男の静かな声が病室に響く。 若者は黙って男の話を聞いた。
「ある海辺で腹を空かせた生き物たちが会議をしています。 生き物たちとは、獣と鳥、そして水中から会議に参加していた魚です。彼らは食べ物を求めていた。 そして、遠く離れた砂漠の向こうに食料庫があることを知っていました。 そこに行けば食べ物がある。ですが、黙って待っていたのでは食べ物は手に入りません。
誰かが取りに行かなければならない。 そこで議長が食料庫に行くことができる者はいるかとたずねたとします。 そのときに、もし魚が立候補したら……どうです?」
問いかけられて、若者が答える。
「そりゃ無理ですよ、干からびちゃうじゃないですか」男はにっこりと微笑んだ。
「あなたの言うとおりです。魚の食料調達は確実に失敗するでしょう。 ここでの失敗とは、そのまま魚の死を意味します。さらにそれは他の生き物たちを苦しめることにもつながる。 魚が任務を請け負ったなら、失敗するまでの間、他の生き物たちはただ待つしかありません。 たとえ次に挑んだ生き物が無事に任務を達成したとしても、 最初から他の生き物が出かけた場合にくらべて、彼らが飢える時間は長くなるでしょう。
自身の死。仲間の飢餓。 さて、魚の無茶がもたらした結果に何かメリットがあるでしょうか?」
男は目を開き、若者の瞳を見つめる。 若者は少し身を引いて男に聞いた。
「……で、結局何が言いたいんですか、その話」男は静かに口を開く。
「あなたの行動もこの話の魚と大差はないということです」一語ずつ区切りをつけて、男はゆっくりと言った。 若者は怪訝な顔をする。
「できないことを『できない』と言わず無謀に挑むのは、砂漠に挑む魚と同じです。 あなたが今までどおりの無謀を貫くなら、いつかまた、必ずしくじるでしょう。 しくじりが続けば信用を落とします。周囲から見捨てられるかもしれません。 いいえ、見捨てられるだけで済むとは限らない。 我々の業界ではよくあることです、失敗が即、死につながることは」わずかに身振りさえ交えて男が語る。 指先を若者の方に向け、掌をわずかに上下させながら。
「……」若者は黙る。 まさか自分が陸に上がる魚に例えられようとは。 黙り込んだ若者に向けて、男は語り続けた。
「自分のキャパシティーを理解していない者は、周囲にとって大変厄介な存在です。 やる気だけはある、仕事を頼めば嫌とは言わない。 そしてつぶれるのです。中途半端な仕事を残して……いつの日か、必ず、ね」男はここで話を切る。
そして、しばし無言。
若者も何も言わない。 これまで語られた男の言葉を思い出し、考えているのだ。 ひとつひとつの内容を噛み砕き、飲み込んでいくイメージ。 時間がかかる。 言葉の意味を理解することはたやすい。 けれど、内容を深く味わい、自分のものにすることは難しかった。 自分の感覚とは異なる思想。 解釈し、納得するのは容易ではない。
静寂の時が流れた。 ふと、思い出したように男が口を開いた。
「昔……、あなたのように思っていた時期もありました。 自分にできる限りのことは限界ギリギリまで請け負おう、多少無理をしてでも。 そのためには少しくらい自分を犠牲にしても構わない。……そんな風にね」若者は意外そうに男を見やった。
「それで、どうなったんですか?」問いかけると、男はやんわりと微笑む。 そして言った。
「気づきましたよ。つぶれる前にね」男は再び目をつぶる。 それから彼は懐かしそうに話し始めた。
「私が……あなたより少し年上くらいの頃でしたか。 当時の上司にまさしく『嫌とは言えない』というタイプの人がいましてねぇ」男は細く目を開いた。 どこか遠くを見るような目。
「それで?」若者が先をうながす。
「彼はどんな仕事でも全て引き受ける人間でした。 他人ができないと断った仕事は回りまわっていつも彼のところに行き着いたものです。彼とて人間、回された案件が自分のキャパシティーを上回ると思うこともあったでしょう。 しかし、彼には『できない』の一言が言えなかった。 その結果、彼は常にオーバーワークの状態でした。 寝る間もなく、食事もろくに取らず。当然、倒れたことも一度ではありません。
幸い、実地に出て戦うタイプではありませんでしたから、命を失うことはありませんでしたが。 その姿を見て思ったのです。 『ああ、できないことを断れない人間とはなんて損なものなのだろう』と。
そしてこうも思いました。 『世の中にはこの上司のように、できない仕事でも進んで背負う人間がいる。 ならば、私は仕事を断ってもいいのではないか。 私が断っても結局その仕事はどこか誰かが片付けてくれるのではないか』、とね」
