■ Runaway 2 〜 Give up

逃げ出せると思っていた。

いつだってその気になれば逃げられる。俺は自由だから。

「はっきりさせてよ! あたしたち、デキてんじゃないの!?」

ため息で返事をごまかして店を去った。たぶん、このまま二人は終わるだろう。

それほどいい女じゃなかった。実年齢は最後まではぐらかされたが、年はたぶん30代半ばってところ。なんとなく居心地のいい水商売の女。まさかはっきりした答えを求められるとはな。

行きずるでもなく寄り添うわけでもない、曖昧な関係。それを楽しく感じていたのはどうやら俺だけだったようだ。お別れするのは悲しいが、しかたがない。捕まるのはごめんだ。


つかまらないよう、どこまでも。


前にもこんなことがあった。そのときは愛することも別れることも選ばなかった。そうしたら女の方が諦めて去っていった。選ばなかったのは、たぶん、どちらかを選んで後悔するのが嫌だったからだ。結果的に俺が振ったことになった。選ばなかったはずなのに選んだことになった、と思った。

今考えてみればそいつは見当が違う。むしろ失ってしまったのだ、手にしていたはずの二つの道を選ぶ権利ごと。今はもう昔の話。その頃の俺は、自分はどこまでも自由だと感じていた。そう、例えば自分はいつまでも逃げられる男だと。

目の前に二つの道がある。どちらも選び取りたい。どちらも選びたくない。そう迷ったならば、答えから逃げればいい。そうすればどちらにも縛られることはない。

気づかないふりを決め込めば。俺には出来ると思ってたんだ、永久に選ぶ手前を楽しみ続けることが。初めて『どうやらそうじゃねぇ』ってことに気がついたのは20歳を過ぎた頃。情けねぇ話だろう? 気づくのが遅すぎる。まるで白痴だ。

思い返せばお恥ずかしいって奴。とんだ思い上がりだった。逃げ続けることなんてできないもんだ。長い間そんな思い上がりを抱えたままで暮らしていられた。思うに、俺はずいぶんと幸せな男だったのだろう。


逃げろ、逃げろ、どこまでも。

つかまらないよう、どこまでも。


逃げて逃げて、どこまでも逃げて。きっと逃げ切ってみせると思っていた。青くて若いあの頃の自分、そんな未熟さとはおさらばしたと思いながら暮らしていた十とン年間。ところが俺はまだ同じことを繰り返すつもりだったらしい。

選べ。どちらにつくか、はっきりと。

その圧力はついにご本尊が登場するまでに強くなった。最悪の事態の一歩手前だ。ここを見誤れば選ぶ権利すら失う。むしろ警告してくれてありがたいってなもんだ。警告が無ければ確実に最悪を迎えていただろう。

【Evolution】、『進化』とあだ名される動きが世間をにぎわし始めたのはつい最近のこと。……いや、最近でもないか? それでも、確かここ二・三年のことだと思う。

進化したいか? 留まりたいか? その問いかけがちょいと世情に通じた奴らの挨拶代わりになった頃。俺もずいぶんと聞かれたもんだ。

「アニキは当然、進化派っすよね! なんつったって喧嘩上等、キてますよ!」

笑いながら話しかけてきたのはかつての弟分。

「あんたはどっちにつくんだい?」

俺の目の奥を覗き込んできた自動車部品屋の親父。

そのたびに俺は「どっちでもいいさ」とだけ答えてきた。俺が生きるのを邪魔されない世界なら何だっていい。それだけが俺の答えだった。進化したいとも、留まりたいとも言ったことはない。

「どう進化してほしいか、あなたの、希望はありますか?」

そう問うてきた男もいたな。あいつは確か、【Eolution】について取材をしているジャーナリストとか言ったか。なんだ。思い返せば、何度も選ぶ機会はあったわけだ。

なぜだ? なぜ俺はまだ選んでいない? こうなる前に選ぶべきだった。その方が自由に選ぶことが出来ただろう。選んだ結果がどちらであろうとも命を落とすことまではなかったはずだ。

だが、今となっては。

ここでシラを切り続ければ……それもないとは言い切れない。そう、ついこの間、噂に上ったあの元政治家のように。

最近話題のニュースのことさ。もうずいぶんと前に引退した元大物政治家。耄碌した爺さんなのにいまだに影響力があるって噂の御大、その爺が死んだ。病死だって話だ。だが時期が悪い。ちょうど政局が不安定で二つの派閥がバチバチやりあっている真っ最中だ。

