ちょっとした怪我をした。
ただの擦り傷だ。
顔に。
「無様だなぁ。」
鏡を見てぼやいたら仲間が笑った。
「あんな高いところから落ちといてそれなら、よかったんじゃないか?」
そう言いながら。
確かにそうだよね。
4階建ての家の屋根から飛び降りたのだ。
自分の名誉のために言っておくと、「降りた」のであって「落ちた」のではない。
ついさっき、『仕事』を果たした後のこと。
豪邸と言っていいような家に忍び込んで、目的の人物を殺めて。
さぁコッソリ帰りましょうと思ったらペットらしき犬に見つかった。
小さな室内犬。
事前の情報ではペットの話なんてこれっぽっちもなかったって言うのにさ。
キャンキャンほえて騒ぐから、家の人間に気づかれてしまった。
そのとき自分がいたのは4階の角の部屋。
急いでその場から逃げ、屋根裏に潜り込んだ。
ちょっと隠れていて、静かになった頃を見計らって逃げようとしたんだけど。
どうにも階下の部屋は騒がしいままで、とても家の中を通っては逃げられそうもない。
しかたなく、屋根裏の片隅にあった天窓から屋根に出て、辺りを見回したんだ。
そうしたら立派な庭木が見えた。
たくさんの枝を伸ばし、いっぱいに葉をつけた木だ。
ひらめいたね。
あれに飛び込めば枝や葉がクッションになってくれて、無事に降りられるんじゃないか、って。
勢いをつけて屋根の上を走り、木に向かって飛び降りた。
狙い通りだったよ。
ちょっとがさがさ音がしたけれど、追っ手に見つかる前に逃げおおせた。
後は隠れて待っていてくれた仲間と一緒に逃げるだけだ。
楽勝さ。
木に飛び降りたとき顔をひどく擦りむいちゃったけれど。
それにしても、屋根から木に向かってダイブするなんて全くの計算外だ。
ここまで追い詰められたのは完全なミス。
顔の傷も本当ならつけずに済んだはずのものだ。我ながら情けない。
「うーん、あのワンこがいなければなー……。」
鏡の中の自分に苦笑を送る。
「まあ、擦り傷くらいなら……。」
曖昧に言葉を濁して仲間が微笑んだ。
そうだね、と口の動きだけで答えて、鏡の前を離れる。
そろそろ空が白み始めている頃だ。
硬く窓を閉ざしたこの隠れ家からは外の様子はうかがえないけれど。
「じゃあ、また。」
仲間に声をかけて隠れ家を出る。
思ったとおり、東の空が白かった。
伸びを一つして向かうのは、血を分けた家族が暮らす裏通りの家。
夜が好きだった。
明るい昼の光の下はまぶしすぎてこの身には向かないと思っていた。
子どもだった頃には飽きるほど浴びていたお日様の光。
それは二度と求めてはいけないものだと。
汚れてしまった自分の身には毒だとばかり思っていた。
「おはよう。」
少し物寂しい声で弟が言う。
いつもそうだ。
自分が『仕事』から帰った日の朝は、いつも。
「ああ、おはよう♪」
ことさら明るく返してあげる。
少し伸びた前髪をヘアバンドで上げながら。
エプロン姿の自分。
このいでたちは家業の洗濯屋を手伝いながらのんびりと今日の昼間を過ごす証拠だ。
「今日は『仕事』ないから、一日ウチにいるよ。」
聞かれもしないのに告げてやる。
そうすればやっと微笑むのだ、この我が家の
同居している両親は現役の『イレイザー(消す者)』だ。己と同じ人殺しを生業とする生き物。
親子の仲は悪くない。
むしろいいと言えるだろう、『仕事』の内容まで気兼ねなく話せてしまう仲なのだから。
ただ一人違うのが弟だ。
途中まで −確か12歳を越えるころ頃まで− 裏の家業について知らずに育った。
まともな世界だけを見て育ったおかげで、今でもまっとうな世界に生きている。
いい子だ。
そう考えて、思わず微笑を浮かべた。
とっくに成人の年齢を過ぎた弟。
