■ But he knows how blue the sky is

The frog in the well knows nothing of the great ocean.

そんな言葉があるのだそうだ。

『井戸の中に住む蛙は海の広さを知り得ない』

外国の思想家の言葉だそうで、確か兄か父親に教えてもらったのだと思う。 あれはいつのことだったろう。 そのときは何とも思わなかった。 だって意味自体がよくわからなかったんだ。それじゃ何の感想も持ちようがない。

この言葉を思い出したのは昨夜のこと。 本棚の整理をしていたら古い小説を見つけたんだ。 安っぽいペーパーバックで、今にもバラバラになりそうなくらい傷んでいた。 子供向けの有名なお話だ。 懐中時計を持ったうさぎを追いかけて穴倉へ飛び込んだ女の子の話。

ぱらぱらとめくってみるといくつかの挿絵が目についた。 羽ペンのような線で描かれた絵。 小さい頃はこの絵柄があまり好きじゃなかったっけ。 本の真ん中辺りにはしおりが挟んであった。 絵本か何かのような画風で、椅子に座った緑の蛙が印刷されている。 それで、ふと思い出した。


The frog in the well knows nothing of the great ocean.(井の蛙 大海を知らず)


反射的に顔が歪んだ。 ひどく嫌な気分だ。

―― 世間知らず。

嘲笑混じりに投げかけられた、誰かの言葉と重なったから。


俺の家は裏通りにある。 両親と兄貴と一緒に、生まれたときからここに住んでいる。 裏通りとは要するにスラムのことで。 ここは家さえ持たない人が大勢いる場所。 ほぼ毎日飯が食えて、屋根の下で眠り、商売さえ営む我が家は比較的裕福な方だ。

『お坊ちゃんは世間を知らねぇからよ。』

そんな言葉で揶揄されることがあった。 食うにも困ったことのないやつには世の中のことなんかわからないだろう、と。 心外だった。 むしろ学校にだって通ったことのある俺の世界は、裏通りしか知らない連中より広いはずなのに。

昨夜は蛙になった夢を見た。 塩辛い涙の海をちゃぶちゃぶと泳ぐ。どこまでも岸が見えない。僕は疲弊していく。 きっと蛙の話とアリスの一場面がごちゃ混ぜになったんだろう。 泳ぎ疲れてため息をついたところで目が覚めた。

寝覚めの悪い朝。 朦朧とした頭で夢と記憶に甦った言葉を反芻する。 もし蛙になった自分が、元は井戸の中にいたのだというのなら。 あんな海になんか出たくなかった。 危険の無い井戸の中だけを知っていられたらよかったのに。 そう思ってから、酷く不愉快になった。 なんて狭いことを考えているんだろう、俺は。 ちっぽけな存在。 俺はこんな自分が大嫌いだ。

適当に髪を整えてパジャマのまま店側をのぞいた。 うちは洗濯屋をやっていて、家から店舗に出る小さなドアがあるのだ。 首だけ出してのぞいた先には兄が座っていた。

「おはよう。すごいな、それ」

寝癖のついたままの頭を指さされ、なんとなく笑う。 兄はカウンターの下に手を入れて何かゴソゴソと動いていた。 よく見ると、兄の手の中にはナイフが数本。

「仕事?」

ナイフをあごでしゃくって問いかける。 何気ない口調で言ってやったせいか兄は優しげな顔でふっと苦笑をもらした。

「そんな普通に聞くなよ」

昼間は洗濯屋の手伝いをしているけれど、兄の本業は『イレイザー』と呼ばれるものだ。 消す者。 消されるのは人間。 もちろん公にできることじゃないけれど、この町では珍しい仕事じゃないと思う。

「仕事なの? 今日」
「だから普通に聞くなって」

困ったような微笑をたたえたまま、兄は質問に答えない。

「どうせ行くんだろ」

そう言うと、兄はちょっとこちらを見てこう言った。

「まぁね」
「……嫌じゃないの」

ナイフを磨く手元を見たまま、俺は低くつぶやく。

「しかたないよ」

兄は視線を落として答えた。 黒い柄に銀色の刃をした細身のナイフたち。 柔らかい皮で丁寧に磨かれて出番を待っている。たぶん、出番は今夜。

カランとベルが鳴って店のドアが開いた。

「いらっしゃいませ!」

兄は急いで立ち上がる。 ナイフは一本残らずエプロンのポケットに滑り込んだ。 ポケット越しに自分に刺さったりはしないんだろうか。 いや、もし刺さるリスクがあったとしても、そこに隠さずにはいられないんだろう。

