■ Holidays

今日は木曜日だ、と男は唐突に思った。


この辺りでは珍しく一人で入るタイプのサウナだった。ごく狭い箱のようなものの中に入り、蒸気に満ちた室内で汗を流す。いわゆる個室式サウナというやつだが、この近辺では『個室サウナ』と呼ぶと意味合いが変わってしまうので厄介だ。隠語である。『個室サウナ』では裸の女が待機しており、性的なサービスがつくのが一般的。

男は腰にタオルすら巻かぬ完璧な裸体になって箱の入り口をくぐった。控えめな口髭は若者のような趣味だが、目の細さが特徴的なその顔はしょぼくれた三十代といったところだ。サウナの入り口に置かれた私物から普段は眼鏡をかけていることがわかる。用心深い人々は下着以外の全てをフロントか鍵のついたロッカーに預けるのだが、男は服も眼鏡もサウナ箱の前に置いていた。

箱の中は赤味を帯びた小さなライトがあるのみでひどく暗かった。まるで眠れと訴えかけるてくるような緋色の重さ。しかし濃い熱気と湿気がいつも彼を眠らせない。この熱さの中ではとても快適には眠れまい、と男は思う。

この箱は汗と一緒に疲労を押し流すには素晴らしく快適な空間だが睡眠には向かない。真夏の熱帯夜の方がいくらかマシというものだ。もっともこの中で熟睡してしまっては脱水症状を起こしかねないのだからかえってありがたいというものか。現に、彼とは異なり、この中でよく眠れてしまう人間が毎年何人かは救急隊員によって担ぎ出されてるらしいから。

男はサウナで一人過ごす時間を好んでいた。普段は自宅で簡素なシャワーを使っているが、休日最後の夜には必ずここを利用する。

彼の休日は不定期だが、平均すれば週休五日程度の仕事ぶりだ。休日はまとめてとる。二日か三日、多い時には一週間。表向きの休日が木金になっているため、実際の休日もその辺りに偏ることが多い。

彼は『揉め事処理屋』という看板を掲げた小さな事務所を持っている。表向き、というのはその定休日のことだ。看板に添えられた定休日のお知らせは、「毎週木・金曜日〜その他臨時休業の場合もございますので予めご了承ください」となっている。

気楽な自営業は忙殺される企業人たちからすれば贅沢な暮らしだろう。休日と引き換えに収入は減るし、表向きは定休日でも休めない日は多い。それでもやはりのんきな暮らしぶりには見えるのかもしれない。設定通りの木金に休めなかった日には別の曜日にしっかり休んでしまうのも己の自由。こんな生活は三日やったらやめられない、とは大げさな話ではない。

世間では平日の只中に気に入りの店で外食を楽しみ、最終日にはのんびりと惰眠をむさぼってサウナへ向かう。それが彼の習慣だ。仕事内容は日々移り変わり一定ではないが、休日だけはいつも変わらずそこにある。


扉をくぐったとたんにぶわりと体を包む湿った熱気に目を細め、白いタオルが敷かれた木製のベンチに腰を下ろす。そのさなか、男は不意に思った。今日は木曜日だ、と。

実際は違う。今日は金曜日だ。そのことにはすぐに気づいた。休日は今夜で終わり。明日からはまた仕事にいそしむ日々が始まる。次の休日まで、予定の変更や思いがけないトラブルがなければあと五日間。

男は自分の肩や腕をさらさらとさすった。服を着ているとそうは見えないが、意外とたくましい体つきをしている。筋肉がしっかりと見て取れる肩にはいくつかの傷。足や背中にも、よく見ると無数の浅い傷跡が見える。

ふう、とため息を吐いた。男の表情がわずかに曇る。愛しき休日の終わりを意識してしまったのだ、気が沈むのも当然だろう。ああ、また一週間が始まる。明日から仕事だ。もう今週の休日は残っていない。