『相手方につくのを恐れたどちらかの派閥が殺させたんじゃないか』

そんな噂が立った。爺が動けば困る奴が五万といるってんだから、噂が立つのも無理はねぇ話だ。

もしかしたらあの老いぼれも逃げていたんじゃないか。そんなふうに思う。逃げ切るためか、てめぇの力を思い知らせるために時機を見ていただけかはわからない。だが、どちらにせよ引き延ばしていたのではないか。結論を。

ただの夢想だ。世間の噂をちょいとばかり膨らませて、自分と似たような状況を想像してみただけ。それでも。

俺は自嘲めいた笑みを右頬に張りつかせる。真実のように錯覚して震え上がるには十分な夢想じゃなかろうか。逃げ切ろうとした結果がこれだぜ。そんな目に合うのはごめんだ。

……いや。それでもいいか? いいのならば逃げてみろ。俺よ。逃げられるものならば逃げるがいい。どこまでも、どこまでも。で、いつになったら逃げ切れる? 答えのわかりきった自問自答に浅くため息をついた。


逃げろ、逃げろ、どこまでも。

つかまらないよう、どこまでも。

ところで、追いかけてくるのは誰だ?


結局のところ、本当はわかっちゃいなかったんだ。何から逃げているのか、どこまで逃げていくのか。追いかけてきたのは何だったと思う? 俺はずっと他人が追いかけてきているんだと思ってたんだ。逃げる場所などどこにもないと思うようになった、あの日の後でも。

他の誰かが俺を追う。俺ではない何かの力が俺に選択を迫ってくる。

……違うね。追いかけてくるのは自分の影だ。昨日の朝、俺は急にこの真理に気がついた。歯磨きをしていたら突然、降って沸いたんだ。俺を追いかけているのは俺自身だと。

決断を迫るのは俺の影。どちらかを選ばなければならないと思う俺の頭。どちらも捨てられない俺の心。それらが一緒になって俺を追い立てる。選べ。選べない。選べ。選ばない。ああ、自分自身から逃げることなどできやしない。

どうしてそう思ったんだか自分でもわからない。だが、昨日の朝、俺は確かに知ったのだ。掛け値なしの真理として、本当に、逃げることなどできやしないのだと。とんだ間抜け野郎だ。そんなことに三十路をとっくにぶっちぎった今まで気づかなかったなんて。

いや、今ですら心のどこかではまだ逃げられると思っていたのかもしれない。自分から? 自分自身からどうやって逃げる? 逃げた分だけ相手も迫る。逃亡者と追跡者の間には1mmの隙間すらなく、いつでもぴったりと寄り添って。


EVOLUTION? or NO EVOLUTION?


のらりくらりと振りかかる問いをかわし続け、ついに追い詰められた。最近、厄がついてやがる。どうにもよくねぇ。結論を急がなきゃいけない。これ以上の疫病神にキスされる前に。

これは境界線だ。昨日までの俺とこれからの俺との境界線。境界線を一歩越えたら、逃げない自分が待っている。今はまだ逃げ腰の俺。さて、もう一歩。踏み出した靴の裏が地面につく寸前で俺の足は止まっている。


境界を越え、自分を張り倒せ。


俺は愛車に乗り込むと静かにキーを回した。エンジンは快調、街の中心部へと滑り出す。昼を迎えた町並みはどこかしらけた顔をしていた。何をそんなに退屈してやがる。

ただ一歩を踏み出したくないがために、境界線の手前をどこまでも走る。境界線に近づき、離れ、線を踏まぬようにアクセルをふかす。ああ、なぜ逃げ出したくなるのだろう? この期に及んでまだ逃げ続けようというのか。そんなことなど出来やないと思い至った後なのに。

信号待ち。窓を開けて煙草くさい唾を吐く。諦めきれないのか。まだ自分は自由だと思っているのか、俺は。くだらねぇ。捨てちまいな、そんな幻想は。

逃げる場所などどこにもないさ、迫る追っ手が自分ならな。俺はまた自嘲ぎみに頬を歪めて横断歩道を渡る人々を見つめた。


境界を越え、自分を張り倒せ。

すべてから逃げ出せるなどと甘い夢を見るな。


助手席に投げてあった煙草の箱を取る。ぴょいとくわえる。行く先の信号が青に変わる。火をつけるタイミングを失ったのに、俺はなぜだか楽しげににやりとした。アクセルを踏み出す。手探りでライターを取り出し、火をつけた。一服。白い煙が宙に浮く。

逃げることを諦めたときに全てが始まる気がしていた。


Fin.

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 Thanks for your request! お題は「諦める」でした。
 50000打記念リクエスト企画、小雪 夏さんに捧げます。

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