■ About the way

「おっしゃるとおり、まさにそれが世間的に言う『進化』の定義です。だが『進化』を起こした人々の真意は? これはまだ一般には知られていません」

ついたての向こうから柔らかな声が言った。熊髭は再び息を飲む。これに興奮せずにいられようか。今まさに最も知りたかった事が話されようとしているのだ。熊髭はついに身を乗り出してついたての向こうへと呼びかけた。

「それを、その真意が知りたいんです!」

興奮のあまりだろうか、小さく叫んだ声はひどくかすれていた。愚直なまでに追いかけてきた努力がついに実る。高まる期待。だが、その期待は次の瞬間、失望に変わった。

「私にもそれはわかりません」

柔らかな声がそう告げたのだ。落胆。ここまで期待させておいてそれはない。

「しかし」

柔らかな声が言う。

「未来永劫わからないままではない。私はそう確信しています。いずれ……いえ、近いうちに。必ず彼らの真意をつかみ取り、そして……」

数秒の間があった。

「そして?」

熊髭が問いかけると返事の変わりに衣擦れの音がした。足でも組み替えたのか、短い音。

「…………静観はしない、とだけお伝えしましょう」

その言葉が聞こえるまでにはしばらくの間があった。熊髭はペンを走らせる。手の平にじっとりと汗の感触。静観はしない。それはすなわち戦うという宣言に等しい。【Evolutoin】がまた新たな局面を迎えるということか。

その戦いが激しさを増せば、きっと力を散らす動きをする者たちの存在も明るみに出るだろう。真実を知りうるチャンスか? いやしかし、それは様々な人々の命をも奪うような争いになるに違いない。そう考えれば手放しに歓迎することもできない気分になる。

いったい、【Evolutoin】の裏側ではどんな攻防が繰り広げられるのだろうか。自分にできることは何か? 全てを見届け、世間に真実を伝えること? それとも争いを止めさせることだろうか、まるでハリウッド映画の主人公のように。

「もう一つ、質問させてください」

熊髭の声は自然と密やかなものになっていた。

「どうぞ」

ついたての向こうから許可が下りる。熊髭は息を殺して相手の様子をうかがった。……ついたての向こうからは何も伝わってこない。息遣いも、気配も。

「短期決戦を望みますか? それとも長期戦の構えで?」

戦うことを前提とした質問に相手は答えるのか、固唾を呑んで返答を待つ。

「繰り返しますが、私の答えはあくまでも個人的なものです」

そう前置いて、柔らかな声は語り始めた。

「それは難しい質問です。場合によりけりとお答えするしかないでしょう。どちらがより有利となるか、状況を見定めて決めなければなりません。最初からどちらと決めてかかるのではなく双方の仕事量を見て決める。つまり……」
「あの、」

ここで熊髭は相手の声に割って入った。

「仕事量というと、何か、組織が仕事として、何かをするということでしょうか?」

その問いについたての向こうからは穏やかな笑い声が返ってくる。

「いえ、仕事というのは……失礼、言葉が適切ではありませんでしたね。これは物理などの分野で使われる“エネルギーを用いて物体を動かす”という意味でお考えください。もちろん正確な使用法ではありませんが、ニュアンスとしてお分かりいただければ。つまりどちらがより多くのエネルギーを必要とするか、人手、資金、時間、それら全てを含めた……負担を必要とするかという話です」
「あ、なるほど……」

熊髭は柔らかな声の説明にうなずいた。

「あなたがおっしゃる短期決戦か長期決戦かという問いかけですが」

再び声が言った。

「この選択はある地点にたどり着くためのルートを選ぶのに似ています。そう、同じ目的地に着くためにどんな道を選ぶのか。長くとも平坦な道か、あるいは最短距離を行く道でしょうか」

熊髭は熱心にメモを取りながら耳を澄ます。

「例え話をしましょう。ある山のふもとから山頂に向かいます。ルートは二つ。急な崖をよじ登るコースか、なだらかな遊歩道を行くコースか、その二つです」

メモを取りながら、ごく自然に相槌のうなずきが出た。すると、相手はまるでそれを見ていたかのように続きを話し始める。

「崖登りは大変な道です。装備も必要、己の体を支えるだけでも相当の筋力が必要でしょう。それにひきかえ遊歩道は楽な道のように見えます。傾斜は緩やかで土の表面も滑らか、ピクニック気分で鼻歌を歌いながらでも行ける道のりです。
 ですが。その代わり距離が長い。崖登りは距離にして約200m。ちょっとした短距離走のコースほどしかありません。対して遊歩道は実に5km。個人差はありますがおそらく二時間半は歩き続けなければならない、そんな道のりです」