揉め事処理屋は退屈な仕事だ。揉めているやつらの話を聞いて、揉め事を終わらせるだけ。多くの場合、痴情のもつれだ。男女関係の清算に駆り出されることが多い。ストーカーと化した元恋人を叩きのめす、掴み合いをする妻と愛人を仲裁する、浮気を楽しんでいる夫や妻の元に依頼者と共に乗り込んでいく。新しい恋人になったふりをして別れさせ屋の真似事をすることもある。

ドラッグや酒に酔った者は手が付けられないほど暴れる。そもそも、解決に他人の手を借りねばならないほどの揉め事を起こすような奴らだ。ナイフを持ち出すくらいは可愛らしい。銃が飛び出すこともある。それでも男は、揉め事処理の現場で傷を負うことはほとんどなかった。

殴り合いや罵りあいに巻き込まれることも多い職業だ。男はいつも上手にそれらをこなした。トラブルの真っただ中に入り込むだけの簡単なお仕事。もう一つ多いのはゴミ屋敷のお片付けだが、これは同業他社を紹介して済ませることが多い。部屋の掃除は嫌いだ。人間にあふれかえった世間の掃除なら、お手の物だが。

ふ、と息を吐く。男の細い目がますます細くなった。もはや閉じているようにも見えるが、よくよく観察すればわずかに開いているのがわかる。どこでもない、どこかを見るまなざし。鼻の下に横たわる薄い口髭には水滴が光る。狭い額にもいくつか汗の玉が浮かんでいた。

男の手がゆっくりと開閉する。その手の甲には目立つ傷跡。それほど大きくはないが、深い。掌にまでは達していないものの、縫い合わせたような跡があることから出血がひどかったであろうことがわかる。すでに皮膚はつながっている。だが、他の古傷とは明らかに違う、まだ肉が盛り上がったままの新しいものだ。


男は秘密の仕事を持っていた。無数の傷跡を背負う理由となる、揉め事処理屋とは別の事情。それはこの都市で『イレイザー』と呼ばれる仕事だ。イレイザー、消す者。一般人が言うならば消しゴムのことだろう。裏の世界に住む者たちが言うと意味合いが変わってしまうので厄介だ。隠語である。『イレイザー』が消すのは人命、すなわち殺し屋のこと。

手の傷もそうだ。他のどんな傷跡も。男の体についた傷はすべて『イレイザー』としての生活の中でついたものばかりだった。気を付けていても負傷することはある。そんな時に揉め事処理屋という表向きの仮面は便利だ。うっかり人に見られて問われればこう言い訳ができる。

「いやぁ、この前別れ話の仲裁に入ったら、女が包丁持ち出しちゃって」

明日は土曜日だ。揉め事処理の仕事がある。平日は忙しいという若い女の家に行かなければならない。女は自分の部屋の中に盗聴器があるのではないかと疑っているのだ。盗聴器くらいは安い機械があれば簡単に見つけられるのだが、表通りの住民の多くはそんなことも知らずプロに助けを求めてくる。男が受ける仕事の中では最も簡単で、それなりに実入りがあるタイプの依頼だった。悪くない仕事だ。

夜には裏稼業の準備と得意先となったあるエージェント −日本語に言いかえれば代理人− との打ち合わせがある。その後は準備と欠かせないいくつかのトレーニング。それから弾薬の調達に行こう。まだ在庫はあるが、そろそろ行っておいた方がいい。そうそう、揉め事処理の仕事がもう一件あるんだった。夜に詳しい依頼の話がしたいと言われたのだっけ。

きっとひどく疲れる、大変な週末。週末なのに仕事始めとはお笑い草だ。末尾から始まる一週間、ようこそワーキングデイ、この世界は狂っている。

普段なら考えもつかないような世迷言が思い浮かび、男は思わず苦笑した。どうしたことか。汗をかきすぎたか? 暑いからかもしれない。暑さは人を駄目にする、というのが北国生まれである男の持論だ。寒さは構わない。だが、暑いのは駄目だ。脳が溶ける。

今日は木曜日だ。明日も休みだ、まだ休日だ……。頭の中でそうつぶやいてみるが、もう駄目だった。わかっている。今日は金曜日だ。明日は仕事がある。また一週間が始まるのだ。一度気づいてしまえばもう己の感覚までもだますことはできなかった。明日もまだ休日だという二連休一日目の幸せな感覚はすでに遠い。

