短くなった煙草をもみ消し、運転手が問うた。
「もちろん我々に賛同していただきたいのです。 できるだけはっきりと現体制維持への支持を表明していただきたい。 あなたが私の頼みを聞いて下さることを心から望みます」穏やかな口調で白髪が答える。運転手はきっぱりと言った。
「どっちでもいいんだ、俺のやり方を邪魔されないんなら何だっていい」 決して声高ではない。だが、力強い主張。 何があろうと揺らがない、そんな風に聞こえる。 「そうでしょう。しかし、あえて選んでいただきたいのです。我々を」わずかに力を込めて、白髪が言う。 しばらくの沈黙。開け放たれた運転席の窓から一匹の羽虫が紛れ込む。 羽音すら聞こえないほどの小さな存在。羽虫は静かに車内をさまよい始める。
「分が悪いんだろ?」ややあってから、運転手が言った。鏡の中で白髪が顔を上げる。
「あんた、言ったじゃねぇか。進化したい側に分があるって。違うか?」問いかけとともに運転手は小さく後部座席を見やった。 白髪はわずかに微笑を濃くして、こう答える。
「それはあなたがそう感じているようだという意味で申し上げたのですが……。 実際のところ、二つの力は拮抗しています。 保守派と急進派、真逆を向いた主張どうしがほぼ同等の力でにらみ合っている。 ですが……このまま争いが続けば、そう遠くない未来に我々は不利な立場に追い込まれるでしょう」白髪のセリフを一言で斬り、運転手は眉をしかめた。
「結局、何が言いたいんだかわかんなくなんだろうが。 わかりやすく言え、こちとら学がねぇんだ。要するに味方につけってことだろう?」言いながら、運転手はバックミラーをにらむ。鏡の中で白髪が何度かうなずいた。
「だったら最初ッからそう言えってんだ。負けそうだから助けてくれってな」そう吐き捨てると、運転手は懐に手を入れた。くしゃくしゃになった煙草の箱から新しい一本を取り出す。
「あいにく負け戦に乗るほどマヌケじゃねぇ……他あたってくれ」淡々とつぶやいて、彼は煙草をくわえた。先端に火をつけて深々と吸い込む。白い煙が帯状に立ちのぼる。 窓から逃げ切れなかった煙が車内にも細く薄く煙草の香を漂わせた。
「困難なことにこそ挑みたくなる……、そんな人物を知っていますよ」白髪の笑みが心なしか深くなる。いぶかしげに眉を寄せた運転手に向けて、白髪は言葉を続けた。
「我々とともに歩むのは進化を叫ぶ者たちに加担するよりも困難な道です。 だからこそ、挑む意味を見出していただけるものと期待しています。あなたならば」運転手は無言。白髪の男もまた口をつぐむ。 再び、辺りに静寂が訪れた。さっき入ってきた羽虫が白髪の前を横切る。 ふらふらと頼りない飛行曲線。白髪は視線だけでその動きを追う。
沈黙が続く。そうしている間に羽虫は後部座席の窓にたどり着いた。 そのまま閉じたガラスに何度もぶつかる。トン、トン、と音が聞こえそうな光景だ。 と、白髪が羽虫にフッと息を吹きかけた。息に飛ばされ、羽虫は前方へと流れる。 流れた先には運転席の窓があった。開け放たれたその窓から羽虫が出て行く。ふわりと、煙草の煙に乗って。
突然。 白髪の男が動いた。何かを思い出したかのようにコートのポケットから四折りの紙切れを取り出す。 折りたたまれた紙を開く白髪。確かめるように紙面を眺めた後、運転席の方に差し出した。
運転手が受け取る。それは麻薬撲滅運動の貼り紙だった。
NO DRAG! (麻薬反対)
単純なスローガンが質の悪い紙に印刷されている。粗末なビラだ。
「おもしろいでしょう? この安っぽいフライヤー。紙質、デザイン、キャッチコピー、どれをとってもひどい代物です。最高に出来が悪い。なかなかのセンスだと思いませんか?」相手の意図が汲み取れないのか、運転手は疑問の表情で後部座席を見やった。
「これを参考にしようと思いまして」答えるように白髪が言う。
「参考にする?」運転手はますます持ってわからないといった顔で首をかしげた。
「ええ、文面を我々のスローガンに置き換えて、このデザインを丸ごといただくのです。 『NO DRAG!』に置き換えて……NO EVOLUTION (進化、反対)。 きっと気に入ってくれると思いますよ、彼らは」彼らという言葉に重みを置いて白髪が答えた。 ここで言う彼らとは、おそらく進化を叫ぶ急進派たちのことだろう。
「好きにすりゃあいい、俺は知らねぇな」低くつぶやいた運転手の声に、白髪は軽く笑って見せる。そして、語り出した。
「あなたの意思がどうであれ関わらずにはいられないでしょう。 過去の行いはなかなか人を放しません。 本人の意向とは関係なく、周囲の意識にこびりつき、いつまでもまとわりつく。動揺、だろうか。運転手が苦く顔をゆがめた。 その表情が見えたのかどうか、白髪は急に身を乗り出してこう宣言した。
「あなたは、キーパーソンです」運転手の顔に驚きが宿る。
「今、二つの力は拮抗しています。進化か保守か、今後の動向によってはいかようにも転ぶ状況と言える。白髪の言葉が一瞬途切れた。
「俺には……」一瞬の隙を突くかのように運転手が何かを言いかける。しかしその声を遮り、白髪が後を続けた。
「関係のないことかもしれません。 あなたは権力に興味がない。今さら当時の仲間たちを扇動するつもりもないでしょう。静寂。語り終えた白髪は元通りに身を引いた。 運転手は身じろぎもしない。燃え尽きた煙草の灰がすっかり長くなっている。そろそろ限界を迎えそうだ。 無言のまま、彼は灰皿に灰を落とした。
静けさの中で白髪が再び口を開く。とうとうとした口調、まるで流れるように。
「特別な行動を起こせという意味ではありません。 ただ、我々の意見に同意すると何度か発言していただくだけで良い。 それも公式の場である必要はありません。 あなたを慕う幾人かの若い有力者たちにそれとなく伝えていただければ十分です。 ぜひご協力のほどをお願いいたします」白髪は静かに頭を下げる。運転手は黙ったまま答えない。ただ考え込むように助手席のシートを見つめるだけだ。 突然、白髪が腕時計を確かめた。そして言う。
「そろそろイベントが終わります。お仕事の邪魔をしてはいけませんので、私はこれで」ドアを開け、白髪は車を出た。そのままよどみない足取りでタクシーの後方へと消えていく。 後には開かれたままのドアと無音の空間だけが残った。
「……フン」軽く鼻を鳴らし、運転手はハンドルに向き直る。緊張をほぐすかのように身体を伸ばして。
ふー、と息を吐く。
やがて彼は煙草をもみ消し、愛車の鍵を回した。 エンジンがかかる。心地よい回転音が車内を満たした。エンジンは今日も快調のようだ。 しばらくして、たくさんの人々がイベント会場からあふれ出てきた。 ☆型ランプのタクシーにもお客が乗り込む。
「お客さん、どちらまで?」運転手が笑う。苦みばしった営業スマイル。本日も景気は上々。 行き先を確かめ、運転手はギアを入れ替えた。アクセルを踏み込む。
まだ客を拾えない同業者らを横目に、彼は慣れた手つきでハンドルを回した。 Evolution、進化の風は止まらない。 風にもてあそばれる男たちを飲み込んで、熱い夜がふけていく。