■ sky

ぼんやりした頭で薄明るい空を見上げると、星が一つだけ残っていた。たぶん、明けの明星。昨日も、そのまた昨日もあの星を見た。

目が覚めたのは明け方のことだ。ここ数日、寒さのせいで早くに目を覚ますのが習慣になっている。仰向けに寝た姿勢のままで天を眺めると、まだ暗さがにじむ空に金星が残っていた。白い点にしか見えない。

いつだろう、自分の心がひどく平坦になっていることに気がついたのは。星を見たって美しいとも思わない。平坦? いや、少し違う気がする。とにかく薄いのだ。喜びもないし悲しみも感じない。

たまに親切にされても特にうれしくもない。逆に、施しを受けて恥ずかしいとも思わない。何かに困ったときでも、実感が薄くて他人事のようだ。感覚がおかしい。まるで感情というものがどこかに消えてしまったかのように。

俺は今、裏通りにいる。自立した生活、というやつに憧れて、親と大喧嘩をしたのがきっかけだ。家を飛び出して、やってきた裏通り。あれから何日が経つのだろう。いまだに知る人もなく、一人きりだ。今、感じるべき感情は何だろう。淋しさだろうか?

乾いた北風。あてもなく町を歩く。日が暮れるまで延々と歩く。歩いて歩いて、疲れきらなければ眠れないのだ。寝る場所は路上。硬いアスファルトのベッドにはまだ慣れていない。いつも眠りは浅くて、目覚めの頃には体中がぎしぎし痛む。

最初はよかったのだ。財布に金が残っているうちは順調だった。裏通りに来て一週間ほどだったある日、俺は財布を落としてしまった。財布自体はすぐに見つかったが中身はきれいに消えていた。

その日からずっと路上で生きている。財布をなくした四日後には、ポケットに残っていた小銭も底をついた。ついに何も食べられない日々の始まり。今日で二日目だ。道端にはいくつか水飲み場のような場所があって、水だけならばいくらでも飲める。でも食べ物となるとどうしようもない。仕方がないから、水だけで空腹を満たす。

裏通りには浮浪者風の人々が多くいる。あの人たちはどうやって食べ物を手に入れているのだろう。心がなくなりかけても、空腹感は以前と変わらない。できれば空腹感の方こそなくなって欲しいのに。そんなことを考えて意味もなく笑った。

見上げた空は夕暮れを迎え、炎のように燃えている。自宅には一度だけ連絡を入れた。確か、財布をなくす前日のことだ。

やけにたくさんの広告が貼り付けられた公衆電話から。使用人に家族を出すよう伝えると、母親が電話口に出た。

『どこにいるの、心配しているのよ』

遊びに行ったまま帰りが遅い子供をしかるような言い方だった。優しげだけれどどこかわざとらしい、少し困ったような話し方。

黙っていたら母親が言葉を続けた。

『職場の方からも電話があったわ、ずっと行っていないのでしょう?』

当たり前だ。だって俺の勤め先のトップは親父じゃないか。直接の上司ではないけれど、親会社の社長は俺の父だ。父との喧嘩の末に家を飛び出したのに、そんな会社にはいけない。

『帰っていらっしゃい』
「もう、遅いよ。戻れない」

母の言葉にぽつりと返す。

『遅くなんかないわ、立ち止まって考えなさい』

言葉の外に含まれていたのは、哀れみの気配。

電話を切ってから、連絡なんかしなければよかったと思った。それきり電話はしていない。母親の声は妙に耳に残り、その後の数日間、うつろな悪夢になって現れた。

浅い眠りで夜をやり過ごした後には、あいかわらず寒い朝がやってくる。俺は路地に身を隠すようにして眠っていた。

目を覚ますと、傍らに人の気配がある。寝転がったまま気配の方へと目をやった。人影が見える。俺の隣りに縮こまっているのは小さな子どもだ。その子は黙って朝日を眺めていた。体育座りのかっこうで白い息を吐きながら。

もそりと体を起こしてみると、その子はさっと俺の方に顔を向けた。目が合う。色黒で、目の大きな女の子だった。

俺は視線をそらして空を見上げた。朝日が昇りゆく東には星の姿はない。全体がひどく薄い色に輝いているだけだ。ただ、まぶしい。

「おなかすいた」

女の子がつぶやいた。それに返事をするみたいに俺の腹がぐぅっとなった。二人して、思わず顔を見合わせる。それから俺たちはまるで友だちどうしみたいに微笑みあった。

「おなかすいたね」

ぽつりと女の子が言った。

「……うん、空いたね」

俺もうなずいた。やがて朝日が昇りきって、世界が動き始める。俺は女の子と別れて歩きに出かけた。何事もないまま一日が終わる。薄汚い通りのあちこちに灯りがともる頃、俺は朝と同じ路地へと足を向けた。そこへ向かう理由は特にない。ただ、なんとなく。