頭の中に情景を思い描く。短い道。険しい岩壁、楔を打ち込み命綱を張りながら進む。長い道。穏やかな木陰、板目張りの遊歩道には鳥のさえずり。

「距離だけでも、その厳しさだけでもそれぞれの道を評価することはできません。すべての要素を吟味し、計算する。それによってやっと分かるのです。どちらの道がより効率的であるのか、その答えが」

柔らかな声はここでいったん言葉を切った。訪れた静けさの中、熊髭のペンが紙の上を滑る。サラサラと続く小気味の良い筆音。この落ち着いた室内に響く音はそれだけだ。

いや、耳を澄ませばもう一つ。相変わらず規則正しく時を刻み続ける秒針の音が静寂をより深いものにしていた。

「分かりやすくするために、ここでは時間を比較することにしましょう。先に挙げた例では、遊歩道を歩く速度は時速2kmということになります。対する崖登りは時速80m。つまり、同じ距離を移動するためには二十五倍もの時間がかかるわけです。我々は一刻も早く頂上にたどり着きたい。さて、あなたなら、どちらの道を選ばれますか?」

とうとうと流れる言葉に引き込まれていた熊髭は突然のことに目を白黒させた。自分に向けられた問いかけに戸惑う。どちらを、と言われても瞬時には判断できない。はて、いったいどちらがどれだけの時間でたどり着くのか。

「ええと……遊歩道、で」

直感で選んだ答えを何とか口に出した。確か崖登りは遊歩道の二十五倍も時間がかかると言っていた気がする。それだけのイメージで遊歩道の方が早くつくだろうと見当をつけた。

「そうですか。私も、同じ答えです」

ついたての向こうからは楽しげな声音が返ってきた。あの柔らかな声が幾分か弾んでいるように聞こえる。何となく愉快がっているような、そんな響き。

「では、あなたがそちらを選んだ理由は?」

声はこう続けた。熊髭は答える。

「こっちの方が、早く着く!」

つまり、急がば回れ。相手の言いたいことはそれだ。正解を確信した熊髭の言葉。ついたての向こうではあの柔らかな声がくつくつと笑っている。

「残念ながらそれは正解ではありません」

柔らかな声が言う。

「えっ」

その台詞に思わず声を上げた。同じ答えだと言われ、てっきり正解であるものと喜んだのに。

「二つの道が要する時間はまったく同じ、つまり『どちらでもいい』がこの問題の正答です。私は条件として二つの道の距離と進む速さをお教えしましたね? あとは極々簡単な計算式でそれぞれが要する時間を求めることができます。
 所要時間=距離÷時速。どちらも答えは2.5時間、すなわち二時間三十分になるはずです。ということは。どちらの道を選ぶかは単なる好みの問題ということになります。私は額に汗して崖を登るよりも快適な遊歩道でゆっくりと散歩を楽しみたい。だから、遊歩道を選びました。無論、崖登りの道が否定されたわけではありません。あくまでも趣味嗜好の問題です」

柔らかな声は楽しげに種を明かす。何のことはない、簡単な数学の問題だ。紙に書かれて出てきたならば子供でも解けるような数式。声でさらりと言い流されたからピンと来なかった。

つまり、と熊髭は考え込む。つまり相手が言いたいこととは何だ? “急がば回れ”も“兵は神速を尊ぶ”も否定された。どちらも認めた状態でもあるが、どちらも最善の方法であるとは言っていない。

最善などない。そういうことなのだろうか。

「あなたは真実が知りたいとおっしゃる。私の答えはその手助けにはなるでしょう。しかし。繰り返しますが、私の答えはあくまでも個人的なものです」

柔らかな声が言った。いつの間にか時間が経っている。質問時間はそろそろ終わりかもしれない。

「彼らとの戦い方について私の意見を述べることは出来るでしょう。ですが、それは私の趣味嗜好によって選ばれた回答に過ぎません。崖と遊歩道のどちらを選ぶか、それと同じく。
 しかも情報は圧倒的に不足している。先の問題のように必要な情報の全てが単純かつ明快に表されているわけではないのです。すなわち、私はあなたにまったくの正しい“真実”というものを語る力を持ち得ない。あなたは私から“真実”を引き出すことは出来ないのです」

柔らかな声は「真実」という単語に力をこめて語る。熊髭はわずかに口を開いた。声を発したい。だが、舌が動かない。短い静寂が辺りを包んだ。

やがて熊髭が動く。一度結ばれた薄い唇。ごくりとつばを飲む喉。そして。

「……取材は、無駄だと、……誰に聞いても真実など見つかるはずがない、そうおっしゃるんですか?」

熊髭は問うた。それが真意か、と。自分の活動を断念させるべく、己の無力さを味わわせるべくここに呼んだのか。そう問いかけた。


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