重い、まぶたが重い。眠くもないのに汗のしたたるままにまぶたが落ちてくる。掌でぐいと顔をぬぐうが、心を覆った黒い霧のような疲労感まではぬぐい去ることができない。世間ではこんな気分を月曜病と言うそうだ。ならば、彼の場合は土曜病か。いや、曜日は関係なく、日常病とでもいうべきか。休日を終えて日常に帰らねばならぬと思うそのたびに、気分が重くなる。


予兆はなかった。少なくとも、素人の感覚には。

ふいに男は立ち上がり、一気にサウナの扉を開けた。ぶわりと熱気が外へ逃げ、代わりに冷気が流れ込む。実際は常温の空気だが、今まで包まれていた熱気との比較で冷たく感じられるのだ。

サウナの外では年の行った女が立ちつくしていた。白髪頭の長い髪を一つに結び、清掃員の制服を着た女だ。老女は呆然と口を開けて男を見る。驚いているのだろう。男が箱に入ってからまだ10分と経たない。ここの常連たちは皆、たっぷり15分以上は蒸し上げられてから一度目のシャワーを浴びに出る。

老女が驚いた理由は明白だった。その手は、サウナの外に置かれた荷物をつかんでいる。フタすらもないただのカゴに放り込まれた男の衣類は『不用心』と書いた看板を掲げているように見えたに違いない。おそらく彼女は、時計や新しい衣類など金目の物があれば盗んでやろうという考えでカゴを漁っていたのだ。そこに持ち主が出てきたのだからこれはまずい、この状況なら誰だって驚くに決まっている。

「……」

男は無言で老女をにらみつけた。上気した顔と体は赤い。赤を帯びた照明が暗く灯った箱の中と同じような色味だ。眠そうな細い目が、今は触れれば切れそうな鋭さで相手を見すえる。老女は呼吸さえ忘れたかのように固まったまま、つかんでいたシャツだけを手の中から滑り落とした。

「失せろ」

短く命じる。男の声は漏れ出すサウナの熱をかき消しそうなほどの冷気を帯びていた。はじかれたように老女が飛び上がる。すみません、と早口に呟きながら駆け出していく女の手にはまだ何の獲物もない。ポケットなどに隠したものもないはずだ。男は、そこまでの仕事をさせる時間を与えなかった。

盗みをしようとした証拠はない。衣類に触れていたという証拠すら、精密な検査でもしない限りは曖昧だろう。そもそもただ興味本位で触れていただけだと言われればそれまでだ。それなのに逃げ出したということは、そんな言い訳をするほども度胸の据わった女ではないのだろう。気の小さいコソ泥。罪の意識もきっと同じくらいには小さい。ああいう手合いは盗み癖があるだけなのだ。生活のためでも何でもなく、盗みというゲームをやめられない中毒者。タバコをやめられない自分と似ていると考え、男は浅く笑った。

出たついでに冷たいシャワーを浴びて、男は箱の中に戻る。持ち物を預けないのはわざとだ。こうしておくとときどき手癖の悪いものが近寄ってくる。おかげで、侵入者に気づくためのよい訓練にもなるわけだ。

サウナ箱が設置された場所は一応区切られたスペースだが、他人が全く出入りできないような環境ではない。歓楽街にほど近い立地で、ここまで防犯に気づかいのない店は珍しい。訓練がてらのリラックスにはもってこいだ。その分値段が安いのもありがたい。もちろん、うっかり気づき損ねたときのために盗まれて困るようなものは一切持ち込めないが。

油断しないことは重要だ。だから感覚を研ぎ澄ます。常にだ。そうすれば接近するものの気配がわかる。気配というと特殊能力のようだが、何のことはない、実際はかすかな音を聞き分けているだけだ。一般人の立てる物音ならば密閉された箱の中からでもわかることが多い。フロントで盗まれたりしたらさすがに感知できないが、箱の外ならば察知できる。かえって安全という理論も成り立つ。

