しょぼくれた男が一人、雑なしぐさでグラスをあおっている。
カウンターの上には安酒のボトルと男の持ち物らしき眼鏡が並んでいた。
酒の減り具合からすると、男はまだ来たばかりの客らしい。
眼鏡のガラス玉には水滴が見える。
外は雨だったようだ。
ふと、女が男の側に寄ってきた。おそらく、一夜限りの安価な愛を売りに。
しかし、流し目の誘惑に背を向けて、男はさらに酒をあおる。
女があきらめた様子で男の元を去った頃。
カロン、とドアのベルが鳴り、また別の男が入ってきた。
顔色がさえず、痩せた身体の男である。
店の入り口に立った痩身の男は、一通り店内を眺め、カウンターへと足を向けた。
カウンターには先客がいる。
先ほどの、ボトルと眼鏡を並べた男だ。
彼は痩身の男が近づいてきても気に止める風もない。
痩身の男もまた、彼など目にも入らないといった様子で席に着いた。
痩身の男は寒そうに熱い飲み物を頼む。
先客と新しい客は席を一つだけ空けた隣どうしになった。
二人の男の背後ではレトロなジュークボックスが別れの歌を歌っている。
悲しく切なくありふれた、男と女の愛の終りを。
先に口を開いたのは、先客としてカウンターにいた男の方だった。
「……結果は聞かないのか?」
独り言のような、ぼそぼそとした声だ。
「上々……?」
返ってきたのは評価のような問いかけのような痩身のつぶやき。
つぶやくと同時に、痩身の男はハンカチを取り出し、先客へと差し出した。
当然のようにハンカチを受け取り、先客の男は眼鏡をふき始める。
「結果はとっくに知っていたと……」
ガラス玉の水滴をふき取りながら、何気ない風につぶやく。
すっかりきれいになった眼鏡をかけ、先客だった男は薄く微笑んだ。
「知ってたわけじゃない。……あんたを信じただけ、だな。」
ほろ酔い気分か、ほんのりと目の端を染めて、痩身が言う。
眼鏡の奥で細い目が驚きの形を作った。
「信じた、って……」
苦笑とも戸惑いとも取れない笑いで語尾がかすれる。
「おかしいか?」
痩身の男はとりたてて面白くもないらしく、無表情に湯気を立てる飲み物をすすった。
男たちの会話は誰に聞かれることもなく途切れる。
窓の外には雨が降っていた。
雨は都会をぬらす。
排気ガス、生活の臭気、混乱、欲望、毒された何もかもを雫の中に吸い込んで。
ほどなく、眼鏡の男が席を立った。
痩身はそのままカウンターに残る。立ち去る男の背をチラと見たきり、特に動こうとはしない。
店のマスターに軽く右手を上げながら、眼鏡の男は自然な動作で左手を後ろに回した。
左手に握られているのはさっき受け取ったばかりのハンカチだ。
尻のポケットにハンカチを入れて、眼鏡の男は出口へ向かう。
あれほどのペースで飲んでいたというのに男の足取りに揺らぎはない。
外へ出る寸前、男は一瞬だけ立ち止まった。
扉の板を突き抜けて、外を見つめるかのような眼差し。
カロン、とベルが鳴り、店のドアが男の背を隠すように閉じる。
店を出ると、黒くぬれた道路に弱い雨が降りそそいでいた。
眼鏡の男は軒下から出ないまま、おもむろに煙草を取り出す。
男の位置から二・三歩ほど離れた横手の路地に何者かの気配があった。
二人の浮浪者らしき男がしゃがみこんでいる。
生ゴミでもあさっているのか、二人は路地の奥に向いてゴソゴソと動いていた。
眼鏡の男が、ふうっと一息、煙を吐く。
すると浮浪者のうち一人が、急に気がついた様子でにじり寄ってきた。
「旦那ァ、煙草一本、もらえませんかぃ?」
話しかけられ、眼鏡の男は細い目をさらに細めた。
「へへ、どうも……」
やる、とも言わないうちに浮浪者二人は互いに笑みを交して立ち上がる。
ずり落ちてきた眼鏡をちょっと上げ、男は素直に煙草を取り出した。
一本ずつ、二人組に煙草を与えているときだ。
突然、男の背後に影が現れた。
すっ……と影から伸びたのは、腕。
眼鏡の男は気づいていないのか、礼を言う浮浪者をただ眺めている。
腕は音もなく宵闇の中に浮かびあがり、あっという間に消えようとした。
ガッ!!
