郊外の丘にスターがやってきた。
丘の上はだだっ広い駐車場。
トイレと自動販売機を備えた、遠距離運転者が休憩するための無料スペースだ。
巷で評判の芸能人がこの駐車場で野外イベントを行うという。
人気スターを間近に見ようと大勢のファンたちが押し寄せているらしい。
ファン以外にも集まった連中たちがいる。
タクシーの運転手たちだ。
駐車場まで続く道路は路上駐車のタクシーでいっぱい。
イベント帰りの客を当て込んで、何台ものタクシーが客待ちをしていた。
そのうちの一台が窓を開けた。
開ききった運転席の窓からにゅっとひじがのぞく。
屋根に☆型のライトを灯し、空車のランプを光らせた個人タクシーだ。
窓の奥に炎の色。
紅よりも赤い、朱色の点が燃えている。
炎の正体は火をつけられたばかりの煙草だ。
くわえ煙草をふかぶかと味わい、運転手はゆっくりと息を吐いた。
澄み切った闇の中、白い煙の帯が薄く漂う。
と、あるかないかの物音が運転手の耳をくすぐった。
かすかな足音……のように聞こえる。
アスファルトの路面を歩く静かな足取り。
くわえ煙草の運転手はサイドミラーに目をやった。
こちらへやって来る。
チャラついた人気スターのイベントにはおよそ似つかわしくない風体の男が。
「こんばんは。良い夜ですね。」
運転席の横に立ち止まったのは白髪の紳士だった。
細い銀縁の眼鏡が街灯の明かりを弾いて輝いている。
運転手は客の顔を見上げる。
柔らかな声の主は微笑を浮かべていた。
崩れるどころか微動だにしない、完璧な微笑を。
「お客さん、乗るんなら後ろだ。」
煙草を手に移して運転手が言う。
白髪の男は軽く会釈をして、後部座席に乗りこんだ。
「すばらしい夜です。この平和がいつまでも続いてくれればよいのですが。」
白髪の声は穏やかで小さい。
その声を聞き逃さないようにとの気遣いだろうか。
運転手は素早く鍵を回してエンジンを切った。
「何の用だ? お偉いさんがたった一人で。」
運転手が言うと、白髪はほんのうなずくようにして応えた。
「私をご存知とは、助かります。話が早く済みそうです。」
白髪の言葉を運転手が鼻で笑う。
2人は初対面だった。
だが、お互いに知っていた。
相手が誰なのか、お互いがどのような意味を持つ関係なのかを。
「Evolution、すなわち進化と呼ばれるものについてお考えを伺いたいと思いまして。」
後部座席の真ん中に座り、白髪が言った。
「こっちにつけって?」
言いながら、運転手はバックミラーに目をやる。
「いえ、あくまでご意見を伺いたいのです。それによって、今後の策が変わります。」
鏡の中、白髪は木製のステッキを身体の正面につき、それに両手を重ねていた。
表情はあくまでも変わらぬ微笑。
「策ねぇ。」
煙草の灰を灰皿に落としながら、運転手が低く笑う。
「そんなご大層なもんはよくわかんねぇな。まぁ……」
彼はここで一度言葉を切った。
それから、何かを考え込むように両目を閉じた。
「Evolution、今の世の中をブッ壊す、時代を、戻す?」
再び開いた彼の口からもれたのは切れ切れのつぶやき。
目を開き、複雑な表情でまたバックミラーを見上げる。
ミラーの中では白髪が軽くうなずいてた。
そして、穏やかな口調で語り出す。
「彼らは裏社会のあり方をかつてそうであったような闘争の時代に引き戻そうとしている。
確かに、我々はそう主張してきました。
口では進化と言いながら、彼らの動きはこの町を20年以上前の状態に引き戻しつつあります。
それは進化と呼べるものではなく、時代を逆行する破壊の動きです。」
白髪はここで初めて表情を変えた。
笑みが消え、静かなまなざしがそっとうつむく。
運転手が何か言いたげな様子で口を開いた。
しかし、ミラーの中の白髪もまた言葉を続けようとしている。
動き出す白髪の唇を見て、運転手は口をつぐんだ。
「…………いえ、進んでいるのかもしれません。
以前と同じ状態に戻るのではなく、全く新たなあり方に向かって進んでいる。
少なくとも、進化を叫ぶ人々はそう思っているのでしょう。」
運転手は黙ったまま聞いている。
ハンドルに手をかけ、バックミラーを見つめながら。
白髪はなおも語り続ける。
銀縁の眼鏡の奥で細い両目が冷たく光った。
「最近わかったことですが、どうやら彼らはただ体制を破壊しようとしているわけではないようです。
むしろ新たなる秩序を生み出そうとしている。
自由競争を取り入れながらも、暴力と謀略に明け暮れた時代とは異なる秩序を作ろうと。
ただし、それが上手くいく保証は、今のところ……。」
とうとうと語っていた白髪はここで急に語尾を消した。
今のところどうなのか、濁した内容をはっきりさせるつもりはないらしい。
「あんたは保守派だろ。敵方の肩なんか持っていいのかぃ?」
言いながら、運転手はライターを取り出した。
ジッと音を立てて火をつける。
運転手の手の中で赤く小さな炎がゆらゆらと揺らめく。
消す。
つける。
くり返す動作。
白髪は声もなく笑った。
その顔に浮かんだのははっきりとした苦笑。
「肩を持ったつもりはありません。
ですが、そのように聞こえたのなら、それは彼らに分があるということでしょう。
私はただ分析し得た事実を述べたに過ぎません。
それがあなたの耳には彼らにとって有利な情報に聞こえた。ということは、冷静に考えて、
現在は彼らの方が有利な立場にあると言わざるを得ません。残念ながら。」
言い終えた白髪の顔に微笑が浮かぶ。
さきほどと同じような完璧な微笑が。
NEXT / 前書 EXIT TOP