■ Heaven

目を開けた。

まだ頭の後ろが鈍く痛む。 それがしこたま飲んだ酒のせいなのか、先の乱闘騒ぎの結果なのかはよくわからなかった。 視界の右半分が、ぼやけてよく見えなかった。 きっと、右目を強く殴られたのだろう。

だんだんと感覚が戻ってくるにつれ、痛みは全身に広がっていった。 焼けるような痛み。鈍い痛み。鋭い痛み。顔、腹、手足、とにかく全てが痛かった。 不意に激しい嘔吐感が込み上げてきた。吐くと、嘔吐物が口からあふれ、両頬を伝って耳にかかった。

あおむけに倒れていたらしい。息苦しさのあまり、必死で起き上がろうとした。 うまく起きられない。どうにか四つん這いになって吐き直した。喉が焼けるほど熱い。

「水……」

思わずつぶやく。応えるものなど、何一つない。

地面に嘔吐物の水たまりができる。 中身は、酒ばかりだ。飲めもしないくせに無理やり飲みまくったツケだった。

どこかの暗い路地裏にいるらしい。じめじめした空気が冷たく身体を冷やした。 何とか吐き気が治まっても、全身の痛みは変わらない。 重い身体を引きずるようにして自分の吐いたものを避け、地面に伏した。

ここはどこなのだろう。あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。

どうやってここまで来たのか、何も覚えてはいなかった。 ただ、複数の人間に殴られた記憶がある。 理由は忘れた。 最初から知らなかったのかもしれない。たぶん、くだらない因縁でもつけられたのだろう。 何人がかりで殴られたのかはわからないが、殺されるな、と思ったのは確かだ。

いつまでも伏せているのも嫌だと思った。 立って歩きたかったが、とても無理だ。ずるずると這いずるように移動する。 壁際に座り込んだ。壁を背もたれにして、両足を投げ出す。 やっと、休める。 そう思った。

どこからか、音楽が聞こえてきた。 力強いベースの音に交じって、人間の声も聞こえる。引き寄せられるように、そちらに顔を向けた。

今まで気がつかなかったが、自分のすぐ脇に黒っぽいドアがあった。 ドアだと理解する前に、なんとなく、ドアの方に身体ごと頭を傾ける。と、ドアが勢いよく開いた。 ドアが頭に当たる。ごっ、と景気のいい音が響く。



「おっ? なんだこいつ」

誰かが言う。 頭がガンガンして、何が何だかわからない。目の前が真っ白だ。

なんとか意識を取り戻し、ほんの少しだけ身を起こした。開いたドアを避けるためだ。 ドアの向こうには、まぶしいほどの光があふれていた。 人影がいくつか目に入ったが、どんな様子の人々かは逆光でよく見えない。

何が起こっているのかなどと考えることすらできないでいた。 人影のうち一つが、他の影たちに、先に行け、とあごで合図をしている。 一人か二人、影が出ていく。他の影が立ち去ってから、一人の影はドアを閉めた。

「兄ちゃん」

声が聞こえた。

いったい何が起こっているのだろう。 記憶を反芻する。 確かさっき、殴られながら、殺されるんだな、と思ったのだ。 意識を失いながら、これで死ぬんだ、とも思った。

「おい」

また、声が聞こえた。

視線を上げる。 声の主は男だった。ドアを背に自分の傍らにしゃがんでいる。年のころは三十代後半、といったところか。 ぼんやりと男の顔をながめながら、自分はもう死んでいるのだろうか、と考えた。

男はくわえタバコを手に移し、軽く灰を落とした。

「どうした、兄ちゃん」

男が言った。そっけない顔で。しかし、心配げに。 答えられなかった。 ただ、ハァと強めに息を吐くのが精一杯だ。さっき吐いた酒の熱でむせ、ひどく咳きこんだ。 涙があふれる。しばらくの間、ぜぇぜぇと荒い呼吸を無理に整えようとあがいた。

手が、額から髪全体をかき上げていった。 自分の手じゃないな、と思った。そこではじめて、自分以外の人間がこの場にいることに気がついた。 男の姿は見えていても、存在を知覚できていなかったのだ。

「ここは……」

つぶやいた。かすれた声だ。普段の自分の声とは似ても似つかない。

「ここか?」

男が、親指で後ろのドアを指さした。 閉じたドアと壁のわずかな隙間から、一筋の糸のように光がこぼれている。 視線を上へ滑らせる。ドアの上のほうに小さな天使が二人、緑色の文字をはさんで光っていた。 それがネオンであることまでは理解できなかった。緑色の文字は、不安定にまたたいて今にも消えそうだ。

「Hea……ve……n……」

ぼそぼそと読み上げてみる。 天国(ヘヴン)

隣りで、男がふんと鼻を鳴らした。視線を下ろして、男を見やる。 跳ねあがるような格好の髪が目に入った。 黒っぽい髪に入った白っぽいメッシュが妙に目立つ。そこだけ光って見えた。

男の手元からふわりとゆれるタバコの煙に、背後のドアからもれ出す細い光がくっきりと浮かび上がる。

「あの……、あんたは、天、使?」

男の方を小さく指差しながら言った。

「あ?」

男が素っ頓狂な声を出した。

「俺…、死んだ……?」

先程から気になっていたことだ。 男はしばらく面食らったような表情でこちらを見返していた。戸惑った風に首を傾げ、ドアを振り返る。

ふいに、男が笑いをもらした。

「は、は、は、は……、くくく……」

男は耐えがたい様子で笑い続ける。押し殺した笑い声が、不思議と耳に心地よかった。 やがて、男はゆっくりとこちらに向き直る。

「おい、兄ちゃん」

男が言った。

「ここは天国じゃねぇよ。まだ死んじゃない、ほら、――――――



酒、麻薬、賭博、淫色、そして暴力。 この界隈には、そんなものがあふれている。 一見は隙間なく整って見える大都市の中にありながら、ここだけはまともなルールが通用しないのだ。

いわば、都会の影の顔である。

迷い込んではいけない。 まともな人生とお別れしたくないならば、とにかく近づかずにやり過ごすのが一番いい。

そんなこの界隈で、最も危険な店がある。 治安の悪さから、野良犬も寄りつかない、とうそぶかれるあたりで、最も危険なルールがまかり通る店。 その店を見つけたら、何はともあれ背を向けることだ。間違っても入るべきではない。

店の名は ≪Heaven≫ 。あまり派手な看板はない。 唯一、入り口のドアに光っている、小さな天使と緑色のネオン文字だけが目印だ。

ここは≪Heaven≫。≪Heaven≫ という、危険な天国。


Fin.

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