裏通りの夜。 霧が深く立ち込め、時刻はいつの間にか0時になっていた。
古いロックが流れる店内は、着飾った若者が集まってにぎやかだ。 めいっぱいはしゃごうとする夜行性の人々が踊る。 まだまだ、夜はこれから。
「じゃ、そろそろ帰ろうか?」兄は弟の肩を押す。 優しく。 わざとらしいほど、にこやかに。
「兄貴は?」頭一つ分ほど下から、見上げる視線で弟が問う。 帰ろうかと言いながら、立ち止まったまま動かない兄が不審だったのだろうか。
兄は無言で笑顔を返す。首は、横に振るけれど。 心底しぶしぶといった様子で、弟がうなずいた。 赤い髪をした弟の頭をなでながら、兄は満ち足りた顔で微笑む。 弟は軽く頭を振り、子供扱いするなとばかりに嫌がって見せた。
もう子供ではない。 だからわかっているはずだ、兄が示した、言葉ではない返事の意味が。 兄の『仕事』はイレイザー(消す者)。 おそらく彼は、今夜、誰かを消しに行くのだろう。
今日の昼間は洗濯屋の長男坊として、せっせとYシャツの染みを消していた。 そして今からイレイザーとして、ターゲットを消しに行く。 兄にとっても、まだまだ、夜はこれから。
兄は好んで弟と歩く。 弟も拒まず兄について行く。 くだらないことをしゃべりながら、のんびりとした散歩だ。 たいていは行き先も決めない。 裏通りに限らず、表通りでさえも一緒に歩く。 自宅でも、兄弟で無駄話をしていることが多い。もちろん両親とも話すけれど。 弟が友だちとつるまないときには、ほとんど兄がくっついていると言ってもいいほどだ。
兄は、つい先日、家に戻った。 これまで彼は、家族にすら接触せず、大切な『仕事』をこなしていたのだ。
最近になって、やっと『仕事』に一段落がついた。 さらに、腕のいい同業者が仲間になったため、ずいぶんと自由な時間が増えていた。 それで実家に帰ってきたわけだ。 思えば、かれこれ二年ほど失踪していたことになる。
まるで長いこと離れていた時間を取り戻すみたいに、二人は一緒に歩いた。 そんな兄弟が、唯一、別の道を帰る夜。 それは、兄が『仕事』を抱えているときだった。
弟の後ろ姿を見送ってから、兄は静かに暗がりへと溶けた。 本当は、同じ道を歩きたいと思わないわけではない。 一緒に歩いて、同じ家に帰りたいと思わないはずはない。
それでも。
物言いたげな弟に、兄は首を横に振る。 彼は『仕事』に出かけなくてはならないのだ。違う道を通り、違う場所へ。 たとえ途中まででも、一緒には歩けない。
そろそろ帰ろうか、兄は優しく肩を押す。 兄貴はどうする、言葉では問いながらも全てを知った表情で弟が言う。 『仕事』の前には、いつも同じようなやりとりがあった。 父も母もイレイザー(消す者)。 見事なまでの裏家業一家の中で、たった一人、闇に染まらなかった弟。 一族の中でただ一人、暗殺者にならなかった存在だ。 愛おしくて、己と同じ色に染めたくなくて、兄はそっと距離を作る。
兄の得意分野は静かな抹消だ。夜の闇を味方につけて、獲物の元まで忍び寄る。
皮の手袋をはめて、ナイフを準備したら。
たった今、兄は名もなきイレイザーへと生まれ変わった。 弟が去った方向をそっと見た瞳の奥にのみ、優しい兄貴の面影を残して。
イレイザーの唇からため息がこぼれ、こんなささやきが聞こえてくる。 誰を愛することもなく生きていけたら、どれほど楽だろうか、と。 大切だからこそ、苦しくて仕方がないのだろう。 越えられない距離を悲しむと同時に、距離が近づくことを案じて苦しむ。 矛盾する感情は、彼が人間である証だ。
「さぁ、帰ろう……」影に溶けたまま、『仕事』へ向かうイレイザーがつぶやく。 表通りの真ん中に、彼の帰りを待つ仲間がいるのだ。 彼は裏通りを抜け、表通りへと足を進めた。 赤毛の青年はまともな裏通りに、イレイザーは『進化』の炎の中に。
「帰ろう、別々に……」いつか全てが『進化』を遂げて、彼の『仕事』が終わるまで。
兄弟が、別々に帰る日々は続く。