■ Sophism

彼の一生は詭弁でできている。


それはある意味では、町の行く末を決める条例案であった。こいつが通れば喰い詰めた貧乏人が得をし、企業の儲けが少しばかり減るという。儲けが多い大企業ならば大企業なほど損をする仕組みらしいが、うまくいくかはわからない。その条例を嫌って大きな企業自体が地域から撤退してしまえば、貧乏人が助かるどころか、一般市民が職を失うかもしれないからだ。

今日は、推進派の政治家や何やら小難しい肩書をつけたユウシキシャとやらが新しい条例について住民と語り合うための会合を行っている。この国の決まりでは、地方ごとに定める条例には住民の半数以上による同意が必要だ。

男が一人、発言中である。バン、と机をたたいて立ち上がり、男は語気を強めた。

「貴方はこの政策が次代を育て、町を、国を、世界を! 発展させるとおっしゃる! ならば聞きたい、もし…」

情熱的な語り口を急に弱め、男は口を閉じた。語尾に重なったのは鐘の音だ。録音された金属の音はくぐもったひずみを残して消えた。

熱弁に唾を飛ばしていた男の顔には少し歪んだ眼鏡が引っかかっている。男はどこか眩しそうに細められた目で時計を見た。時刻は午後7時ちょうど。事前に予告されていた終了の時刻であった。

「本日の会合はこれで終わりです! 質疑応答の場は、来週以降に改めて!」

ハンサムな若い秘書が声を上げると、会合の主役たる政治家先生がさっと立ち上がった。無感情な会場係たちが人々を追い立てる。不満の声を上げる者、賛同の意を示してかしきりにうなずきながら立ち去る者。多くが男性だが、幾人かは女性の姿も見える。皆、それなりに余所行きの格好をする中、貧しい階層と見える老人が一人、古びた作業服のまま会場の端に座っていた。

先ほど発言の語尾を消して口を閉じた男は、立ち上がったまま悲しげな表情で乱れた髪を撫でつけた。のろのろと会場の外へと向かう。よれよれのワイシャツにもっとよれよれのネクタイ、灰色のスーツはまだ新しいが、ややサイズが大き過ぎるようだ。一見は役場か銀行の高給事務員風だが、普段はブルーカラーか、安工場の下級事務職程度の人間なのかもしれない。その証拠であるかのように、彼の指先は落ち切れない機械油で汚れていた。

去り際、腰かけたままの貧しげな老人に近づくと、彼はわずかに身をかがめた。

「また後日」

耳元。ひそ、と囁く。あの熱弁も、今の気弱そうな姿もまた嘘であるかのような低く落ち着いた声。

ほこりっぽい風が運ぶ夜の匂い。外はすでに真っ暗だ。橙色の明かりを放つ古い街灯は星の光にも劣らんばかり。ここから数kmばかり離れた場所にある新興の都市では、遥かに性能のいいライトが導入されているという。

会議場となっていたのはこの町最大の公民館だった。壁にひびの入る古い建物だ。

今は寂れたこの町も、十年ほど前まではこの辺り一帯の主要都市だった。交通の主軸が鉄道から自動車へと移り変わり、大型駅と共に栄えた町は自動車産業の発展と共に活気を失った。今やこの辺りの主と言えばハイウェイが通る遠くの都市だ。廃れ行く町が抱える今一番の問題は、老朽化する町の修繕費と加速する失業率の増加だった。

「いや、熱弁でしたな」

話しかけてきたのは裕福そうな中年男だった。鼻の下にちょびりと蓄えられたひげはこの辺りの商人に多いスタイルだ。太っているためか、暑くもない夜だというのにふうふうと息を吐きながら額の汗をぬぐっている。

「いえ……、つい、熱くなってしまって…」

先程まで発言していた男は少しかすれた声で答えた。長い長い政治家の説明の後、ぐだぐだと的を射ない質疑応答が続いていた。黙って下を向いていた男が挙手したのは本当に閉会間際のことだ。熱弁とは言っても、内容の薄い問いを半分ほど発しかけただけだった。

「何だか、よくわからん話でしたなぁ」

商人風の中年男は禿げた頭に流行りの帽子を乗せ、通りに向かって手を振った。その先にはタクシーが客を待っている。彼はあれで帰路に着くのだろう。話しかけられた方は所在なさげに辺りを見回した後、ずり下がっていた眼鏡を上げてその場を立ち去った。


それから小一時間後といった頃のことだ。

先程会合があったのと同じ建物、同じ部屋に男がいた。閉会間際に発言した、あの男だ。小柄な体をさらに小さく見せていた猫背は完全に伸び、整えられた髪には一本の乱れもない。身にまとうのはまるで仕立ての異なる上品なスーツ。今度は体の寸法にもぴたりと合っている。シャツもネクタイもパリッと音が聞こえてきそうな清潔さ。眼鏡もまた、華奢なシルエットの銀縁に変わっていた。