語り終えて、男はふっと笑みをこぼした。 若者は対照的な表情だ。 苦々しく眉を寄せて、つぶやくように言う。
「人に押し付けるのってずるくないですか?」それを聞いて男が笑った。
「ずるい、ですか。……あなたらしい」笑みにも言葉にも馬鹿にするようなニュアンスは見えない。 むしろ楽しげでどこか嬉しそうでもある。 男は若者の膝辺りに手を置いて言った。
「できることまで他人に押し付けるのならば確かにずるいと言えるのかもしれません。 しかし、本当にできない場合はどうでしょう。 真実を口にしただけで卑怯のそしりを受けねばなりませんか?」男の問いかけ。 若者が答える。
「確実にできないのはまだわかりますよ? でも、できる『かも』しれないと思うこともあるじゃないですか!」若者の口調は熱っぽい。 男は答えて言った。
「できるかできないかの判断もできない無能な者は負荷に耐えかねて消えればよろしい。 あなたがそんな無能者だというのなら、もう好きにしてください」きっぱりとした口調。 言われた若者は不満の表情だ。 もごもごと口ごもった後でもう一度声を出す。
「でも無理そうかなと思っても……、やってみたらできたってこともありますよ?」まだ納得しきれない。 だが、男はきっぱりと言った。
「仕事にギャンブル性など無用です」問い返す若者。 男が答える。
「できるか、できないか、一か八かという状態。これがギャンブルでなくて何ですか」男は両手を組み合わせ、自分の膝の上に置いた。 そのまま言葉を続ける。
「それに、できないと断られるより、安請け合いをして失敗される方がよっぽど迷惑です」若者はうーんとうなりながら左手でガシガシ頭をかいた。 わかるような気がする。 だが、わかりたくない気もする。
「わかる、気は、するんですけど……」少し気弱な口ぶりになる。 若者は掌を見つめた。 自分がこの話に納得しかけているという事実に、少しだけ驚きながら。
男は穏やかな顔で若者の様子を見つめている。そして、こう話し始めた。
「同年代の若者にくらべてあなたにできることは非常に多い。それは認めましょう。 しかし、万能ではない。できないことは『できない』と判断し、それを口にすべきです」柔らかに諭して、男は口をつぐむ。若者はまだ納得がいかない。
「でも、」言いかけたとたん、男はまた厳しい表情で若者を見た。
「いくらあなたが有能でも、発射されたミサイルを受け止めることができますか?」若者は思わず首を横に振る。男はうなずく。
「でしょう? 人の力には限界があります。誰にでも必ず不可能は存在する。 俗に『人間の可能性は無限大だ』などというのはただの誇張表現です。 マシンガンの乱射を20秒以上受けて無傷でいることは? 1秒間で100mを走りきることは? そんなことが人間にできるわけはありません。あなたにもできませんね?」若者はこくりとうなずいた。けれど、まだ納得がいかない。
「そういう極端な場合とは話が違う、そう感じているようですね」男が言った。
「はい」真っ直ぐな視線で男の目を見つめながら若者がうなずく。
少し間があった。
「……リストバンドをはずせばよかったのに」男が言う。一瞬、何のことだかわからない。
リストバンド云々が今回の爆弾の件だと気づいたとき、若者は耳を疑った。
リストバンドをはずして爆弾を投げ捨てるまでには少なくとも数秒はかかる。 そうなれば爆発は、頭や体に対して何のさえぎる物もない状況で起こったはずだ。 残り1秒というあの状況。 自分が下した決断に間違いはないはずだった。
「でもそれじゃ……」困惑気味に語尾を濁す。 この男が理由もなく理不尽なことを言うとは考えられない。 戸惑いを浮かべる若者に向けて、男はにっこりと微笑んだ。
「ええ、そうです。間に合わない」目の端に笑みをまとわせ、男が言った。
「あなたの行動は、あの状況下では最良の選択でした。 普通それしか手がないと思っても、実際に腕を犠牲にできる者はそうはいません。 そこだけは賞賛に値します」男のセリフは誉め言葉で終わった。だが若者はますます困惑の表情だ。
「じゃ、あれでよかったんじゃないですか」子どものようにむくれた表情で言う。 不満なのだ。わかっているなら、なぜリストバンドをはずせばよかったなどと言ったのか、と。
「ええ、それでよかったのです。……何か気づきませんか?」男が問うた。
「……?」若者は目をしばたかせた。何に気づけと言うのだろう。
「『爆発前にリストバンドをはずすことは不可能だ』、そう判断して腕を犠牲にしましたね?」ゆっくりと、言葉を選ぶようにして男が言った。
