■ GET UP

『どうしても駄目ですか。……頼みます、もう一度よく考えてみてくだ ―― 』
「今更、俺の出番でもないでしょう」

電話越しに届く懐かしい声をさえぎる。 久しぶりに聞く彼の声は、少しだけ、老けていた。

『いいえ、あなたしかいない。我々はあなたを求めているのです。手を貸してくれる気にはなりませんか』

俺は答えない。いや、答えられない。

『わかりました。今日のところは引きましょう。 しかし、覚えていてください。 我々が……いいえ、私が、あなたの相棒が待っているのは、あなただけです』

電話の向こうで静かに受話器が置かれる。この切り方は変わっていない、昔のままだ。

俺に、戻って来いと?  安全な場所と安定した生活を捨てて?  そう考えると、急に家族の顔が浮かんだ。

娘は最近、仕事の愚痴をよくこぼす。 孫たちの笑顔はひたすら可愛い。 妻との会話はテレビ番組に気を取られながら……。お決まりの夜、情事はいつも金曜日。 充たされている、日々、と、思っても、どこか、   虚 し い …… ?



かつての相棒から連絡があったのは、昨夜のことだ。 もちろん、断った。 昔は無鉄砲だったのにすっかり落ち着いてしまいましたね、などと言われた。 変わったのはお互い様だ。なにせ、あの頃はまだ下っ端だった彼が、今では並ぶもの無き重鎮なのだから。

電話の内容は、第一線に戻ってこないかというものだった。 裏の世界へ。 明るい表の世界に身をおいてもうずいぶんと経つ。今更、裏に戻る気にはなれなかった。

テラスに面した窓を開ける。 冷たく湿った夜の空気が流れ込んでくる。 深呼吸を一つして、テラスに出た。寝静まった家族を起こさぬようにそっと窓を閉める。

空を見上げる。 郊外にある我が家のテラスからは星がよく見える。だが、残念ながら今夜の天気は薄曇りだった。 伸ばした手を天空にかざす。 掌が埋まるのは粘っこい闇の中だ。晴れ間があるのか、指の間に小さな星が見えた。 つかむ。 掌を開く。つかみ取ったのは、ただ、虚無だけ。

足りない。

昨夜から正体の知れない飢餓感に襲われている。気づかないふりで自分を騙すのもそろそろ限界だった。 何かが足りない気がする。 砕け散った皿の破片が、一つだけ足りないような……。 元の形に戻そうとしても、うまく戻らないような……。 そんな気分だ。たまらなくもどかしい。

足りない。足りない。 何だ。 この胸の奥底で、声を上げて泣きわめくものは。 足りないと叫び、焼けるほどにうずいているのは。 ぼんやりと霞む記憶を探り、どこかにあるはずの破片を探す。

進化。 電話で聞いた単語が脳裏をかすめる。

『EVOLUTION、すなわち進化と呼ばれる動きが、今、裏の世界全体を揺さぶっています……』

昨日聞いた声が耳の奥でよみがえった。

進化、か……。

ふと退化という言葉を連想してしまい、思わず苦笑した。 退化。 なぜか思ったのは自分の姿だ。 電話の彼と共に駆け回っていた頃、自分はあふれるほどの闘志を身にまとっていた。 心はいつでも止められないほど暴れていた。 確かめる必要も無いほどに、生きているという実感を持っていた。

今は……?

また苦笑を浮かべる。笑ってみると飢餓感はますます強く胸を襲った。 平穏な日常の中で、何か、失くしていったものがあるのだろうか。 目の前にある一瞬だけを生きていたあの頃には、特に思う必要も無かったもの……?

夢……?

あったような気がする。 始めから無かった気もする。 ……もう、わからない。

無くなったものどころか、かつての自分がどこに行ったのかすらわからなくなる。 かつての自分はどこへ行ったのか。あの日、確かに生きていた若者は?  そうだ。 俺は、どこへ行った?

