドアと壁のわずかな隙間から、一筋、輝く糸のような光が漏れていた。
出会ったのは、誰だ?
ボロボロになっていた俺の髪をかきあげて、ここはお前の来るところじゃない、そう言った。
記憶とも呼べないほどかすかに甦るのは煙草のにおい。
先の方だけ色が抜け、そこが光って見えた髪。
半年ほど前だろうか。ひどく酔い、嘔吐物だらけで帰宅したことがある。
そう、確か自室のベッドで目を覚ましたとたん、全身の痛みに驚いたのだ。
なぜか痣だらけで、帰り道の記憶もなかった。
家の者は、昨夜はタクシーに乗ってお帰りでした、と言っていたと思う。
回らない頭で前夜の事を探った俺が、ただ一つ覚えていた言葉は、
どんなところかもわからない天国。
それは、己の記憶に眠るただ一つの未知なる物。俺が知らない世界。
「あのっ!」
思わず、大きな声をかけていた。
俺の目を奪った男の他に、何人かの運転手がこちらを振り向く。
急に恥ずかしくなり、あわてて目をそらした。
頬だけが熱い。きっと今、俺の顔は真っ赤になっているのだろう。
ごくりとつばを飲み、視線を戻す。
目が合った。
道路の反対側から、あの運転手が俺を見ていた。間違いなく、俺のことを。
少しだけ目を細めて、どこか遠くを眺めているような表情だった。
足元に、境界線がある。
街灯が作る円形の光と、月光が落とす静かな蒼い光との境目だ。
人工的な光の内側で、俺の足は止まっていた。
しがらみを。
弱さを。
自分を縛っていた、何もかもを。
境界線を越えたなら、昨日までの自分を捨てられる気がして。
俺は、大きく一歩を踏み出した。
逃げろ、逃げろ、どこまでも。
寒さに凍った俺の身体を、乾いた暖房の風が温めていく。
「お客さん、どちらまで?」
運転手の声が、心地よく響いた。
乗り込んだタクシーの中は、暗くて暖かで、タバコの匂いがする。
「あの……これで、行けるところまでお願いします……」
俺は財布から、ある限りの金を取り出した。
足りる、だろうか。
不安げな俺をよそに、運転手は紙幣をまじまじと見る。
そして、さもおかしそうに言った。
「そんだけありゃ、2・3日はブッ通しで走っていられる。豪勢だな。」
驚いた。
家に運転手が居たから、タクシーにはほとんど乗ったことがない。
タクシー代とは、そんなに安いものだったのか。
「どこまで行きたいんだ?」
彼は運転席から、バックミラーを通して俺を見つめる。
行き先を考えて、ふと浮かんだのは、あの言葉だ。
二度と来てはいけないと言われた気がする。けれど、俺はそこに行きたかった。
「
口ごもりそうになる自分を励まして、記憶していた言葉を口にする。
返事まで、少し間があった。
くわえタバコをふかしながら、運転席の男が振り向く。
「……アンタの行くとこじゃねぇぜ。前にも言ったろ。」
運転手が言った。そっけない顔で。しかし、心配げに。
覚えているんだ。
嬉しくてたまらなかった。
確かに俺はこの男と出会った。それを、覚えているんだ。この人は。
理由なんかない、ただ、嬉しかった。
境界を越え、自由へと逃げろ。
俺を乗せて、タクシーは走る。
歓楽街を通り過ぎ、街の反対側に出たところで運転手が訪ねてきた。
もうすぐ辿り着く場所は、確か、裏通り。
いわゆるスラム街。噂にしか聞いたことのないはずの世界。
「いいのか? ここから先は裏通りだ。アンタ、戻れなくなるぜ。」
厳しくて優しい警告が、とても、心地よかった。
タクシーは狭い道に入っていく。
ここが、裏通り。
「……知らねぇぞ、勝手に、」
しろ、と言いかけた運転手が口をつぐむ。そして、こう続けた。
「生きろよ。」
とうとつな一言だ。
きょとんとしている俺に対して、彼はかすかに笑っていた。
カーラジオから、渋くて迫力のあるロック音楽が流れてくる。
明日はどうなるかわからない。それでも俺はここに踏み込んだ。自分で行こうと決めて。
何でもいい、生きよう。
そう、思った。
境界を越え、自由へと逃げろ。
誰も明日を、知る者はいない。
Thanks for your request! お題は「逃亡者」(c)E.YAZAWAでした。
1111番、koraiちゃんに捧げます。