路地をのぞきこむと、今朝早くに出会った女の子がいた。彼女は朝と同じ位置に座り込んで、大きなパンの固まりをほおばっていた。

「……」
「……」

俺も女の子も、何も言わない。視線だけで挨拶を交わして、俺も路地に座りこんだ。ちら、と女の子の方を見る。とたんに腹の虫が派手な音を立てた。

「……食べる?」

パンの固まりを少しだけちぎって差し出してくれた。黙って受け取る。かじりついたとたん、喉が渇いていることに気がついた。何とか唾液をしぼり出してパンをかみ続ける。

「おいしい?」

女の子が聞いてきた。

「……よくわからない」

正直に答えてみた。とにかく久しぶりの食べ物だ。貴重ではある。けれど、おいしいんだか何だかよくわからない。ただ、パンの味だ、としか思わなかった。

「味、しないの?」

女の子がたずねてくる。その口調は、まるでよくあることだとでも言っているかのようだった。

「味は、する」

俺が答える。

「おいしくない?」

彼女が問い返してくる。

「わからない……おいしい、の、かな」

俺は切れ切れに答える。

「変なの」

女の子は大人のような表情で笑った。しばらく無言で食べ続ける。俺のパンはあっという間になくなり、女の子はもうひとかけらのパンを恵んでくれた。

「ありがとう」

感謝の言葉を口にする。と同時に、さっきパンをもらったときにはお礼を言い忘れたことに気がついた。

「さっきの分も、ありがとう」
「うん」

とってつけたように言い足すと、女の子がうなずく。

「うれしい、のかな、俺は」

ぼんやりとつぶやく俺。すると彼女は不思議そうに俺を見てきた。

「気持ちとか、なくなっちゃってて……」

俺はあわててつけ加えた。ああ、言い訳みたいだ。歯切れの悪い言い方で弁解している印象。

「きもち?」

女の子が問うてくる。

「うん、うれしいとか、悲しいとか……、あんまり、感じない」

ぼそぼそと言葉をつむぐ。こんな小さな女の子を相手に、俺は何をしゃべっているんだろうか。

「そういうときもあるよ」

女の子が言う。妙に大人びた言い方だ。こうして話していると俺の方が子どもみたいに思える。

それにしても、心が動かないと言うのは意外と不便だ。うれしさも感じないから、今のようにお礼を言い忘れたりする。新しいパンのかけらに食いつきながら、うつむいていた顔を上げた。女の子と目が合う。

「気持ちって、ないと不便だね」

黙っているのも気まずい気がして、今考えていたことを声に出してみた。

「どうして?」

相づちを打つ感じで女の子が言う。

「うれしいって思わなかったから、お礼、言うの遅れちゃった」

蚊の泣くような声。我ながら聞き取りにくい話し方だ。

「気にしてないよ」

女の子はにっこりと笑った。

「俺は、ちょっと気になる」

俺も少しだけ笑みながら言った。

「その『気になるなぁ』って思うのも、きもちじゃないの?」

女の子は真っ直ぐな瞳で俺を見つめる。ああ、違うんだ。気になると思っているけれど、それは心とは少し違う気がするんだ。頭に浮かぶのは感情をともなわない言葉だけ。思う、という言葉にすら違和感がある。俺を満たしているのは思いじゃなくて、もっと乾いたもの。

「思う、というか……文字で考える、とか、言った方がいい気がする」

言葉を選びながら言ってみた。彼女はよくわからないとでも言いたげな表情で首を傾げる。

「パン、おいしいね」

会話の流れを変えようとするかのような、女の子の言葉。

「うん。おいしいね」

おいしいかどうかなんてよくわからなかったけれど、俺はそう答えた。



夢を見た。

蛇のように動く鎖が、俺の体に絡み付いてくる。だんだんと身動きが取れなくなっていく。俺はもがく。誰か、俺を助けてくれませんか。誰か、俺を縛る鎖を壊してくれませんか。けれど俺は一人きり。誰かなんて、どこにもいない。

ふと気がつくと、さっきの女の子がいた。静かだけれどしっかりとしたまなざしでどこかを見ている。たくましい。彼女はきっと生き抜けるだろう、この裏通りで。

俺もこの幼い女の子のように、ここで生きる術を身につけられるだろうか。

「生きろよ、自分が決めて踏み込んだ地獄だ」

どこからか、声が聞こえる。このセリフには聞き覚えがあった。あれは、裏通りにやってきた日に乗っていたタクシーの運転手。この言葉をくれた人は裏通りの片隅に俺を降ろして闇の中に走り去っていった。屋根に星形のランプを乗せたタクシーに乗って。

もし今、あの人に会えたら、助けてもらえるのかもしれない。あの人はずいぶんと裏通りに詳しそうだったから。

「ちょいと生き方を変えることだな。こっちのやり方になじみさえすれば、地獄は天国に変わる」

そう。裏通りで生きていきたいと言った俺に向かって、タクシードライバーはこう言ったのだ。

『こっちのやり方』ってなんだろう。わからない。わからない。もう間に合わないよ。もっと幼ければ、かえって順応できたかもしれない。けれど俺はもう頭の固い大人になってしまっていて、今から生き方を変えるなんて遅すぎる。