瞬発的に神経を研ぎ澄ませたせいだろうか。いつもよりすっきりした気がして、早めに店を出ることにした。フロントの店員は入浴時間を確認して一瞬怪訝な顔をした後、作り笑顔で彼を見送った。特に違反ではない。サウナの利用時間は1時間までだが途中で出入りするのは自由だ。もっとも、時間を大幅に残して出る客などまずいないらしいけれども。

街を歩いていると、電光式の時計があった。デジタル数字は23:51を示している。あと10分足らずで日付が変わるのだ。ほどなく、男は揉め事処理屋の看板を掲げた小さな建物にたどり着いた。二階の片隅が住居スペースだ。室内に掲げた時計の針はすでに十二時を回っている。さようなら、休日の夜よ。明日のために今日はもう休むことにしよう。

簡素なベッドに横たわり、男は丸まって目を閉じた。揉め事処理屋でも、一人の『イレイザー』でもなく、ただの人間として眠る。胎児のように固く丸まった姿勢がほどけるころ、空は薄々と白み締めた。


朝が来た。目覚まし時計がリンリンと鳴り、男は目を覚ます。あくび混じりに起き出して、身支度を整えたら出発だ。今から向かうと電話をすると依頼者は怯えきっていた。

たすけて、だれかいる。そとに、ドアのそと。

小声の訴えに男は柔らかな声で答えた。そうですか、すぐ行きます、警察はまだ呼ばないで。目的地から少し離れた場所に車を止めて、徒歩で建物に近づいた。依頼者が住むアパートメントは二階建て。部屋は一階だ。ドアの前は外からでもよく見える。確かに、いた。坊主頭の若者が一人、付近をうろうろしている。遠くからははっきりとしないが、口元が動いていることから何か独り言を言っているようだ。おそらくは異常な精神状態。その手には見慣れた黒い物体。

男の目つきが変わる。偏執的な狂愛者か何か、そんな事情はどうでもいい。仕事だ。あの黒い物は拳銃、男が得意とする馴染みのある武器。拳銃を握った異常者が住宅街をうろついているのだ、これ以上の揉め事はないだろう。ならば出番だ。

何気ない風を装って歩き、若者の死角から建物の角に貼りつく。その足取りには音もない。若者が十分に近づくのを待って飛び出した。驚いた若者が銃を構える暇もなく、男は若者の腕をひねりあげる。容赦のない力。若者の口から悲鳴が上がると同時に、男は叫ぶ。

「誰か警察を!」

その顔にはうっすらと、笑み。


休日は終わった。まるで無害な一般市民のように甘く怠惰に過ごす時間は終わりを告げた。日常が帰ってきた。戦い、生死、銃と酒、その他もろもろの危険がスキップを踏む愉快な日常が。

揉め事処理屋は適当にこなす。本当の仕事は夜に始まる。『イレイザー』としての依頼を受ける。目標を消す。目標となった人物が消えれば、つかの間の休息が訪れる。初日は娯楽にいそしみ、最終日は惰眠とサウナ。その後はまた働く日々がやってくる。日常は容赦なく始まり、駆け足で過ぎ、素晴らしい休日をもたらしてはまたあっけなく終わらせる。

昼間の彼が働き、いくつかの揉め事が終わる。

夜の彼が働き、いくつかの命が終わる。

休日が終わらなければいいのにと、休日が終わりかけるたびに考える。それでも日常は悪くない。彼は仕事嫌いではなく、辞めようと思ったことがない程度にはこの生活が気に入っていた。休日を挟み込む日常は煩わしいものではない。それでも毎度思う、この穏やかな時間が終わらなければいいのに、と。

今や一番の得意となったエージェントは、彼に新しい依頼を寄越した。消すのは著名な人物。身辺警備は薄いようだが居場所が遠い。どうやら予定変更だ。表の事務所を閉じて遠出せねばなるまい。少しだけ休日が遠のく予感。次の休みは何曜日になるのだろう。目標の命が消えたなら、それが任務終了の合図だ。

何、大したことはない。次の休日はすぐにやってくる。


Fin.

EXIT  TOP

inserted by FC2 system