それからしばらくの間も、私とボスらしき男の根競べは続いた。ボス風の男は私をなだめたり脅したり。必ず無事に帰してやるからと猫なで声を出し、次の瞬間には怒号をぶつけてくる。刃物をちらつかせて私の頬を浅く切ったりもした。かと思えば、早く帰りたいだろうと優しく肩を叩いたりもした。
私は押し黙る。口を聞く気にはならなかった。
「口の堅い女だな」ボスらしき男が呆れたように言う。ふん、と思った。口が堅いことなど当たり前だ。私はオウム、『メッセンジャー』。守秘義務を守り通せることは何よりも基本的、かつ大切な資質。
やがてボスらしき男は脇の方から小さなテーブルを引っ張ってきた。
「金をやろう」そう言って、ボスらしき男はテーブルの上に腰掛けた。
「大金をやるぞ、伝書鳩なんかやってたんじゃ一生稼げない金を」どうだと視線で問いかける。私が黙っていると、彼は小切手を取り出してちらつかせ始めた。
「ほら、ほら」小切手にはすでに数字が書かれているようだった。チラリと見えたのは0の列だ。0、0、0、0、0……、0がたくさん。
「……」私は無言でそっぽを向いた。
「小切手じゃ信用できない、かぁ……」ボスらしき男は的外れなことを言って胸のポケットに手を入れる。二つに折りたたまれた薄い札の束が出てきた。薄いとはいえ、けっこうな金額。男はその束を叩きつけるようにして机に置いた。ぺし、と音が鳴った。
腰の後ろにも手をやる。おそらくは臀部のポケットからだろう。もう1束、同じくらいのお金が出てきた。同じく机の上に置く。
「どうだ? とりあえずこれだけやる。この金でお前のもっている情報を買うんだ。いい話だろう?」私は黙ってそっぽを向いた。ボスらしき男は引き笑いを漏らして言った。
「足りない、か?」男が私の背後に合図を送る。すると、チンピラ風の若者が一人、古びた皮のカバンを持って前へと進み出てきた。ボスらしき男がカバンを受け取り、テーブルに置く。
「わかった。おれも男だ、腹をくくろう」男はそういってカバンを開いた。中には……札束。さっきの薄っぺらい束とはくらべものにならないくらい、たくさんの。
「これでどうだ!?」誇らしげなボスらしき男。私は黙ったままで首を横に振った。
「なぜ意地を張る? いい取引じゃないか。無事に帰れるし、金も手に入る」ボスらしき男はなおも食い下がる。
「これだけあれば伝言屋なんかやらなくたって暮らしていけるぞ? この金でいい服を着て、うまいものを食って、男捕まえて幸せに暮らせよ」私はまだまだ黙りこくって目を閉じた。そんな言葉に乗る気はない。
「わーかった! じゃあこれでどうだ」ボスらしき男はパンと手を打ち鳴らして言った。
「いい男紹介してやる。カタギで稼ぎのある男前! ホントだぞ? それで、結婚して、伝言屋は引退! な、それが女の幸せってやつだろ?」まぶたの裏の暗闇の中、男の言葉が鳴り響く。
私は考えていた。
この男の言う幸せのなんとつまらないことか。 大金を手にすること。贅沢な暮らし。恵まれた結婚をすること。世間的には確かに、大きな幸せの形であるに違いない。だが、それに魅力を感じない自分がいる。では、私の幸せって何だろう。
『それで幸せか?』
力強い声が脳裏に響いた。本当は小さく投げかけられた言葉。でもこんなに強い印象を持って私に問いかけてくる。さっき、エレベーターの前で聞いた声。得意客の部屋から出た後に出会った黒服の男性が、記憶の中から私を見つめる。黒い髪、黒い服、そして黒い目の力強さ。
「私は、」私は目を開いた。
「私は、こんなに価値のある仕事ができて幸せ。これだけ脅しや金を積んでも引き出したい大事な伝言を預けてもらえて。無事に帰れるかどうかもお金も、私の幸せには関係ない。もっとレベルが高い別の仕事ができても幸せじゃない。今の仕事で、大好きなオウムのままで、最期までいられることが私の幸せ!」
