夜更けの街角である。
小雨が降っていた。
霧のような雨粒の下で、熊髭の男は何かを待っている。
手には安っぽいビニール傘を差し、肩からはいつものカメラバックを下げていた。
少し寒いのか、ときどき足踏みをしながら。
熊髭を小さな水滴でいくらかぬらし、彼は何かを待つ様子だった。
目の前には道路が広がっている。
人通りもほとんどない深夜の路上を、何台かの車が走り去っていった。
どのくらい経っただろう。
やがて、熊髭のジャーナリストは一台のタクシーに乗り込んだ。
屋根の上に、星型のマーク。バンと音を立て、タクシーはドアを閉める。
「どちらまで?」
運転手が問う。
お決まりの問いかけの中、煙草の臭いがかすかに漂う。
「進化を。」
熊髭の彼は答えた。
いたって生真面目な口調だが、普通に考えれば意味不明な答えだ。
案の定、運転手は思い切り不審そうな顔でバックミラーをのぞいた。
「……何だいそりゃ。」
くくく、と声を殺して運転手が笑う。
顔には、いかにも困った客だとでも言いいたげな苦笑いが浮かんでいた。
「Evolution。」
もう一度。
緊張の面持ちで、熊髭が答えた。
運転手はほとほと困ったらしい風に言い返す。
「お客さん、そりゃちょっと聞いたことないねぇ。」
細められた目がバックミラーごしに熊髭の男を見つめる。
さすがに今度は、熊髭の男もその視線に気がついた。
「あ……。」
少しばつが悪そうに、髪のない頭をかく。
的はずれだったのだろうか?
熊髭は照れくさそうに、しかし、どこか納得がいかない表情で首をかしげた。
その様子を見ていた運転手が、再び、くくっと笑う。
「どうしますかねぇ、お客さん。」
後部座席の中央で、熊髭の男は両手を組みながら顔を伏せた。
しばらくの間、沈黙が流れる。
一分……二分………。
運転手がしびれを切らそうとしたとき、突然、熊髭がある氏名を口にした。
初対面の客が知るはずのない、運転手のフルネームを。
いぶかしげな視線をよこす運転手へ向け、熊髭はさらに言葉を続けた。
「裏での名は―」
パタン、と音がした。視線を上げれば『空車』の明かりが消えている。
熊髭が言いかけた名をさえぎるように、運転手がメーターのスイッチをONにした。
無言のまま、彼は『深夜料金』と、もう一つ『割増』のボタンを叩く。
「え?」
思わずとまどいの声を上げる熊髭に、また、運転手が問う。
「……どちらまで?」
先程までの笑いが消え去った、低い声音だ。
やはり。
喜びを隠そうもとせず、一気に姿勢を起こす。顔には明るい生気があふれる。
確信をもって、熊髭は答えた。
「Evolutionを、進化のことを、話せるところまで。」
タクシーは、静かに暗い車道を走り出す。発車時刻は午後10:56だ。