■ Sophism

硬質な床が窓からの陽光を跳ね返す。長く細い廊下は良く磨かれていた。

コンクリートに直接ペンキを塗りつけただけの壁とは対称的に、床の方はかなり手がかけられているようだ。素材はリノリウムに似せた作り物だが、わずかなひび割れもなく、塵一つ落ちていない。

カツカツと硬い革靴の音が響く。眼鏡のガラスを光らせて現れたのは、先日、古い町の会議場にいたあの男だ。今日はワイシャツ姿にスーツの上着を片手に持ち、後ろに若い同僚を連れて歩いていた。若者はラフなTシャツとジーンズ姿、よく見ると片腕がない。

二人は会議場のある町からやや離れた場所にある賑やかな町の中心街にいた。その一角にある古いビル。ごく普通のオフィスを装った一室が彼らのアジトだ。別の街にも『支社』がある。通称を『カンパニー』という彼らの組織は、いわゆるマフィアやギャングの類でありながら、まさしく会社組織のように整った体系を持つことが特色であった。

「おい、このチビ野郎」

急に声をかけてきたのは30〜40代と見える大柄な男だ。まるで紙屑を丸めたのかというほど深いしわを刻む眉間が不機嫌さを示している。鼻だけが赤い気の荒そうな印象の人間だった。

「勝手なことしてくれたな」

居丈高な口ぶりで大柄な男が言う。会議場にいた方の男は何も言わない。ゆっくりと接近した二人は、文字通り、顔を突き合わせる直前の位置で立ち止まった。ふわり、揚げた芋の匂いが鼻孔をくすぐった。対峙する相手の昼食はフィッシュ&チップスか、ポテトフライつきのハンバーガーか。

「前払いさせたって? 余計なことしやがって!」

いらだちを隠そうともせずに吐き出された言葉に、会議場にいた方の男はフッと鼻だけで笑った。すでに予測されたやりとりだ。今さらうろたえるまでもない。

「どうもすみません。もともと先払いが我が組織の流儀でしたもので」

大げさな抑揚をつけて男が言う。大柄な方はぐりっと目を向いて鼻息を荒くした。

「それでいいって言われてんだよ! それでもいい、デカい仕事を取ったんだからお前の手柄だっ、と! それを横から……カーッ!」

激高したのか、最後は言葉にならない。会議場にいた男はニッコリと微笑んでこう答えた。

「報酬が支払われない可能性が少しでもあるならば、除いておきたくなるもので。ただ働きは御免です。働くのは営業担当のあなたではない、実務担当の私ですから。では失礼」
「待て、この野郎!」

通り過ぎようとした男の肩をつかみ止める大柄な男の手。うんざりとした表情で振り向いた男の顔に、こんな台詞が飛んできた。

「ほ、報しゅ……、払わなければヤキを入れるだけだ。お前が決めていいことじゃない! 契約はっ、俺がっ、決める!」

飛んできた唾に顔をしかめつつ、興奮で顔を真っ赤にした大柄な男を見やる。しかたがないとでも言うように、男はふうとため息を吐いた。

「勝手というのなら先払いなどという変則的な契約の方がよほど勝手だろう。言いがかりもいい加減にしたまえ、それに!」

つ、と人差し指を立てた指を相手に口元に寄せる。何か言いかけたところを制止された大柄な男は困ったように眉を寄せて聞き取れぬ何事かをつぶやいた。

「管轄外を責めるつもりなら……この会話だってそうじゃないかね? 構成員どうしのトラブルは女史の管轄。勝手にいざこざを起こすことはもちろん、当人どうしが接触して解決を図るなど……禁止事項だ」

くっ、と言葉を飲む大柄な男の目の中を覗き見て、会議場にいた男はさらに続けた。

「だいたい君は『報復する』などとずいぶん軽々しく言うが、なぜ確実に実現可能だと言えるのです? ミスをしない? 取り逃さない? それだけじゃありません、相手が我々以外の組織と手を結ばないという確証がどこにあります? 事実、過去にそのような事例はあった。紛れもない現実の話です」
「んなこたぁ滅多にねぇだろうが、この眼鏡野郎が……」

一気にまくしたてられた大柄な男は、やっとのことで苦々しい一言を発した。

「不満があるなら女史に伝えたまえ。彼女はれっきとした我々のリーダーだ……。君が女性の社会進出を快く思っていないことは、知っているつもりですがね」

捨て台詞を残して去る会議場の男。大柄な方の男はその背中に怒鳴りつけるのが精いっぱいだった。

「うるせぇんだよ、この屁理屈野郎!」

男は答えない。そのかわり、男が連れ歩く若者が振り返り、べっと舌を出して中指を立てた。


2.ごくまれな反例を取り上げる


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