■ Runaway

ビリビリと窓が震えた。

リビングの物が手当たり次第に飛んでくる。

怒声と罵声が入り乱れる。

重たいクリスタルガラスの灰皿が、透明なキャビネットに飛び込んだ。 激しい衝突に負けたのはキャビネットの方だ。 ガラスの扉が、棚板が、かん高く硬質な悲鳴を上げて悲惨な姿に変わった。 灰皿が、飛び込み自殺を図ったような光景だ。 激しく割れるガラスから飛び散るかけらは、水の飛沫に似ている。

キャビネットの中に飾られていた、色とりどりのグラスも一緒に砕け散る。 すべてが混ざったガラスの瓦礫と、外から飛び込んできた灰皿とが一体化した。 透明な輝きが乱反射している。 埋没するイメージが、ますます飛び込み自殺を思わせた。

母の悲鳴と、家の者たちの声が聞こえる。 自室へと逃げる弟の影が、視界の端をよぎる。 歯を食いしばっていた俺の鼓膜に、一番ひどい騒音が突き刺さった。

「お前一人で何ができるというんだ!」

生まれて初めて聞くような、凄まじい、不愉快な破壊の音だ。 息を荒げ、怒りをまき散らす。 この理不尽な男が、俺の、父なのだ。 普段は温厚な父だった。仲のよい親子のはずだった。 それが、壊れた。

「出て行け!!」

父が叫んだ。 出て行きたいと言った俺に猛反対したあげく、捨て台詞が『出て行け』なのか。 皮肉を心に浮かべ、立ち上がる。 俺は玄関に向かった。 荷物をまとめる気にはなれなかった。そのままの格好で出て行こうとした。


でも、どこへ?


玄関を開けて、芝生の上に踏み出した。ここはまだ俺……、いや、親父の家だ。

父の爆発は俺が原因だった。 俺が、これ以上、親の世話になりたくないと言ったからだ。 俺は働いている、人並みに。 苦労や努力だってした。 だが、他人は俺のことを『優雅なご身分』だという。 俺には、それがひどく恥ずかしく思えた。 だから家を出たいと言った。 たかが一人暮らしの申し出が、これほど怒りを買うことだとは思ってもみなかった。

『 俺 という貴方の息子はもう大人なのに、なぜそれほど反対するのですか?』

心に浮かんだ問いかけを飲み込む。周囲には、答える者などいないのだから。 やっとの思いで顔を上げると、金属製の外門が見える。出口までは、遠い。

「待ちなさい」

静かな声がした。

「これ、持って行って」

母だった。 差し出されたカードと小切手に首を振った。 母の愛は哀れみに似ている。 彼女はまるで愚者を慈しむような優しさで、逃げてもいい、とささやいた。 今は逃げてもいいから、いつでも戻ってきて、と。

震えるほどに憤りながら、唇をかみしめた。 俺は、逃げ出すのだろうか?


逃げろ、逃げろ、どこまでも。

逃げよう、逃げよう、でも、どこへ?


烈火となって身震いすらしていた父と、彼の前にあったリビングのテーブルを思い出す。 テーブルの天板は厚手のガラスで出来ていた。 無残に割れた他のガラスたちとは異なり、それには傷一つついていなかった。 目を硬くつぶる。 まぶたの裏で、割れないガラスと父の姿が重なった。 傷つかず、混ざり合わない。決して俺を、受け入れてはくれない……。

俺は、足を引きずるようにして歩いた。 後ろから誰かが、俺を引き戻そうとしている。 そんな錯覚に襲われて、何度も頭を振った。そのまま下を向いて歩き続ける。 ざり、ざり、と靴底が鳴った。 重たい足を、一歩、また一歩、わずかに前へと動かした。足跡さえ残らない……。 住宅地を離れ、あてもなく歩き続ける。 月光が道を照らしていた。

どれくらい歩いたのだろう。 街灯が放つ白い光が、路上に円の形を落としている。 円の中心で、俺は、ふと立ち止まった。 どこまで行けばいいのだろう? 何一つ決められて……いや、決めていないと気がついた。 この道にはゴールがない。行くべき場所への道しるべもない。答えが、見えない。

途方にくれて立ちすくんだ。 フッと霧が流れた、と思う。 落ち着いてよく見れば、それは霧ではなかった。俺が吐いた白い息だ。 歯が鳴っている。カチカチカチ、コッコッ、と。 視界の端で、前髪が小刻みに揺れている。時計の秒針よりも、もっと細かく。

寒い。

自分の体を抱きしめると、なぜだか涙が浮かんだ。大人のくせに情けないと思った。


逃げろ、逃げろ、自由へと。


人の気配がして、俺は車道の向こう側を見やった。 何台かのタクシーが客を待っている。気がつけば、ここは歓楽街の外側だ。 ずいぶん歩いてきたのだ、と思う。

客待ちのタクシーはどれも暇と見えて、運転手どうし、雑談をしている様子だった。 俺はポケットから財布を取り出した。 開いてみたが、何枚かの紙幣があるだけだ。今の俺には唯一の財産だった。 たったこれだけで、いったい何ができるだろう。俺は、ため息混じりに顔を上げた。