何か見つけた気がして、俺は闇を見つめた。 ヘッドライトとネオンが暗闇の中に浮かび上がる。街は今夜もきらびやかな装いだ。 あの、街で。 進化派と反対派がしのぎを削っているらしい。 今の俺には関係の無い話だ。

街の明かりに背を向けて、窓に目をやった。 窓ガラスには自分の姿がうっすらと映っている。 そのまま部屋に戻ろうと窓に近づいた時だ。 突然、窓に映った自分の顔が幻のように若返った。

≪ 起 き ろ 、 目 を 覚 ま せ ≫

若き日の自分が叫ぶ。 目を閉じ、頭を振って見直してみれば、疲れた顔の自分がいるだけだ。 ただの鏡像だった。 薄い影、実体までもが色あせたような錯覚に襲われる。

くたびれた今の自分は、他の誰もと同じ顔をしていた。 そう、例えば、街角ですれ違った誰かと。 乗りこんだ路線バスの四角い車内にひしめいていた客たちと。 会社勤めのサラリーマン、同じバス停で降りた女、名前も知らないその他大勢と。 際立った特徴を持たない歯車のような人間たち。 誰もが社会を回すために必要な部品だ。 無くてはならないパーツ、ただし、予備ならいくらでもある。

足りねぇ。

ドッと音を立てて、分厚いガラスに寄りかかる。 全体重をかけて何度も押してやると、窓の金具がきしんだ音を立てた。 俺は、俺はどうしてしまったのだろう。 いったい何が虚しくてこんなにイラついているのだろう。

眼を閉じると、二人の若者の顔が浮かんだ。 EVOLUTIONを起こしたという二人の、まだ若く、あどけなささえ残っていた頃の顔が。 俺が第一線にいた頃、挑んでくるたびに叩き伏せてやったのだった。 戦い方を教えてやった小僧どもが今ではトップクラスの有力者とは、俺も年を取るはずだ……。

『彼らの狙いは市場の独占を打破すること、ということになっています。 しかし、他に何か理由となるものがある気がしてなりません。それが何かはまだわかりませんが……。 ただ、一つだけはっきりと言えることがあります。 このままでは、彼らは、我々が築いた世界をひっくり返してしまうでしょう……』

また、電話の言葉がよみがえった。 世界を、か。

「……むしろ時代と言った方がいいんじゃないですか? そろそろ、世代交代なんですよ、きっと」

昨日は言えなかった言葉を、低く、低くつぶやく。 まぶたの裏で二人が笑う。あの日、からかい半分でかまってやった若者たちが。

足りねぇ!

カッと眼を見開く。 ほとんど無意識のまま、俺は分厚い窓ガラスを叩き割っていた。 けたたましい音をたて鏡像が砕け散る。

ぐるぐると渦巻く記憶たち。穏やかな相棒の微笑、駆け出しだった俺、仲間、敵、あの日のメロディー、あの二人。 俺は記憶の奥で笑っている若い二人に叫んだ。 まだ逆らうのか、また歯向かうのか、この俺に!  俺と相棒と、俺の仲間たちがつかんだ、この時代に!  この時代を勝ち取ったからこそ、俺は平和に生きていた。 そうだ。 そうだった。 この世界こそ俺の夢だった。 この世界を手に入れる戦いこそ、俺の全てだった。 なぜ今まで忘れていたのか。

呼気が震える。 動くのか、俺は。 俺は、動きたかったのか? あの街で、昔のように? 昨夜の電話を受けたときから、ずっと?

唇から言葉があふれる。

「目覚めろ、……今だ、今すぐに」
そうだ。
目覚めろ、俺自身。

また笑っている二人の残像を振り払う。 壊したいのか、変えたいのか、この世界を。 させねぇな。 俺が築いたこの世界を壊させはしない。 俺たちがつかんだ大切な夢をお前たちに譲るだなんてとんでもない。世代交代? クソでも喰らってろ!

お前たちはかつての俺だ。 俺にはわかる。お前たちはきっと変わった後の世界が欲しいのではない。 戦う理由は金でもない。色恋沙汰でもない。 ただ、今が欲しいのだろう。熱く燃え上がり、いっそ焦げてしまいそうなほどに激しい今だけが。

もう一度、闇にかざした掌を握り締める。 脱け出せ、俺よ。この安全な暮らしと色あせた自分から。

俺は街の明かりをにらむために振り向いた。赤、白、青、緑、色とりどりの明かりがちらちらと揺れている。 今すぐに電話をかけよう。そして、明日早くに……違う、今すぐに車を飛ばして相棒を訪ねよう。

俺は己を揺さぶり起こす。きっと、この掌で。 目覚めろ俺よ。EVOLUTIONだと? くたばれ!  待っていろ、小僧ども。お前たちとやりあうことが何よりの望みだ。 俺はガラスの破片を踏みつけ、車の鍵を取りに部屋へと向かった。

さぁ、行こうじゃないか、あの街へ。


俺を探しに。

Fin.

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Thanks for your request! お題は「GET UP」(c)E.YAZAWAでした。
koraiさんに捧げます。

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