■ Bitter rain

明日が必ずやってくるとは限らない日々。
迷路のように複雑な路地を自在に走る昼と夜。
苦い酒、浴びるように。
窓の外には雨が降る。都会まちをぬらして雨が降る。


しょぼくれた男が一人、雑なしぐさでグラスをあおっている。 カウンターの上には安酒のボトルと男の持ち物らしき眼鏡が並んでいた。 酒の減り具合からすると、男はまだ来たばかりの客らしい。 眼鏡のガラス玉には水滴が見える。 外は雨だったようだ。

ふと、女が男の側に寄ってきた。おそらく、一夜限りの安価な愛を売りに。 しかし、流し目の誘惑に背を向けて、男はさらに酒をあおる。 女があきらめた様子で男の元を去った頃。 カロン、とドアのベルが鳴り、また別の男が入ってきた。


顔色がさえず、痩せた身体の男である。 店の入り口に立った痩身の男は、一通り店内を眺め、カウンターへと足を向けた。

カウンターには先客がいる。 先ほどの、ボトルと眼鏡を並べた男だ。 彼は痩身の男が近づいてきても気に止める風もない。 痩身の男もまた、彼など目にも入らないといった様子で席に着いた。 痩身の男は寒そうに熱い飲み物を頼む。 先客と新しい客は席を一つだけ空けた隣どうしになった。

二人の男の背後ではレトロなジュークボックスが別れの歌を歌っている。 悲しく切なくありふれた、男と女の愛の終りを。 先に口を開いたのは、先客としてカウンターにいた男の方だった。

「……結果は聞かないのか?」

独り言のような、ぼそぼそとした声だ。

「上々……?」

返ってきたのは評価のような問いかけのような痩身のつぶやき。 つぶやくと同時に、痩身の男はハンカチを取り出し、先客へと差し出した。 当然のようにハンカチを受け取り、先客の男は眼鏡をふき始める。

「とっくに知っていたと……」

ガラス玉の水滴をふき取りながら、何気ない風につぶやく。 すっかりきれいになった眼鏡をかけ、先客だった男は薄く微笑んだ。

「知ってたわけじゃない。……あんたを信じただけ、だな」

ほろ酔い気分か、ほんのりと目の端を染めて、痩身が言う。 レンズの奥で、眼鏡の男の細い目が驚きの形を作った。

「信じた、って……」

苦笑とも戸惑いとも取れない笑いで語尾がかすれる。

「おかしいか?」

痩身の男はとりたてて面白くもないらしく、無表情に湯気を立てる飲み物をすすった。

男たちの会話は誰に聞かれることもなく途切れる。 窓の外には雨が降っていた。 雨は都会をぬらす。 排気ガス、生活の臭気、混乱、欲望、毒された何もかもを雫の中に吸い込んで。


ほどなく、眼鏡の男が席を立った。 痩身はそのままカウンターに残る。立ち去る男の背をチラと見たきり、特に動こうとはしない。 店のマスターに軽く右手を上げながら、眼鏡の男は自然な動作で左手を後ろに回した。 左手に握られているのはさっき受け取ったばかりのハンカチだ。

尻のポケットにハンカチを入れて、眼鏡の男は出口へ向かう。 あれほどのペースで飲んでいたというのに男の足取りに揺らぎはない。 外へ出る寸前、男は一瞬だけ立ち止まった。 扉の板を突き抜けて、外を見つめるかのような眼差し。 カロン、とベルが鳴り、店のドアが男の背を隠すように閉じる。

店を出ると、黒くぬれた道路に弱い雨が降りそそいでいた。 眼鏡の男は軒下から出ないまま、おもむろに煙草を取り出す。 男の位置から二・三歩ほど離れた横手の路地に何者かの気配があった。 二人の浮浪者らしき男がしゃがみこんでいる。 生ゴミでもあさっているのか、二人は路地の奥に向いてゴソゴソと動いていた。

安いライターで火をつけて、ふうっと一息、煙を吐く。 すると浮浪者のうち一人が、急に気がついた様子でにじり寄ってきた。

「旦那ァ、煙草一本、もらえませんかぃ?」

話しかけられ、眼鏡の男は細い目をさらに細めた。

「へへ、どうも……」

やる、とも言わないうちに浮浪者二人は互いに笑みを交して立ち上がる。 ずり落ちてきた眼鏡をちょっと上げ、男は素直に煙草を取り出した。 一本ずつ、二人組に煙草を与えているときだ。 突然、男の背後に影が現れた。 すっ……と影から伸びたのは、腕。 眼鏡の男は気づいていないのか、礼を言う浮浪者をただ眺めている。

腕は音もなく宵闇の中に浮かびあがり、あっという間に消えようとした。


ガッ!!