次の瞬間。

飛び込んできた。

タクシーに寄りかかってタバコを吸っている、一人の運転手の姿が。

運転手はくわえタバコを手に移し、軽く灰を落としている。 脳内を閃光が走った。 タバコの煙。 先の方だけ、光って見えた髪。 いつかの記憶が、ほんの一瞬、脳裏にひらめく。


どうやってたどり着いたのかもわからない、薄汚い路地裏。 小さな天使と、不安定な点滅をくりかえす緑色の文字が見える。

≪Heaven≫

それはネオンで書かれた天国という言葉。 ドアと壁のわずかな隙間から、一筋、輝く糸のような光が漏れていた。

出会ったのは、誰だ?  ボロボロになっていた俺の髪をかきあげて、ここはお前の来るところじゃない、そう言った。 記憶とも呼べないほどかすかに甦るのは煙草のにおい。 先の方だけ色が抜け、そこが光って見えた髪。


前の冬の終わり頃だったろうか。ひどく酔い、嘔吐物だらけで帰宅したことがある。 そう、確か自室のベッドで目を覚ましたとたん、全身の痛みに驚いたのだ。 なぜか痣だらけで、帰り道の記憶もなかった。

確かあの時、家の者は「昨夜はタクシーに乗ってお帰りでした」と言っていたと思う。 回らない頭で前夜の事を探った俺が、ただ一つ覚えていた言葉は、≪Heaven≫ヘ ヴ ン。 どんなところかもわからない天国。 それは、己の記憶に眠るただ一つの未知なる物。俺が知らない世界。

「あのっ!」

思わず、大きな声をかけていた。 俺の目を奪った男の他に、何人かの運転手がこちらを振り向く。 急に恥ずかしくなり、あわてて目をそらした。 頬だけが熱い。きっと今、俺の顔は真っ赤になっているのだろう。

ごくりとつばを飲み、視線を戻す。 目が合った。 道路の反対側から、あの運転手が俺を見ていた。間違いなく、俺のことを。 少しだけ目を細めて、どこか遠くを眺めているような表情だった。

足元に、境界線がある。 街灯が作る円形の光と、月光が落とす静かな蒼い光との境目だ。 人工的な光の内側で、俺の足は止まっていた。 しがらみを。 弱さを。 自分を縛っていた、何もかもを。 境界線を越えたなら、昨日までの自分を捨てられる気がして。

俺は、大きく一歩を踏み出した。


逃げろ、逃げろ、どこまでも。


寒さに凍った俺の身体を、乾いた暖房の風が温めていく。

「お客さん、どちらまで?」

運転手の声が、心地よく響いた。 乗り込んだタクシーの中は、暗くて暖かで、タバコの匂いがする。

「あの……これで、行けるところまでお願いします……」

俺は財布から、ある限りの金を取り出した。 足りる、だろうか。 不安げな俺をよそに、運転手は紙幣をまじまじと見る。 そして、さもおかしそうに言った。

「そんだけありゃ、2・3日はブッ通しで走っていられる。豪勢だな」

驚いた。 家に運転手が居たから、タクシーにはほとんど乗ったことがない。 タクシー代とは、そんなに安いものだったのか。

「どこまで行きたいんだ?」

彼は運転席から、バックミラーを通して俺を見つめる。 行き先を考えて、ふと浮かんだのは、あの言葉だ。 二度と来てはいけないと言われた気がする。けれど、俺はそこに行きたかった。

≪Heaven≫ヘ ヴ ン、というところに、……お願いします」

口ごもりそうになる自分を励まして、記憶していた言葉を口にする。

返事まで、少し間があった。 くわえタバコをふかしながら、運転席の男が振り向く。

「……アンタの行くとこじゃねぇぜ。前にも言ったろ」

運転手が言った。そっけない顔で。しかし、心配げに。

覚えているんだ。 嬉しくてたまらなかった。 確かに俺はこの男と出会った。それを、覚えているんだ。この人は。 理由なんかない、ただ、嬉しかった。


境界を越え、自由へと逃げろ。


俺を乗せて、タクシーは走る。 もうすぐ辿り着く場所は、確か、裏通り。 いわゆるスラム街。噂にしか聞いたことのないはずの世界。

「いいのか? ここから先は裏通りだ。アンタ、戻れなくなるぜ」

歓楽街を通り過ぎ、街の反対側に出たところで運転手が尋ねてきた。 厳しくて優しい警告が、とても、心地よかった。

タクシーは狭い道に入っていく。 ここが、裏通り。

「……知らねぇぞ、勝手に、」

しろ、と言いかけた運転手が口をつぐむ。そして、こう続けた。

「生きろよ」

とうとつな一言だ。 きょとんとしている俺に対して、彼はかすかに笑っていた。

カーラジオから、渋くて迫力のあるロック音楽が流れてくる。

明日はどうなるかわからない。それでも俺はここに踏み込んだ。自分で行こうと決めて。 何でもいい、生きよう。 そう、思った。


境界を越え、自由へと逃げろ。

誰も明日を、知る者はいない。


Fin.

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 Thanks for your request! お題は「逃亡者」(c)E.YAZAWAでした。
 koraiさんに捧げます。

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