■ Sophism

「『野郎』」
「えっ」
「……としか言えないんでしょうかね、彼は」

カツカツと足を進めながら会議場の男と若者が小声で会話する。先程出会ったばかりの営業担当者を指していると気付いたのだろう、男の言葉に対し、若者がああと得心の声を漏らした。ふふ、と愉快げに笑い、男は一歩後ろを歩く若者を振り返る。

「もう少し気の利いた言葉で罵っていただきたいものです」

余裕を見せるように嘯けば若者は楽しげに応じた。

「あいつにそんな頭ありませんよ」

男もまた、含み笑いの混ざる声で返す。

「フフ、声が大きいですよ」

二人、顔を見合わせると今度こそはっきりと笑い合い、そのまま部屋の入り口をくぐった。

室内では昼下がりの生温かい空気が揺れていた。酸化したコーヒーの匂い。飲んでみればきっと酸っぱい、ただの不味い液体と化しているのだろう。

「待ってたわよ。ご苦労様、報告を聞かせて」

デスクで待ち受けていたのは妙齢の女性だった。妙齢とは言っても外見のことで、本当は見た目よりも実年齢は上という噂だ。彼女は手にしていたペンを置いて彼らを出迎えた。

「準備は進んでいます、女史。必要な資料はすでにそろっていますが、まだいくつか必要な仕事が。ディベート自体は大した骨ではありませんが、相手が十分な準備を整えられないような手段が必要です……開催を急がせるか、他の用事で忙殺するか。おそらく後者になるでしょう。特に、事前の計画書と変更した点はありません。ただ、契約は先払いの形にさせていただきました。先ほど別の者をやり、受け渡しが行われたことも確認済み、経過は順調です」

『女史』と呼ばれた女性は会議場の男の説明を黙って聞いた。大きなため息を一つ。彼女が口を開く。

「それは聞いているわ。契約者本人から連絡があったの。一応謝ってはおいたけど……。勝手なことしちゃダメよ?」

色っぽい声音で語られた台詞は、内容のわりにさして深刻そうでもない調子だった。

「申し訳ありません、女史」

軽く頭を下げた男に従って後ろの若者もぴょこんとおじきをする。女史はクスリと笑ってからこう言った。

「最も、後払いなんて変則的な契約自体がルール違反ではあるのよね。上には上手く言っておくわ。ふふ、まるで営業のミスをあなたがフォローした形ね。図らずもってとこでしょうけど」

ほめてるんじゃないのよ、と付けたして女史はコーヒーのカップを手に取った。彼女の背後では残りのコーヒーが温められたガラスポットの中で揺れている。

「図らずも、ね……」

男はやや硬い微笑を口元に貼りつけたまま、言った。その小さな声を聞いてか聞き逃してか、コーヒーをすすり終えた女史が早口に付け加える。

「でもこんなことをしていたら、そのうちに味方が一人も居なくなるわよ? 仲間とはうまくやってちょうだい、商売敵ライバルじゃないの、組織の一員は。皆、仲間なのよ」
「かしこまりました」

本当にかしこまった様子でこうべを垂れ、男は踵を返す。すると、女史が彼を呼び止めて言った。

「あなた、笑うようになったわね」

男は静かに振り返った。女史と目が合う。視線の先、彼女は楽しそうに目を細めていた。

「その方がいいわ。前はいつも無表情で冷たく見えた。今は素敵よ、優しそうで」

無言のまま、ニコ、とより深い笑顔を残して男は部屋を後にする。ついて歩く若者は女史と男を交互に見やりつつ、その後を追った。

廊下に出たところで、若者があわてた様子で男の脇腹をつつく。

「大丈夫なんですか? おばさ…、いや、女史、ああ見えて意外と怒ってましたよ?」

男は、おや、と眉をあげてその言葉を聞いた。女史はいつも快活な人物だ。困った表情や疲れを見せることはあるが、怒りの色をあらわにすることはない。そんな彼女の怒りを見抜ける人間は多くはなかったが、この若者にもそれが見えるらしい。いい傾向だ、と男は静かに喜んだ。

「ただ働きになっては困りますからねぇ。彼自身は間違いなく支払いに応じるでしょう。ですが、後払いを許さなかったという事実は後々……意味を持つはずです」

男の返答に、若者はハァと気のない声を漏らす。男は仕方がなさそうに言葉を続けた。

「もしあそこで後払いを認めたままでいれば、次に後払いを望まれた場合、前例があるためにそれを認めざるを得ない。その結果、我々の成功だけを利用され支払いが滞る。そんなことが起こるかもしれません」
「……なるほど?」

わかったふうな言葉を、全く分かっていない語尾の上がり方で返す若者。男はさらに先を続ける。

「ですから……。もしそうなれば最初にそのような契約を取った者は責められ、その契約を変更しなかった我々も連帯責任を問われるかもしれないでしょう? それを避けたにすぎません。ここで一度叱られておけば、後々大きな『責任を取らされる』可能性をつぶせる、と。もちろん予想です、あくまで、私が勝手に巡らせた都合のいい予想に過ぎませんが」
「はあぁ! さっすが! そういうことかー! そんな先の事まで考えるなんて、やっぱ頭いいんすね」

嬉しげに声を上げた若者には聞こえないように、男はそっと声を潜めてつぶやく。

「簡単に言いくるめられるところが玉にキズですねぇ……」
「え?」

若者が発した疑問形に対し、男はほんの少しだけ肩をすくめて見せた。

「いえ、何でも。……買いかぶり過ぎですよ。女史もあなたのような人物であればよかったのですが」

そう答え、男は上着を羽織った。自由になった手でネクタイを締め直し、エレベーターホールへと向かう。


3.自分に有利な将来像を予想する


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