■ About the way

アパートの入り口は思ったよりも狭かった。窓のない壁の中にぽっかりとドア一枚分ほどの四角い穴が口をあけている。そこが入り口なのだ。

壊れてしまったのだろうか、入り口の右側には蝶番だけが残されていた。おそらく、ここには本来ドアが取り付けられているべきなのだろう。暗くて急な階段を登り、五階へと向かう。待ち合わせのアパートにはエレベータがなかった。

やっとたどり着いた五階の廊下には二人の男がたたずんでいた。真っ黒いサングラスをしたスーツ姿の二人組だ。片側にはドアがずらりと並び、片側にはただ壁だけが続く暗い廊下。薄明るい電灯はついているがとてもサングラスが必要な環境ではない。

二人は熊髭の姿をチラリと見やると、それぞれ別の部屋のドアを開けて中へと消えていった。部屋のドアはどれも同じ色あせた緑のペンキで塗られた金属製だ。一番奥、階段から最も遠いのが目的の部屋。

インターホンもついていない簡素なチャイムを鳴らすとキィと音を立ててドアが開いた。熊髭を出迎えたのは無表情な白い肌の女。落ち着きのいい一人がけのソファに通され、促されるままに座る。

ソファの前に小さなテーブル。そして右側には人の背の高さほどのついたてが置かれていた。ついたての幅は2mほどだろうか。比較的大きな木製のついたてだ。

人の気配。誰かがいると思った途端、衣擦れの音がしてついたての上からわずかに頭が見えた。

「来たな」

聞き覚えがある声だ。おそらく電話をかけてきた男だろう。

「電話で言ったとおり『カンパニー』の重役がここにいる。まずそっちの質問に答えてやるそうだ。質問はついたて越し、いいな」

生身の声。電話では聞き取りにくかった声の質感までもが今ははっきりと聞こえる。40代後半か50代前半程度の男か。熊髭の頭の中で電話の男の姿が描かれていく。肉声を元に相手の特徴を推測するのは得意な方だった。

歯切れのよさから考えて、たぶん、はつらつとした性格の人物。今はトーンを押さえた小声だが普段はもっと大きな声で話す人物だろう。体格もなかなかいいのではないか。これはかなり腹筋の強い人間の発声だ。

「質問できる時間は三十分。では、始め」

きっぱりとした口調で男の声が言い放つ。

「え、では、質問させていただきます」

あわててノートをめくりながら、熊髭はチラリとついたてに目をやった。薄い木製の壁。この向こうに人間がいる。複数だ。電話をかけてきた男と彼が紹介する『カンパニー』の重役、最低でも二人。

いや、『カンパニー』の重役ともあろう人物が護衛をつけていないわけはない。おそらくはもっといる。目には見えない人間がこのついたての向こうに何人も。静謐な空気の中で、熊髭は一人、緊張に鼓動を早めていた。

「この取材を録音することは許可していただけますでしょうか?」

おずおずと小声で問いかける。緊張。一瞬の沈黙ののち、ついたての向こうから先ほどまでとは違う男の声がした。

「どうぞ。ただし、録音したものをそのまま公開することはご遠慮願います。どうしても必要であればボイスチェンジャーの使用をお願いしたい。いいですね?」

柔らかな声だった。想像する。たぶん紳士然とした男。年の頃は初老だろうか。いや、もっと年の行った男かもしれない。

「では、あ、お答えしにくい質問もあるかと思いますが、」

前置きをしておこうと言いかけた熊髭の言葉は途中でさえぎられた。

「ご心配なく。答えたくない質問には答えませんので」

またさっきと同じ柔らかな声。微笑みさえ含むかのような優しい響きだ。

熊髭はふと眉をしかめた。うまく脳裏に相手の姿を描けないのだ。正体がつかめない。霞のように実体がない、そんな印象。穏やかで紳士的な声だが、そこには何の感情も込められていないように思えた。全ては熊髭の想像でしかないのだが。

「……っ、では、え、と、お名前やご職業など、簡単な、プロフィールを……」

わざと音を立ててメモ用紙をめくりながら、しどろもどろな口調で言い出す。するとついたての向こうでまた衣擦れの音がした。

「そういう質問は後で俺がまとめて答えてやる」

電話の男の声がする。

「あ、はい。すみません」

熊髭は恐縮したふうに言ってレコーダーのスイッチを入れた。

「では、お願いします」

挨拶は終わりだ。

「一つ目、なぜ会ってくれる気に?」

熊髭が問う。

「……」

簡潔な質問に答えはなかった。ついたての向こうからは静けさと拒絶の空気だけが漂ってくる。

30秒。

「では、次の質問を」

腕時計の秒針を見つめて、熊髭はこの問いを切り上げた。

「ええ、どうぞ」

またあの柔らかな声が言う。これが巨大な犯罪組織の重鎮の声か。熊髭は拍子抜けしたような気分になった。もっと違う声を予想していたのに。例えば、もっと低いマフィア映画のボスのような重々しい声。もしくはもっともっと冷たい機械か氷のような声。

それなのに今、聞こえてくるのはまるで年老いた優男のように甘く柔らかな声だ。凄みもなければ冷徹さもない。何とも言えない物足りなさすら感じるほどの穏やかな声音だ。

だが、と熊髭は思い直した。この声もまた不気味ではあるのだ。穏やかではあるのに、感情も人物像も読み取れない。何かに似ている。そう思った途端、脳裏に描いた幻の相手がふと自分の目を見た気がした。瞳から脳に達する長い針。……そんな視線に貫かれる錯覚。

ああ、そうか。熊髭は思う。この男の話し方は、精神科医のそれに似ている。穏やかな物腰の奥で対象となる人間を分析している、あの白衣の医者たちに。

「……どうぞ?」

ついたての向こうから穏やかな促しがあった。熊髭はあわてて次の質問を口にする。

「二つ目、何か世間に対して、……何か、……伝えたいことが?」

後半は言葉に迷った。口ごもるように途切れた問いかけに柔らかな声が答える。

「それは最後にお伝えしましょう。まずはあなたからの質問にお答えした上で、自然な会話を進めていきたい。その中で私の考えをいくらか知っていただければと思います」
「……わかりました」

熊髭は素直にうなずいた。相手が声高に主張しようとしないならばそれでもいい。聞きたいことは相手から引き出すだけだ。

「では、お伺いします。【Evolutoin】という運動についてのお考えを聞かせてください」

ついにこの時が来る。【Evolutoin】の核心へと一歩を踏み出すのだ。

問いかけながら、チラリとだけ脳裏を“何か”がよぎった。ためらい、かもしれない。かすかに生じた迷い。踏み込んでもいいのか、本当にこの先へ進むのか。それはちょうど、このアパートの手前で一瞬だけためらったのと同じように。

だが、小さな蝶のようにヒラリとしたその“何か”はすぐに無意識の闇の中へ消えていった。

「【Evolutoin】、ですか……」

柔らかい声が一瞬、重みを増す。

「はい」

返事をする熊髭の脳裏にもう“何か”はよぎらなかった。


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