ああ。 隠すくらいならやらなきゃいいんだ。

「ありがとうございました」

洗濯物を取りに来た客をドアの影から見送って、俺はまた兄の前に顔を出した。

「兄貴」

背後からの呼びかけに兄が振り向く。 さっきの会話の続きで、俺は彼にこう問いかけた。

「何がしかたないんだよ」

兄は少し考えたふうにしてから、ああ、ともらして微笑む。

「さっきの話か。それは……もう乗り込んだ船だからね」

揺らぐように困り顔と微笑みの間を行ったり来たり。 そんな兄の表情が妙に癇に障って、俺はつい吐き捨てる口調になった。

「降りればいいんだ」

乗り込んでしまった船ならば。 そう吐いた俺の顔をちらと見やり、兄はどこか嬉しそうにささやく。

「降りてどこへ行く?」

少し間があった。 俺が答えを見つける前に兄は言葉を続ける。

「船を降りたら歩ける場所なんてないよ。 そもそもお日様の下を歩けるようなご身分じゃないからね。だろ?」

同意を求める口調はどこかおどけていて。 俺はなぜか悲しくなって、無理に強がって見せる。

「そんなの理解できない」

つんけんした態度に何を感じたのだろうか。 兄貴はますます嬉しそうに微笑んで、そうかぁ、と息を吐いた。

「お前もいつかわかっちゃうのかな」

囁かれた言葉は寂しげな色。 理由の知れない悲しみがいよいよ深くなって、のどの奥に涙が詰まる。 わかるもんか。 そう思っても言葉が口に出せない。

「あんまりわかって欲しくないんだけどね」

やっと聞こえるかどうかの小さな声でそう付け足して、兄は笑った。

彼の世界には太陽がないのだろうか。 店側から家の奥に引っ込みつつ、そう思う。 太陽の下を歩けないと言う彼が堂々と乗る船とはどんな世界を行くものなのだろう。 暗い海、天井を覆うの漆黒の夜空。星すらもない空には紅くにやつく奇妙な月。 そんな情景が思い浮かんで顔をしかめた。 まるで子どもじみた空想の世界だと思えたから。

きっと。

現実にあるのはごく当たり前の世界なんだろう。 その世界には陽が当たらないのかもしれない。 けれど、今さっき想像したような悪魔が出そうなおどろおどろしい世界でもない。 それを知っているのに、わかろうともしない。

わかりたくないからだ。 受け止められないじゃないか。 自分のすぐ隣に、まるで当たり前の世界の続きに非日常があるなんて。 ナイフで命のやり取りするなんて映画じゃあるまいし。

そんなことは考えたくない、考えられない。 そんな世界の話なんか聞こうとも思わない。 怖いから、かもしれない。 たぶんそうなんだろう。 詳しく知ってしまったら全部を受け入れる自信がないから。 俺はこのまま生きていくんだろう。 表の世界だけしか知らないまま、狭い井戸の中で。

―― 世間知らず。

父も母も兄も、裏の世界に生きるイレイザー一家。 そこに生まれながら同じ仕事に関わらずに生きている自分。 そんな自分を指して、昔、父の仕事仲間だったというある人が笑った。


『お坊ちゃんは世間を知らねぇからよ。裏の話なんかしてもわかんねぇなぁ。』


わからなくなんかない。でも、知りたくないんだ。 そう思うのは無知を認めないための言い訳だろうか。

一日を終えた、夕食の後。 兄に昼の間にうろうろと考えたことを話してみた。

「それは違うと思うよ」

そう言って、兄は俺の目の奥を静かにのぞきこんだ。

「お前は自分がいる世界の他にも別世界がある事を知ってる。 ただ、別世界をのぞかないことを選択してるだけの賢い人間だよ。 だから、それで十分、世間知らずなんかじゃないと思う」

それは期待通りの言葉で、俺は少しだけ、ほんの少しだけ得意な気分になって。

でも、と思う。

兄貴はそう言うけれど、やっぱり自分は井戸の中の蛙なのかもしれない。 ちっぽけな蛙。 海の広さを知らず、狭い井戸の中を世界の全てだと信じてる。 この井戸の中だけでずっと生きていけるのだと。

翌朝は快晴だった。

友だちに会う約束を持って、俺は街へと繰り出す。 迷い。 知らない劣等感と知ろうとしないことを選んだ優越感。 ぐるぐる淀む心を抱えて街を歩く。

俺はまだ井戸の中の蛙のことを考えていた。 井戸の中に住む蛙は、その狭い世界で充実した人生を遅れるのだろうか?  やっぱり広い世界を知るものには劣る存在にしかなれないのだろうか。 俺は、このままでいいのだろうか?

そのとき、前方で声を上げる人がいた。 約束を交わした友だち二人組だ。ふざけあい、頼りあういつもの仲間たち。 ふと、思い至った。 ああ、そうだ。 こいつらは裏の世界のことなんか何も知らないじゃないか。 でも良く生きている。楽しく、しぶとく。しかも最高にいいやつらだ。

空を見上げた。 薄汚い街を遥かに見下ろし、晴れ上がる朝空はまさしく空色そのものだ。 それは太陽を抱えた空の色。 陽の差さない世界の空とは、きっと違う色。 このままでいいと思った。 兄や他の自分を取り巻く人々とは違う空かもしれないけれど。 俺たちの空は青いままでいいんだ、と。

このままで生きていける気がした。 限りなく青く。そう、青いままで。


Fin.

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