「おっ? なんだこいつ。」
誰かが言う。
頭がガンガンして、何が何だかわからない。目の前が真っ白だ。
なんとか意識を取り戻し、ほんの少しだけ身を起こした。開いたドアを避けるためだ。
ドアの向こうには、まぶしいほどの光があふれていた。
人影がいくつか目に入ったが、どんな様子の人々かは逆光でよく見えない。
何が起こっているのかなどと考えることすらできないでいた。
人影のうち一つが、他の影たちに、先に行け、とあごで合図をしている。
一人か二人、影が出ていく。他の影が立ち去ってから、一人の影はドアを閉めた。
「兄ちゃん。」
声が聞こえた。
いったい何が起こっているのだろう。
確かさっき、殴られながら、殺されるんだな、と思ったのだ。
意識を失いながら、これで死ぬんだ、とも思った。
「おい。」
また、声が聞こえた。
視線を上げる。
声の主は男だった。ドアを背に自分の傍らにしゃがんでいる。年のころは三十代後半、といったところか。
ぼんやりと男の顔をながめながら、自分はもう死んでいるのだろうか、と考えていた。
男はくわえタバコを手に移し、軽く灰を落とした。
「どうした、兄ちゃん。」
男が言った。そっけない顔で。しかし、心配げに。
答えられなかった。
ただ、ハァと強めに息を吐くのが精一杯だ。さっき吐いた酒の熱でむせ、ひどく咳きこんだ。
涙があふれる。しばらくの間、ぜぇぜぇと荒い呼吸を無理に整えようとあがいた。
手が、額から髪全体をかき上げていった。
自分の手じゃないな、と思った。そこではじめて、自分以外の人間がこの場にいることに気がついた。
男の姿は見えていても、存在を知覚できていなかったのだ。
「ここは……。」
つぶやいた。かすれた声だ。普段の自分の声とは似ても似つかない。
「ここか?」
男が、親指で後ろのドアを指さした。
閉じたドアと壁のわずかな隙間から、一筋の糸のように光がこぼれている。
視線を上へ滑らせる。ドアの上のほうに小さな天使が二人、緑色の文字をはさんで光っていた。
それがネオンであることまでは理解できなかった。緑色の文字は、不安定にまたたいて今にも消えそうだ。
「Hea……ve……n……。」
ぼそぼそと読み上げてみる。
天国(ヘヴン)。
隣りで、男がふんと鼻を鳴らした。視線を下ろして、男を見やる。
跳ねあがるような格好の髪が目に入った。
黒っぽい髪に入った白っぽいメッシュが妙に目立つ。そこだけ光って見えた。
男の手元からふわりとゆれるタバコの煙に、背後のドアからもれ出す細い光がくっきりと浮かび上がる。
「あの……、あんたは、天使?」
男のほうを小さく指差しながら言った。
「あン?」
男が素っ頓狂な声を出した。
「俺…、死んだ……?」
先程から気になっていたことだ。
男はしばらく面食らったような表情でこちらを見返していた。戸惑った風に首を傾げ、ドアを振り返る。
ふいに、男が笑いをもらした。
「は、は、は、は……、くくく……。」
男は耐えがたい様子で笑い続ける。押し殺した笑い声が、不思議と耳に心地よかった。
男はゆっくりとこちらに向き直った。
「おい、兄ちゃん。」
男が言った。
「ここは天国じゃない。まだ死んじゃいないぜ!――――――
酒、麻薬、賭博、淫色、そして暴力。
この界隈には、そんなものがあふれている。
一見は隙間なく整って見える大都市の中にありながら、ここだけはまともなルールが通用しないのだ。
いわば、都会の影の顔である。
迷い込んではいけない。
まともな人生とお別れしたくないならば、とにかく近づかずにやり過ごすのが一番いい。
そんなこの界隈で、最も危険な店がある。
治安の悪さから、野良犬も寄りつかない、とうそぶかれるあたりで、最も危険なルールがまかり通る店。
その店を見つけたら、何はともあれ背を向けることだ。間違っても入るべきではない。
店の名は ≪Heaven≫ 。あまり派手な看板はない。
唯一、入り口のドアに光っている、小さな天使と緑色のネオン文字だけが目印だ。
≪Heaven≫ という、危険な天国。