「遅すぎゃしねぇさ、立ち止まりさえしなければ、な」

ふわりと立ち上ったタバコの煙。これは記憶だろうか。それとも、あの人がくれた新しい言葉なんだろうか。



夢から覚めたとき、辺りはまだ真っ暗だった。

いや、真っ暗ではないか。ネオンや店内の光があちこちにあふれているのだから。酔っぱらいたちが立てるやかましい物音が聞こえてくる。たぶん今は真夜中なんだろう。

体を起こした。傍らを見ると、パンをくれた女の子がいない。彼女は路地から通りに出て物乞いをしていた。ほとんどの人たちは何の関心も示さずに通り過ぎる。

その様子を見ながら俺も物乞いになるしかないのだろうかと考えた。ぼんやりした頭に浮かぶ実感をともなわない思考。女の子の後ろ姿を眺めているとまた眠くなってきた。俺は再び地面に横たわり、目をつぶった。

少し経ったころ。

「ねぇ!」

高音のきれいな声に呼びかけられ、俺は目を開いた。目の前にあの女の子の顔があった。

「どこからきたの?」

唐突な質問だった。一瞬何のことだかわからない。俺がどこから流れてきたかを問うているんだと理解するのに数秒かかった。

「俺は、表通りから来たんだ」

なんとなく言いづらくて、実家のある地名までは口にしなかった。ふぅん、と言った女の子は、続けてたずねた。

「帰りたい?」

女の子の問いかけに戸惑う。俺は、帰りたいんだろうか。俺は裏通りに来てから初めて真剣に考えた。俺は、帰りたいのだろうか。

「あたしはここで生まれた。大きくなったらきれいな服を着てお店で働くんだ」

幼い彼女はキラキラした目で未来を語る。それから女の子はうれしそうに通りに出て座った。また物乞いを始めるのだ。その背中は何だかとても楽しげだった。ああ、俺と彼女の距離は果てしなく遠い。すぐ側に座っていても、まるで幾千光年も離れた相手のような気がした。

ねぇ。君にはワクワクする心があるんだね。俺の頭はぐるぐると考え込んでいるけれど、心はちっとも動かないままだ。

頭では明日からどうすればいいのか、裏通りに来たは間違いだったのかと迷っている。けれど、不安すら実感を持っては感じられない。俺の心はどこに行ってしまったんだろう? 俺は今何を感じている? わからない。わからない。

考えても答えは出てこない。

この女の子は幸せそうで、俺はあまり幸せじゃなさそうだ。いったい何が違うというのだろうか。同じように路上で暮らしている宿無しの二人。それなのに俺とこの子がこんなにも違うのは、なぜなんだろう。

俺は、この子がうらやましいのだろうか。それともこの子の幸せもたいしたことはないとさげすんでいるのだろうか。自分の気持ちがわからない。

半ば眠りかけながら、俺は女の子に呼びかけようとした。ねぇ。君はうれしそうに未来の夢を話すけれど、それは本当に幸せなこと? 君が言う「きれいな服で働くお店」ってどんなところなの? 俺の問いかけは頭の中でつぶやかれただけで、声にはならなかった。

ねぇ。裏通りの店はみんな黒っぽく汚れている。店も、店の人たちも。きれいな服の女の人がいたのは水商売の店だけだった。裏通りに来てからずいぶん見たよ。派手なバーや、薄汚れたたくさんの売春宿を。

もしかして、この子が言う「お店」というのはそういう場所なのだろうか。そんなところで働くのが、こんな小さな子どもの夢? 呼びかけようとした言葉は途中から自問自答に変わっていった。

俺は今、何を感じるべきなのか。俺はこれからどうやって生きていけばいいのか。夢とは何か。あの子には夢がある。では、俺には?

わからないことが多すぎた。心や夢なんておぼろげなことから、明日を生き抜く手段といった具体的なことまで。ぽろぽろといくつもの思考が浮かんでは消えていく。

誰か教えてください。何でもいいから、俺を導く何かをください。偽物でもいいから。

『遅くなんかないわ、立ち止まって考えなさい。』

いつか電話から聞こえた母の言葉。そうなのか? 立ち止まった方がいいのか? 俺は戻りたいの? わからない、わからないよ。

『遅すぎゃしねぇさ、立ち止まりさえしなければ、な。』

さっき夢に聞いたタクシードライバーの声。タバコの香りと共に記憶に残る声の主。思えば裏通りへの一歩はこの人から始まったんだ。いつだったか、酒に酔って裏通りに紛れ込んでしまった夜、この人に会ったから。

Heaven、天国という酒場で出会った人。もう一度あなたに会えたなら何かが変わる気がする。

『大丈夫、きっと大丈夫。歩いていこう。もう少しだけ。』

遠くから聞こえるのは誰の声だろう。どこか、俺に似た声。

声よ。もう一言、何か言ってくれ。たった一言でいいから、もう一言だけ言葉をくれないか。俺を生まれ変わらせる言葉を。

こんな考えは、甘えだろうか?

俺はいつの間にか眠りについていた。翌朝、目を覚ましたとき、昨夜の女の子はどこにもいなかった。


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