暗い会議場。先刻まで行われていた会合は先日新しくこの町のリーダーに選ばれたばかりの政治家が開いたものだった。40代とはいえ政治の世界ではまだ若手、目新しさから支持率は高い。話し合いの場を持ちます、といううたい文句とは裏腹に、ほとんどの時間が政治家側からの説明に費やされた。きらびやかな言葉で語る明るい展望。素直に酔う者もいれば、慎重さから渋る者もいる。誰より大きく反対を唱えるのはもちろん、頭の古い政敵たち。

「時間が足りなかったようだが?」

朗々と響く声に銀縁眼鏡の男が振り返る。会議場の入り口、明るい廊下を背に一人の人影が立っていた。コツコツと革靴を鳴らして人影は男に近づいた。三つ揃いの高級なスーツにポケットチーフを覗かせ、洒落たステッキを手に持った紳士だ。

「本当に大丈夫かね?」

紳士はどこからか取り出した葉巻の先を噛み切り、鷹揚な笑顔で唇の端にくわえた。先にいた男は懐からマッチを取り出す。必然、近づく二人の影。紳士は年の頃、五十ばかりか。たるんだ顎の肉が贅沢な食生活を物語る。

「ご心配なく。全て、計算の上です」

にこやかに答えて、銀縁眼鏡の男はマッチの火を消した。ふわりと漂う硫黄の匂い。

「どうせ今夜は十分な質疑応答の時間などありません。向こうはもともとそのつもり。今夜は住民の反応を見て、それにより来週の質疑応答に許す時間を調整するつもりでしょう」

にこ、と付け足した笑顔をどう受け取ったのか、初老の紳士は苦虫を噛んだような顔で鼻を鳴らした。

「あとは……、先生。貴方の支払いが済めば、万事予定通りですよ」

男はまるで楽しくてたまらないというように小さくと笑いを漏らす。紳士はぎょっとした表情で彼を見た。

「支払い? 何のことだ」

分厚い唇に引っかかったままの葉巻から紫煙の帯がゆらゆらと昇っていく。暗い部屋の中で朱く灯る、小さな火の色。

「とぼけるなんてひどいじゃありませんか。この画期的な法案に反対し、彼の評判を下げる。それにより貴方が得をするのです、彼により、奪われた、多くの浮動票が貴方やその仲間の議員に戻ってくる。そのために! わざわざ我々に声をかけたのでしょう?」

男は軽妙な語り口で述べながら紳士の周りをくるくると歩き回った。陽気な猿のように道化た振る舞いだ。長い台詞の最後に彼はツッと立ち止まった。

「こんな、裏社会の人間に」

紳士の耳に滑り込むのは錆めいた囁き。不穏なものを感じてか、紳士の表情にも緊張が走る。

「支払いは後だと言ったはずだ」
「ええ……成功報酬として五本ほどと。ですが…本当に払えるんですか?」

重苦しく告げた紳士の言葉に、男は問いを返す。友人どうしの軽口にも似た口ぶりに、紳士はしばしばと目をしばたいた。

「いや、存じております。存じております。先生にかかればたったの五本。安い買い物だ!」

五本、とは報酬の額を表す言葉らしい。金なのか、物なのか。五とはいったいどれほどの意味か。詳しいことは知りようもないが、どうやらこの紳士にとって決して高いものではないらしい。

「しかし!」

男は芝居めいた調子でくるりと振り向いた。ひた、と見据える視線は紳士をとらえている。微笑に形を取ったまま、それでもどこか獰猛な眼光で。

「我々には安い金額ではありません。大金です、5万……っ、いや、失礼。五本、五本です。ううん、失礼」

男は咳払いをし、首を伸ばして辺りを見回す。

「ですから先生、ぜひとも、先に頂きたいのです。信用しないと言ってるんじゃありません、先生は支払える、わかってます、わかっていますとも。ですが、ねぇ」

男は一層、声を潜めて先を続ける。

「もし……払えなくなったらどうします? 明日、先生が不慮の事故にでも遭って……」
「止めたまえ、縁起でもない!」

初老の紳士は血相を変えて叫んだ。

「シ、シ、シー! 声が大きい!」

声を潜めて、鋭く制止する。どうどうとあやすかのように両手を胸の前に挙げ、憤る紳士をなだめすかして男は先を続けた。

「あくまで、あくまで仮定の話です。でも、もし支払いが滞るようなことがあれば……。私どもとしても、先生以外の方に請求しなきゃいけません。ご子息とか、……お義母様とか?」

この発言に紳士は顔色を変えた。

彼は婿養子なのだ。妻の父親は著名な政治家だった。その地盤と名声を引き継ぎ、義母からの支援を受けて勝ち得たものが今の地位だ。敬虔な信仰者でもある義母が、資金をマフィアとの癒着に用いていると知ればどれほど機嫌を損ねることか。

「……明日までに用意する」

舌打ちを隠そうともせず紳士が立ち去る。後払いの約束をしておきながら、有るとも限らぬもしもの話を持ち出した男は一人、月光が差し込む室内でひっそりと佇んでいた。


1.事実に対して仮定を持ち出す

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