「やめな。」
ひゅっ、と風を切る音と、ほぼ同時だっただろうか。
声が、した。
びくりと身体を震わせ、赤毛は引きずろうとするのをやめない金髪の手を振り払って辺りを見回した。
ふと眼鏡の男に目をやると、顔をしかめて手を押さえている。
指の間からは鮮やかな赤。
流れ落ちる鮮血の原因は、どうやら突き刺さったナイフのようだ。
「こっちも依頼でね。ごめんな、本当に。」
にっこりと笑いながら、年下の背後に現れたのは。
皮の手袋をはめた左手に5・6本ほどの細いナイフを持ち、右手に大ぶりのナイフを持って立っていたのは。
赤毛の脳裏に、数日前に見た鏡の中の自分がひらめく。
「にぃ、さん!!」
間違えようがなかった。
はりさけそうな何かが声になって、のどの奥からかすれ出る。
当たり前だが、自分より年上の顔。
数日前、鏡の中に見た顔とはずいぶん違う。
髪型だって微妙に違うし、茶髪だし、何よりもずっと大人っぽかった。
今では30歳近いはずだ。
久しぶりに見た兄は、上手くいえないが、すっかり『大人の男』の顔になっていた。
にこにこしている赤毛の兄に、眼鏡が声をかける。
「そっちも依頼? まいったなぁ。」
のんきそうに顔をしかめて笑う。手の傷が痛そうだ。
「そ。悪いけど邪魔するよ。ある方々からの依頼でね。
どうしてもはずせないんだなぁ、わかってよ。」
赤毛の兄はあくまでにこやかに言う。
面食らったのは金髪と年下だろう。それこそ目を点にしているように見える。
「わかったわかった。じゃあ、今回は負けとくよ。」
眼鏡の男はあっさりと両手を上げた。
「一つ、借りだな。」
赤毛の兄が、赤毛たちの前に出ながら言う。
仲間二人とともに、赤毛は自分より背の高い兄の横顔を見上げた。
「ふふ…、どうだかな。結局は俺も得するんじゃないか?」
眼鏡がおかしそうに笑った。
「へえ?」
赤毛の兄も楽しげに眉を上げる。眼鏡は後ずさりつつ、へらりと笑った。
「そちらの依頼者さま方に、どぉ〜っぞよろしく。」
「ははっ、わかったよ。まかしといて。」
何が何だかよくわからないが、本人たちにはよーくわかったらしい。
奇妙なやり取りを終えて、眼鏡の男は建物の中に消えていった。
あとには、きょとーんとしている仲間が二人と、赤毛。
そして。
「大っきくなっちゃったなぁ。」
懐かしそうに、赤毛を見つめる一人の男。
かろうじて、飛びつくのだけは我慢した。
仲間の手前恥ずかしかったし、何より今の状況では命に関わりかねない。
だって、兄の真後ろは階段なのだから。
転げ落ちたら目も当てられない。飛びつくなんていくらなんでもバカバカしいじゃないか。
いくらか冷静さを取り戻し、赤毛はやっと笑顔を作った。
仲間二人を引っ張って、目の前のナイフを持った男を示す。
「これ、……ウチの兄貴。」
照れくさくて懐かしくて、急に出てきた兄貴がどこか腹立たしくて、ひどくぶっきらぼうに紹介する。
「はじめまして。」
兄も、どこか照れくさそうだ。
仲間二人もどんな態度を取っていいのかわからないのか、とってつけたような挨拶をする。
「帰るかっ!こっち側に来るのは久しぶりだしな〜。」
いそいそナイフをしまいつつ、赤毛の兄貴が笑顔で言った。
ふと思い出し、赤毛は、さっき眼鏡に放られたライターを見る。
幼かったあの日、兄にもらったのと同じ製品だった。
「やっぱり……。」
ぼそりと言った弟をにこやかに見た兄は、次の瞬間、奇声をあげてキックをかわすことになる。
「よっ……けいなこと、他人にべらべらしゃべるなぁーっ!!」
髪と同じくらい顔を真っ赤にして、赤毛が兄に襲い掛かる。
金髪と年下は、大きな?マークをいくつも浮かべながら、呆然と立ち尽くした。
「しょうがないなぁ。じゃあ、コレやるよ。」
困り果てた表情で優しい兄がくれたのは、彼がいつも持っていたライターだ。
「コレさえあれば、兄ちゃんがついてるのと同じだからな。寂しくないぞ?」
不満げに、しかし、こくりとうなずいたのは一人の少年。
涙色の輝きに満ちた、素直な瞳の少年だ。
出かける兄を「行かないで」とさんざん引きとめて、困らせた挙句のことだった。
両親が留守だったその日、甘えん坊の少年は寂しがって兄にしがみついたのだ。
後々、兄は事あるごとにライターの一件に触れてはその甘えぶりを語り、弟を怒らせた。
まだ兄弟二人とも、黒髪だった頃の出来事だ。
頭上では、朝から昼に変わり始めた空に金色の太陽が輝く。
奇しくもあれから十年である。
ひょっこり兄が帰ってきたのは、かつて赤毛が表通りに足を踏み入れたのと同じ日付。
赤毛の青年が、23歳の誕生日を迎えた日のことだった。