凄まじい力がその腕をつかんだ。 闇に溶けゆく手に握られていたのは先ほどのハンカチだ。 素早い反応に不意をつかれたのか、影はあっけなく引きずり出される。 煙草をせびっていた二人は、何事かとばかりにうろたえた様子で後ずさった。

去りかけた盗人の腕を、眼鏡の男ががっちりと捕えていたのだ。 細い腕をひねられ、商売婦めいた女が苦痛の声をあげる。 よく見れば、少し前、店の中で、酒を飲んでいた眼鏡の男に声をかけた女だった。 いつの間に外に出ていたのだろうか。

ぽとりとハンカチが落ち、浅い水たまりに沈む。

「テメェっ!」

突然、浮浪者に見えていた二人が男に襲いかかった。

眼鏡の奥、瞳が変わる。 鋭い、獲物を狩る猛禽の目に。 プッと空気を吐くような音がして、男の口から朱い光が飛んだ。

「ギャッ」

浮浪者風のうち一人が顔を抑えてひるむ。 狙いは機械のように正確だった。 両目の真ん中、顔の中心部。 思わず目をつぶらずにはいられない場所に吹き矢のごとく煙草が飛んだ。 小さく見える煙草の炎は600度以上もの高温を持っているそうだ。 そんなものを顔で受ければ隙も出来るというものだろう。

片手で女の腕をつかんだまま、眼鏡の男は蹴りを放った。 煙草にひるんだ敵の顔に叩き込まれる皮靴。 靴底と先端が異様に硬いのは何かの仕様か。 蹴られた方は、顔面に受けた衝撃の意味を果たして理解できただろうか。

よろめく仲間の横をすり抜け、残りの一人も迫りくる。 その手の中で何かが光った。 腕を突き出す仕草を見れば、遠目にもナイフか何かを握っているとわかる。

次の瞬間、バチッと弾けるような音がした。 同時に響く短い悲鳴。 どうやらナイフよりたちの悪いものだったらしい。スタンガンだ。

悲鳴の主は女だった。 眼鏡の男がスタンガンの前に彼女を投げ出し、無理やり盾にしたのだ。 その動きには、ひとかけらの迷いもなく。 すべてが消えていた。 店の中で痩身の男と会話していたときのどこか曖昧な微笑みも。 かつて裏通りの若者に見せた、礼儀正しく優しそうな物腰も。 すべて、消えていた。

舌打ちとともに身を引いて、二人組の男たちが逃げていく。 倒れた女の身体の下からハンカチを引き出し、眼鏡の男もまた、悠々とその場を去った。



男が一人、ここにいる。
揉め事処理屋の仮面をつけてフリーの『イレイザー(消す者)』として生きている。
昼に生き、夜に生きる。
表通りと裏通り、光と闇を行き来する。


眼鏡の男は、曲がり角の酒屋で立ち止まった。 店は閉まっている。入り口の軒下で雨宿りをするつもりなのだろう。

男はハンカチを取り出し、小さな刃物で一辺を裂いた。 ハンカチは、薄い薄い二枚の布を合わせた品物だったようだ。 布と布との間に指を入れて動かす。

ほどなく、眼鏡の男は小さな物体を取り出した。 薄っぺらいが丈夫そうなビニールでしっかり包まれている。 大きさは切手より一回りほど小さい。 それは様々な情報を記録できるメモリーカードだった。

先ほどの男たちと女はこのカードを奪おうとしたのだろうか。 彼らの目的は定かではない。 だが、痩身の男がこの眼鏡の男に渡そうとした物には違いあるまい。 おそらくは、指令、資料、必要な諸々の情報をやり取りするために。

そう考える理由は、痩身の男がエージェント −日本語に言いかえれば代理人− だからだ。 頂点に立つ依頼者と、彼らの元に集う者たちを繋ぐ人間。 そして、眼鏡の男が『進化』に生きる『イレイザー』だから、でもある。 彼もまた、【Evolution】に魅せられた一人なのであった。



昼の光は強い。求めなくても届くほど、あまりに強すぎる。
夜の闇は暗い。求めても求めても、どうしようもなく暗すぎる。
昼も夜も変わらないのは、苦い、苦い、この都会の空気だけ。


雨はいつの間にか霧雨に変わっていた。 雲に覆われた天を見上げて、眼鏡の男はなぜか雨の中に踏み出した。 静かな雨、浴びるように。 そっと手を広げて、全身を霧雨の中に投じる。 男はしばらく目を閉じて、冷たい雨を味わっているかのようだった。

やがて、眼鏡にびっしりと水滴がついた頃、男はぶるっと身体を震わせた。 眼鏡を外し、水滴を落としてかけなおす。 霧雨は降り続き、一向にやむ気配はなかった。晴れるのは早くても明日の朝だろう。 男は道に向かって張り出した屋根の下に滑り込み、煙草を一本取り出した。

ざらついた舌で煙草の先をなでる。 火をつけると、苦い香りが広がった。 ふわり、煙が昇る。 もしかすると彼は、雨が上がるまでここにいるつもりかもしれない。 この都会の空気にも似た、苦い煙が消えないように。


Fin.

EXIT  TOP


Thanks for your request! お題は「苦い雨」(c)E.YAZAWAでした。 koraiちゃんに捧げます。

inserted by FC2 system