これが本当の『最後の質問』だ。熊髭は、後部座席の真ん中からのぞきこむようにして語りかけた。ちょい、と熊髭の様子を見て、運転手が不思議そうな表情になる。
「ん〜?」煙草を吹き出しかけるほどの勢いで、運転手は再びゲラゲラと笑い出した。
「おンもしれぇこと聞くなぁ。どういうモンの好みだ?」くすくすと声をもらしつつ、運転手は灰皿に煙草を押し込んだ。
「そーねぇ、プリンだね。あの安〜いゼラチンぽいやつ。甘いモンが好きなんだよな〜」熊髭は思わずすっとんきょうな声を上げた。心底、意外だ。イメージに合わないにも程がある。
「そうか?」熊髭は指先で、自分の腹を何度か押した。我ながらいい弾力だ。きっとバックミラーを通して運転手にも見えていたのだろう。ぶくくっ、と盛大に吹きだす音がした。
「自分で言っちゃいけねーよぉ」気のせいか、ノートを閉じた後の方が会話が弾む。車内はひどく和やかな空気に満ちていた。二人ともまるで仲のよい友人のようだ。
「あとなぁ、」突然、運転手が言った。
「はい?」不意をつかれた熊髭に向かって、バックミラーからにやりと笑いかけてくる。
一瞬、何のことだかわからなかった。熊髭が、どうも『お前も含めて』の意味で言われたらしいと気づいたときだ。運転手が、バックミラーの角度を変えた。それからチラと横を見やる。サイドミラーの奥、背後に迫る一台の黒い車が映っていた。
「お客さん、ちょいと飛ばすぜ」急に態度の変わった相手にとまどう。ただならぬ様子だった。いったい、何が起こったのだろう。
「後ろだ、静かに見てみろ」運転手が声をひそめる。熊髭はただうなずいた。そして、首を縮めるようにしてそっと振り返る。
背後に一台の車が迫りつつあった。その姿は少しずつ大きくなっている。今はまだ遠いが、スピードを上げて接近中なのだ。時刻は午後11:49。辺りに他の車はない。
不審な車。100mほどまで近づくと、その黒い車はややスピードを落とした。そのまま一定の距離を保ち、どこまでもついて来る。明らかに尾行だ。
「つ、つけられてる!?」息を飲む熊髭。
「そういうこった。しっかり座れよ。どっかつかまってろ!」別人のような凄みを帯びた、運転手の声。ギュリリリリリッ、とタイヤが悲鳴をあげる。タクシーは夜の道路の真ん中で、突然Uターンした。しかも、同時に加速し出す。
熊髭は必死で姿勢を保った。勢いで体がななめ横に持っていかれる。しかし、倒れているひまはなかった。千載一遇のチャンス。本物の危険なカーチェイスを体験できるのだから。
いきなり方向を変えたタクシーの様子に、気づかれたと悟ったのだろう。尾行車の方から、弾けるような乾いた音が数発響いた。
「いいい、今の音は!?」どもりながら、熊髭は必死で尾行車の観察を続ける。あの音には聞き覚えがあった。だが、今まではテレビや他の人間が取材したテープを通して聞いただけだ。リアルでは初めて耳にする。
銃声だった。
「この程度でわめくんじゃねぇよ」運転手の叱責が飛ぶ。小声だがやたらに迫力があるのは、裏での生き様の現れだろうか。
タクシーは、まだ方向転換できていない尾行車とすごいスピードですれ違う。尾行車の窓はすべて黒く覆われていた。そのため、開いている部分だけ色が違ってわかりやすい。
熊髭の視線の先で、半分ほど開いた窓から怪しい人影が銃口を向けていた。目をこらしたが、運転者や他の人間は見えない。どうやら開いた窓は一つきりで、後はしっかりと閉まっているらしかった。
タクシーは環状線を離れ、しばらく真っ直ぐな道を飛ばした後、バス通りに出る。すでに静かだった環状線とは違い、こちらはまだ車が多い。車の列に入ると、先程の尾行車は乱暴な運転で後を追ってきた。だが、一般の車が邪魔となり、こちらまではなかなか近づけないようだ。
けたたましいクラクションが鳴り響く。タクシーはうまく尾行車と距離を置いたまま、バス通りを一気に走り抜けた。さすがは運転のプロだ。他人の迷惑になるでもなく、すいすいと抜かしていく。熊髭たちが信号機の下をすり抜けた瞬間、信号は黄色から赤に変わった。尾行車は信号に引っかかる。無視して進もうにも、目の前に信号待ちの車がいて止まらざるをえない状況だ。
これでまいたかと思いきや。なんと相手は車を歩道に乗り上げ、そのまま無理やり追いかけてきた。しつこい連中だ。
熊髭の耳に舌打ちの音が聞こえる。タクシーは進路を変え、細い道へと進んだ。スピードを落とさず、抜け道のような入り組んだ道路を何度も曲がる。ときどきドリフト気味にタイヤが鳴った。しかし、尾行車はまだついて来る。本当にしつこい連中だ。
熊髭は激しく揺れる車内でノートを開き、今の状況を細かく書き始めた。角を曲がるたびに、遠心力で体が揺さぶられる。当然、文字は乱れてひどいありさまだったが、熊髭は書くのをやめなかった。