「え、ええ。そうですけど……」戸惑いながらも若者はコクコクとうなずく。男は微笑んだ。
「あなたも不可能なことを『できない』と判断して、避けたではありませんか」ようやく若者も気がついた。 できないことは『できない』とあきらめて避けること。 さっきからずっと認められずにいたそれを、自分がやっていたのだ。 しかも無意識のうちに。
「できないことは『できない』と認め、できることを選ぶ。それだけのことです」男は静かに言葉を結んだ。
今度こそ若者も納得がいった。自分でもやっていたこと。誰もが当然にやるようなことなのだと。 それに、避けっぱなしでなくてもいいのだ。他にできることを見つけてやればいい。
それならできる、と思った。あとはレベルの問題だ。 さっきから、今のままでは無茶すぎると言われてきた。ならば、できないと判断するレベルを少し引き下げてやればいい。 頑張ればできるかもしれない。最初は歯がゆい思いをするだろうが。
若者の表情から不満の色が消える。 それを見届けたのか、男は小さくうなずいた。
「……とは言うものの、結局のところ、これはあなた自身の問題です。 あなたが己の体をどのように扱うかはあなたの自由だ」男がつぶやく。若者は素直に聞いている。
男は何気ない動作でもう一度花束を見やった。ベッドサイドの低い棚の上に置かれたガザニアの束。 ガザニアの別名は勲章花という。 丸く咲くその花びらは本当に鮮やかな黄とオレンジの色だ。まさしく、輝く勲章のように。
それから男はおもむろにふところに手を入れた。そして、すぐに抜き出す。何かをかばうように、そっと。
一輪の花だった。上着の内側から出た手に握られていた物、それは薄青い可憐な花。 青のクロッカスだった。季節はずれの花なのに、それは水が滴り落ちそうなほど生き生きとしている。 思わず受け取る若者。手に取ってよく見れば、それはひどく良くできた造花だった。
「老婆心からの忠告はします。 ですが、最終的には、あなたがどうなろうと私の知ったことではない。 しかし、」男の静かな声は急に途切れた。
「しかし?」つい続きをたずねる。すると男は突然中腰になり、ぐっと身を乗り出してきた。 顔と顔が近づく。のぞき込むというよりは詰め寄られたような格好だ。若者は驚きに息を飲む。男が言った。
「しかし、あなたが死をもって私から相棒を奪うというのなら話は別です。 もしそんなことになれば……私はあなたを許しません。絶対に」すっと体が離れる。男はそのまま席を立った。 若者は息をすることも忘れていた。男の口調は静かなものだ。だが、言いようもない迫力がある。 こんな風に詰められたのは初めてのことだった。
「……では、また」小さくつぶやいて、男が軽く頭を下げた。別れの挨拶だ。若者は急いで男を呼び止める。
「あのっ、『私から相棒を奪う』って……」どうしても、どうしても聞きたいことがあった。それを問うのは今だと思ったのだ。
「その、相棒っ、ていうのは……、俺じゃない誰か、てことですか? もう俺は…………組んで、もらえない、とか」言葉に詰まりながら言う。すると男は呆れきった様子で両手を広げた。
「あなた以外に誰がいると言うのです?」当然。そう言わんばかりの様子。男にとって、相棒とは目の前の若者とイコールで結ばれるものらしい。
「よかったー!!」若者は思いっきり胸をなでおろす。
「もう、ずっとそれが気になってたんすよー! この体じゃ『お前は使えないからもういらない』って言われんじゃないかと思って!」若者は肩だけになった右手に手をあてた。その顔に浮かぶのはこれ以上ないほどの明るい笑み。 それを見て、男はやれやれという風に首を振った。
「その様子では今まで本当に話を聞いていたのか怪しいものですね」まったく、あなたという人は……とでも言いたげな表情。男は眉間に皺を寄せて苦笑を浮かべている。
「大丈夫です、聞いてました! もうバッチリ!!」親指を立ててgoodのポーズ。若者はあくまでも嬉しそうだ。男の苦笑がますます濃くなった。
それは暑い日の出来事。
スーツ姿の男と片腕の若者はその後も長くコンビを組み続けることになる。 やがて若者は一線を退き、表の世界へと身を移した。 スーツを着ていた男の方はずっと裏社会に生き続ける。 そして君臨するのだ。安定しきった裏社会を統べる大組織の中で、王のような重鎮として。
将来、Evolution ――『進化』と呼ばれる大変革が起こる、あの
男と若者が再び手を組み、『進化』への反対を唱えて立ち上がるのは、まだ先のお話である。