熊髭は一番やっかいな話題を初めに選んだ。
「さぁね」思ったとおり、運転手は気のない返事をよこす。
これでいい。もともと、はじめから素晴らしい返答をしてもらおうなど期待してはいない。
「もう本っ当にあなたのお考えでいいんで、例えみたいなもので」熊髭はすかさず、ことさらに軽い調子で問いを重ねる。
「例えねぇ?」運転席から困惑したような声がもれた。
「あ、じゃあ、一言で言うと?」熊髭は明るく尋ねる。すると、運転手もまた、どこか楽しげな風にふうっと煙を吐いた。
「ふーん、まぁおもしろいモン、じゃねぇの?」半分笑いを含んだ声音が、煙草の香と共に流れる。フロントガラスに当たってはね返り、白い煙は車内に散った。
(おもしろい……)頭の中で、相手の言葉がくり返し響く。そろそろ、対向車も減りだした。午前0時にはまだ遠いが、刻々と夜はふけていく。明日が近づく暗闇の中、熊髭はせっせとメモを取る。
「進化、なんてけっこうすごい言葉だと思うんですが、このEvolutoinと呼ばれる動きの前後で、世界は変わると思いますか?」書く手を止めて熊髭が問う。
「さぁーな。それこそ俺の知ったこっちゃねぇよ」ニヤニヤと運転手が答える。ちびた煙草が揺れている、口の端から落ちそうで落ちない。
「はぁ、じゃ、もし変わるとしたら、どんな感じになりますかね」ククク、と、また低い声が笑った。
信号が黄色に変わる。すーっとスピードを落とし、タクシーは動きを止めた。信号待ちの間に、運転手は吸殻を灰皿に押しつけて新しい一本をくわえる。バックミラーをチラリと見て、彼はこう言ってきた。
「たいして変わんないんじゃないすかね、お客さん」振り向く。
熊髭は目を見開いた。予期せぬ相手の行動に一瞬ひるむ。
運転手は、一息、深く煙草を吹かした。前の座席と座席の間から身を乗り出した瞳には鋭い白刃の輝き。射抜くように。
「アンタはどう思うんだ?」数秒間だけ、迷った。どう答えていいものか、そもそも答えていいのか? だが、ぶっちゃけた方がいい、と腹をくくる。
「自分は…たぶん何かが起きやすい世の中っていうか、今も起こっている何かがもっと起きるようになるんじゃないかと、思い、ます。『何か』って何だって言われるとわからないんすけどね。ただの予想です」照れ隠しのような笑みを浮かべる。ごまかしを含んだ笑いの仮面だ。今夜、こんなふうに笑うのは何度目だろう。
しばしの間。
「そりゃ、」にやり。運転手は笑う。
「後じゃなく、真っ最中のことじゃねぇのかい? え、ジャーナリストさんよ」熊髭は無意識に唾を飲んだ。心臓がのど元まで跳ね上がった気がする。
はは、と声だけで笑う。表情はどうしても引きつった。薄暗い車内のおかげで、少しはごまかせたろうか。
熊髭は笑みを消した。自分も身を乗り出し、運転手の目を覗き込みながら語る。
「……正直、そう、思ってます。勘です! ただの勘です。でも…はずしたことはありません」一つ一つの言葉が熱い。運転手は、ほぉ、という表情で前に向き直った。信号はすでに青。後ろに他の車がいなくてよかった、といったところか。
「どう進化してほしいか、あなたの、希望はありますか?」静かに走り出す車内で、インタビューは続く。
「俺は俺として生きる。それが邪魔されない世界なら、何だっていい」落ち着いた、闇のような声音で運転手が答えた。
「かなり本音だ。ちょっと腹割ってみたぜ、アンタなかなかいい眼してる」耳ざわりの良い低音のしゃべりが、車内に溶ける。熊髭は黙って聞いた。視線を外にやったまま、どこまでも続く車道を見つめて。
「気に入った」運転手は、いかにも心地よさそうにつけたした。熊髭は今度こそ本物の照れ笑いの表情になる。顔、というか、スキンヘッドの頭全体が、ほんのりと赤くなった。
タクシーのヘッドライトが黒くぬれたアスファルトを照らす。霧のような雨は、いつの間にか上がっていた。
「じゃあ、最後の質問です。今、Evolutoinの中で一番頼れる人間と言えば?」再びペンをかまえ、『最後から二番目』の質問に取りかかる。そのとたん、運転手はひどくおかしそうにゲラゲラ笑いだした。
「俺だ、俺。頼りになるのは自分だけさ」必死にハンドルを握りながらひとしきり笑い転げた後、運転手が言った。実に、彼らしい答えだ。わずかな時間だが一緒に過ごした中で感じた彼の人柄、印象そのままだった。
運転手は涙まで浮かべて、まだ息苦しそうに笑っている。まさに爆笑だ。そこまで笑える質問をしたつもりはなかったのだが。
「あんたもそうだろ? 自分の勘だけに頼ってる。どうだい?」かすれる息の下から、逆に問い返された。ああ、確かに。細かくメモを取りながら、そうかもしれない、と熊髭は微笑んだ。全く別の性格に見える二人なのに、どこか同類の予感が漂う。
少しでも取材相手と打ちとけていきたいと考える熊髭にとって、この出会い。今後にも期待できそうな、よいめぐり合わせだった。
「ありがとうございました」ノートを閉じ、ペンをしまう。
「はいよ、こんなモンでよかったのかぁ?」頭を下げ、礼を言う。
「ククク…ならいいけどな」運転手はサイドミラーに目をやりつつ、またおもしろそうに笑った。