■ The reportage


彼は、ただの売れないジャーナリスト。
まったくもって無名の、さえない男だ。
カメラ片手に町を行く、生真面目さと愛嬌を感じさせる風貌。
スキンヘッドと熊のような口髭も人の良さそうな雰囲気を隠してはくれない。
太い黒縁の眼鏡のせいだろうか。熊というより、たぬきに似ている。
古来、たぬきは人を化かすという。
だが、彼はどちらかと言えば、だまされやすいタイプに見えてしょうがない。
『だまくらかされやすそう』など、ジャーナリストとしては最低の評価だが。


夜更けの街角である。
小雨が降っていた。
霧のような雨粒の下で、熊髭の男は何かを待っている。
手には安っぽいビニール傘を差し、肩からはいつものカメラバックを下げていた。
少し寒いのか、ときどき足踏みをしながら。
熊髭を小さな水滴でいくらかぬらし、彼は何かを待つ様子だった。
目の前には道路が広がっている。
人通りもほとんどない深夜の路上を、何台かの車が走り去っていった。
どのくらい経っただろう。
やがて、熊髭のジャーナリストは一台のタクシーに乗り込んだ。
屋根の上に、星型のマーク。バンと音を立て、タクシーはドアを閉める。
「どちらまで?」
運転手が問う。
お決まりの問いかけの中、煙草の臭いがかすかに漂う。
「進化を。」
熊髭の彼は答えた。
いたって生真面目な口調だが、普通に考えれば意味不明な答えだ。
案の定、運転手は思い切り不審そうな顔でバックミラーをのぞいた。
「……何だいそりゃ。」
くくく、と声を殺して運転手が笑う。
顔には、いかにも困った客だとでも言いいたげな苦笑いが浮かんでいた。
「Evolution。」
もう一度。
緊張の面持ちで、熊髭が答えた。
運転手はほとほと困ったらしい風に言い返す。
「お客さん、そりゃちょっと聞いたことないねぇ。」
細められた目がバックミラーごしに熊髭の男を見つめる。
さすがに今度は、熊髭の男もその視線に気がついた。
「あ……。」
少しばつが悪そうに、髪のない頭をかく。
的はずれだったのだろうか?
熊髭は照れくさそうに、しかし、どこか納得がいかない表情で首をかしげた。
その様子を見ていた運転手が、再び、くくっと笑う。
「どうしますかねぇ、お客さん。」
後部座席の中央で、熊髭の男は両手を組みながら顔を伏せた。
しばらくの間、沈黙が流れる。
一分……二分………。
運転手がしびれを切らそうとしたとき、突然、熊髭がある氏名を口にした。
初対面の客が知るはずのない、運転手のフルネームを。
いぶかしげな視線をよこす運転手へ向け、熊髭はさらに言葉を続けた。
「裏での名は―」
パタン、と音がした。視線を上げれば『空車』の明かりが消えている。
熊髭が言いかけた名をさえぎるように、運転手がメーターのスイッチをONにした。
無言のまま、彼は『深夜料金』と、もう一つ『割増』のボタンを叩く。
「え?」
思わずとまどいの声を上げる熊髭に、また、運転手が問う。
「……どちらまで?」
先程までの笑いが消え去った、低い声音だ。
やはり。
喜びを隠そうもとせず、一気に姿勢を起こす。顔には明るい生気があふれる。
確信をもって、熊髭は答えた。
「Evolutionを、進化のことを、話せるところまで。」
タクシーは、静かに暗い車道を走り出す。発車時刻は午後10:56だ。

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