いい子だなどと言ってやったらきっと激怒するだろう。
こいつにとって子ども扱いはそのまま背の小ささに直結する事柄なんだ。
チビだから幼く見える、と思い込んでいる。
だから彼は、子どものように扱われることを何よりも嫌う。
年齢の割に幼く見える本当の原因は、身長じゃなく、顔だと思うんだけど。
弟は黙ったまま洗面所に消えた。
自分は支度を調えて洗濯屋の店頭に出る。
こっちの仕事は久しぶりだ。
最近、また『イレイザー』としての『仕事』が増えてきた。
行き先を告げずに消える自分。
弟は何も言わずに送り出してくれる。
生きて帰った朝にも、何をしてきたのかは尋ねてこない。
今でも夜が好きだ。
でも、昼も愛している。
明るい光の下は相変わらずまぶしいけれど、昼の世界には愛しいものがたくさんある。
街の雑踏。
弟との会話。
洗濯屋のお仕事。
それから、夜の自分がどんな存在かということなど何も知らない、洗濯物を持ったお客たち。
強い光に噛みつかれ、痛みを得ても構わない。
愛しいものたちと生きる日々をずっと重ねていけるなら。
洗濯屋の長男坊は気楽なポジションだ。
親たちがまだまだ健在だからちょっとしたアルバイトくらいの気分でいられる。
跡継ぎ息子だなんて重さはない。
役者になったつもりで、まともな洗濯屋を演じるのだ。
最高に楽しい。
やってきた奥さんたちと気の利いた会話を弾ませながら一日を過ごす。
ふと、窓に目をやると。
裏通りには珍しくきれいに磨かれたガラスごしに明るい光が差し込んでいる。
昼の光。
どこかから下卑た笑いと怒声が聞こえてきた。
今日もまた、裏通りの街並みは物騒な平和で溢れている。
この街はいい。
自分はよく弟を誘って街に出かける。
平和に生きる人々の中を歩くのが好きだ。
知り合いに会えば会話を楽しむ。
知らない人とだって挨拶を交わす。
しつこい物乞いには舌打ちだけ投げて、野良猫には甘い声をかける。
“ やがて『進化』の炎の中に、どす黒い姿で帰っていくのだ ”
そう思えば思うほど、平和な時間が愛おしい気持ちになる。
闇色に還るその前に、優しい今を味わっておきたくて。
街を歩く。
昼の世界の代表みたいなうちの弟と連れ立って歩く。
『仕事』がある日には別々の道を帰るのだ。
帰宅する弟。
仲間の下へ、自分で見つけた生きる場所へと帰っていく自分。
別々に帰った後には真っ暗闇がやってくる。
『仕事』が嫌なわけではない。
もちろん心底好きだなんて言えないよ。殺人を快楽だと思えるほど壊れた人格ではないから。
それでもなお、鋭利な刃物を握り締め、真っ暗闇に溶ける自分。
闇色に、深紅の色に。
両手も身体も、瞳まで、すっかり染まってしまったけれど。
それでもまだ昼を愛していいのだと知った。
今の主 −主ではなく仲間と呼べと叱られるがやはり主だと思う− との出会いが教えてくれた。
夜に生きるものにも昼を恋う資格はあるのだと。
思うがままに、昼の世界の諸々を愛していてもいいのだと。
こんな自分の生き方を「未練がましい」と言う人もいる。
昼の光に捕らわれていては一人前の『イレイザー』とは言えない、だそうだ。
そんなことはないと思う。
守りたい昼があるから、どんなに深い夜でも正気でいられる。
もう一度、あの光の下へ。
そう思うからこそどんな窮地からも生還できるのだ。昨夜よりもっと危険な夜からも。
傷ついた痕を太陽が照らす。
しょっぱい涙はヒリヒリ渇いた。
ちっぽけな滴は頬を伝って、流す先から次々に消える。
太陽を見上げると、まぶしい陽光に突き刺された気分。
明るい光。
行きかう人々の笑い声が耳に残る。
薄汚れた裏通りを満たすのは、明るい世界の清い風。