凄まじい力がその腕をつかんだ。
闇に溶けゆく手に握られていたのは先ほどのハンカチだ。
素早い反応に不意をつかれたのか、影はあっけなく引きずり出される。
煙草をせびっていた二人は、何事かとばかりにうろたえた様子で後ずさった。
去りかけた盗人の腕を、眼鏡の男ががっちりと捕えていたのだ。
細い腕をひねられ、商売婦めいた女が苦痛の声をあげる。
よく見れば、少し前、店の中で、酒を飲んでいた眼鏡の男に声をかけた女だった。
いつの間に外に出ていたのだろうか。
ぽとりとハンカチが落ち、浅い水たまりに沈む。
「テメェっ!」
突然、浮浪者に見えていた二人が男に襲いかかった。
眼鏡の奥、瞳が変わる。
鋭い、獲物を狩る猛禽の目に。
プッと空気を吐くような音がして、男の口から朱い光が飛んだ。
「ギャッ」
浮浪者風のうち一人が顔を抑えてひるむ。
狙いは機械のように正確だった。
両目の真ん中、顔の中心部。
思わず目をつぶらずにはいられない場所に、吹き矢のごとく煙草が飛んだ。
小さく見える煙草の炎は600度以上もの高温を持っているそうだ。
そんなものを顔で受ければ隙も出来るというものだろう。
片手で女の腕をつかんだまま、眼鏡の男は蹴りを放った。
煙草にひるんだ顔に叩き込まれる皮靴。
靴底と先端が異様に硬いのは何かの仕様か。
蹴られた方は、顔面に受けた衝撃の意味を果たして理解できただろうか。
よろめく仲間の横をすり抜け、残りの一人も迫りくる。
その手の中で何かが光った。
腕を突き出す仕草を見れば、遠目にもナイフか何かを握っているとわかる。
バチッと弾けるような音がした。
同時に響く短い悲鳴。
どうやらナイフよりたちの悪いものだったらしい。スタンガンだ。
悲鳴の主は女だった。
眼鏡の男がスタンガンの前に彼女を投げ出し、無理やり盾にしたのだ。
その動きには、ひとかけらの迷いもなく。
すべてが消えていた。
店の中で痩身の男と会話していたときのどこか曖昧な微笑みも。
かつて裏通りの若者に見せた、礼儀正しく優しそうな物腰も。
すべて、消えていた。
舌打ちとともに身を引いて、二人組の男たちが逃げていく。
倒れた女の身体の下からハンカチを引き出し、眼鏡の男もまた、悠々とその場を去った。
男が一人、ここにいる。
揉め事処理屋の仮面をつけてフリーの『イレイザー(消す者)』として生きている。
昼に生き、夜に生きる。
表通りと裏通り、光と闇を行き来する。
眼鏡の男は、曲がり角の酒屋で立ち止まった。
店は閉まっている。入り口の軒下で雨宿りをするつもりなのだろう。
男はハンカチを取り出し、小さな刃物で一辺を裂いた。
ハンカチは、薄い薄い二枚の布を合わせた品物だったようだ。
布と布との間に指を入れて動かす。
ほどなく、眼鏡の男は小さな物体を取り出した。
薄っぺらいが丈夫そうなビニールでしっかり包まれている。
大きさは切手より一回りほど小さい。
それは様々な情報を記録できるメモリーカードだった。
先ほどの男たちと女はこのカードを奪おうとしたのだろうか。
彼らの目的は定かではない。
だが、痩身の男がこの眼鏡の男に渡そうとした物には違いあるまい。
おそらくは、指令、資料、必要な諸々の情報をやり取りするために。
そう考える理由は?
痩身の男が、エージェント −日本語に言いかえれば代理人− だからだ。
頂点に立つ依頼者と、彼らの元に集う者たちを繋ぐ人間。
そして、眼鏡の男が『進化』に生きる『イレイザー』だから、である。
彼もまた、【Evolution】に魅せられた一人なのであった。
昼の光は強い。
求めなくても届くほど、あまりに強すぎる。
夜の闇は暗い。
求めても求めても、どうしようもなく暗すぎる。
昼も夜も変わらないのは、苦い、苦い、この都会の空気だけ。
雨はいつの間にか霧雨に変わっていた。
雲に覆われた天を見上げて。
眼鏡の男は、なぜか、雨の中に踏み出した。
静かな雨、浴びるように。
そっと手を広げて、全身を霧雨の中に投じる。
男はしばらく目を閉じて、冷たい雨を味わっているかのようだった。
やがて、眼鏡にびっしりと水滴がついた頃、男はぶるっと身体を震わせた。
眼鏡を外し、水滴を落としてかけなおす。
霧雨は降り続き、一向にやむ気配はなかった。晴れるのは早くても明日の朝だろう。
男は道に向かって張り出した屋根の下に滑り込み、煙草を一本取り出した。
ざらついた舌で煙草の先をなでる。
火をつけると、苦い香りが広がった。
ふわり、煙が昇る。
もしかすると彼は、雨が上がるまでここにいるつもりかもしれない。
この都会の空気にも似た、苦い煙が消えないように。
Thanks for your request! お題は「苦い雨」(c)E.YAZAWAでした。
5000番、koraiちゃんに捧げます。
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