もう、迷いはなかった。真っ直ぐにボスらしき男を見据える。ボスらしき男は面食らった表情で私を見ていた。それから憎々しげに唾を吐き、手にしていた刃物を私に向けた。
「ごたくはいらねぇ、とっとと吐け。でなきゃ大事な体に傷がつくぞ?」男は私の胸に刃物を押し当て、ゆっくりと横に引いた。赤い線が残る。血の色。ナイフの通った跡が熱い。線の上で血が玉になってあふれ出し、肌の上を伝っていった。こんなのは何でもない。どうせただの浅い傷。歯を食いしばって耐える。
その様子を見てか、男がクツクツと笑い声を漏らした。背後からもいくつかの声が聞こえる。もっとやれとはやし立てる声。
そのときだった。
キィィとさび付いた音がした。同時に後ろの方から白い光が差し込む。ドア、と思った。きっとドアが開いたのだ。
ボスらしき男が不審げにそちらに向いた。私も首を目一杯に回して後ろを向いた。明るい四角形が見える。薄暗い部屋の一部を切り取ったように、ぽっかりと開いた空間。人影が見えた。何人もの人影。人影の中から一人、帽子をかぶったシルエットが進み出てきた。
「はぁ〜い、ご苦労さーん」その声には、聞き覚えがあった。
「っ、てめぇは……っ!」私の横でボスらしき男がかすれた声を出す。私は目を輝かせた。今ドアの向こうにいる人は、私の味方に違いなかったから。
たたたたたた、と聞き慣れない音がした。ポップコーンが弾ける時の音に似ている。悲鳴が上がった。耳障りな男たちの悲鳴だ。私の背後にたまっていた若い男たちが逃げ惑う。何が起こったのかはよくわからない。
ふと横を見ると、ボスらしき男がいつの間にか姿を消していた。
「無事かな?」懐かしい声がする。さっき聞いたばかりの声だ。それなのに、なぜかとても懐かしい。
「ケガない? ……ある、か。でも、無事でよかった」帽子の下からウインクをくれたのは、さっき別れたばかりの得意客。彼の後ろには大きな銃を持った人間が3人ほど立っていた。
得意客は帽子のつばの辺りからカードを取り出し、私を縛ったロープにあてがう。スッとカードを引くとロープは音も立てずにすっぱりと切れた。どうやらカードは鋭い刃でできていたらしい。
「私、言いませんでした」私の声はずいぶんと気の抜けた響きだった。得意客はにっこりとうなずき……、
「知ってるよ」そう答えた。
得意客は部屋の隅にあった洋服ダンスを指さし、銃を持った男たちに目くばせを送る。それから、そっと私の両目を覆った。
「あの……」私が何事かと問いかけたとき、またあのポップコーンのような音がした。バタンと大きな音。続いてどさりと何かが倒れる音、誰かが低くうめく音が聞こえた。
「さ、行こうか」得意客が言う。彼は私の目を覆ったまま、立つように促してきた。私は席を立った。両目を隠す指の下から部屋の床が見える。ボスらしき男が倒れていた。血まみれで。この得意客はやはりまともな世界の住民ではないのだな、と思う。
でも、そんなことはどうでもよかった。とにかく助かった。今、確かなのはそれだけ。
「これ、着ちゃって」部屋を出たところで、得意客が言った。差し出してきたのは彼自身の上着。そこでやっと自分がどんな格好だったかを思い出した。おじぎをして上着を受け取る。私には大きすぎてぶかぶかだ。
「ちょっと時間くれるかな。ウチの相方がどうしても話したいって言うから」そう言って、得意客は私を車へと導いた。ちょっと高級そうなセダンタイプの車だ。車は音もなく、滑らかに走る。町中へと運ばれながら得意客の横顔を眺めた。
似ていると思った。目の力強さが、どことなく。ウチの相方と呼ばれる人物が誰なのか、わかった気がした。