■ About the way

「いいえ」

柔らかな声は意外な言葉を返してきた。熊髭の困惑をよそに声はとうとうと続く。

「あなたの真実は、あなた自身が見つける他はない。……そうお伝えしたいのです。他人の目を通した真実をいくら並べてもそれらはしょせん歪なものでしかない。かりそめの真実で満足したいのならばかまいませんが、もし、あなたが真にこの『進化』の真相を知りたいと願うならば。
 その他人の目というレンズを通した世界を捨て、飛び込んでみてはいかがでしょうか。我々と、あるいは彼らと、……共に歩む、この世界の激動の中に」

息を飲む。何ということだろう。【Evolutoin】の中枢にいる人間からその激動の只中へと誘われるとは。

それはどういう意味だろう。伝聞主体の取材ではなく、実際に……何をしろというのか? まさか【Evolutoin】運動に参加せよということなのだろうか。進化を阻む、あるいは進める、裏社会の人々の一員として。

「あの、それ、は、どういう飛び込み方で?」

舌をもつれさせながら問いかければついたての向こうで柔らかな声が笑う。

「ご心配なく。我々特殊な生業を持つ人間と同等の働きを求めているわけではありません」

熊髭はほっと息をつく。ばくばくと心臓が鳴り止まない。それほど動揺したつもりではなかったのに、どうやらずいぶんと緊張を強いられていたようだ。

柔らかな声はさらに先を続ける。

「ただ、今よりもっと現場に近い位置に身を置く方法がある。実際の出来事を目にし、感じ、何が起きたのかを克明に記録しうる場所に、です。そして、我々にはそれを支援をする力がある。……そのことをお伝えしたくて、このようにお呼び立ていたしました」

その言葉が終わるのとほぼ同時だった。すっ、と。はっきりと衣擦れの音がした。今までのようなかすかなものではない。明らかに衣服を着た人間が大きく体を動かした音だ。思わずついたてに目をやる。衣擦れの音を立てた主はついたての向こうだ。いったい何が起きている?

手。ついたての端をつかむ誰かの指。それが視界に入った次の瞬間、ぐいと力強くついたてが引かれる。息をすることも忘れ、熊髭は目を見開いた。取り払われた木製の壁の向こうには……一人の老紳士が腰掛けていた。アンティーク調の一人がけのソファに、ゆったりと。

老紳士は両手をひざの上で組んで穏やかな笑みを浮かべていた。真っ白な髪の毛をオールバックに撫で付け、細い銀縁の眼鏡をかけて。

「これは戦略上の提案です」

老紳士は言う、あの柔らかな声で。

「プロパガンダを書けとは言いません。ただ、あなたが見たものを見たままに書きとめ、しかるべき形で発表していただきたい。誰が勝ち、どのような利権を得たか。どのような主張が繰り広げられ、どのような人々が消えて行ったか。おのずから見えてくるでしょう。この『進化』という動きの真の意味合いが」

にっこりと微笑んだ老紳士の後ろにワイルドなジャケット姿の男が立つ。苦みばしった顔をした50代ほど齢に見える男だ。ジャケットの片腕は根元で結ばれている。どうやら片腕がないようだ。

熊髭は立ち上がり、二人に向かって叫んだ。

「それが何の役に立つんだ! 戦略上の提案? いったいどういうことなんですか!」

白髪の老紳士は答えない。ただ黙って穏やかな笑みをたたえるだけだ。その代わり、ジャケット姿の男が口を開いた。

「アンタが記事を書けば自然と俺たちが有利になる。そう踏んでるんだ」

電話の声だった。この男が面会のきっかけとなったあの一本の電話の主なのだ。背後の男に視線を移した熊髭の耳に柔らかな声が届く。

「あなたの経歴は調べさせていただきました。今までにどんな記事を書いてきたか、その思想、果ては宗教的な背景に至るまで。その結果、我々は確信しています。あなたが我々にとって不利な記事を書く公算は低い、と。つまり……」
「結果的に、『カンパニー』が有利になる。そう考えているんですね」

白髪の老紳士に目を戻しながら、熊髭は相手の言葉を奪うように声を上げた。視線の先では白髪の男が静かに微笑む。

「そのとおり」

白髪は言葉を続けた。

「『進化』の核心が見える場所は命の危険が伴うような激しい現場です。身辺の警護、脱出の手助け、その他さまざまな援助が必要でしょう。我々にはその全てを保障する準備があります」

熊髭は言葉を返せない。どうすればいいのだろう。申し出を受けるのか、否か。その選択が何を意味するのか、熊髭はまだ見通すことができずにいた。

「……」

誰が放つでもない沈黙が辺りに漂う。やがて、白髪の男がゆっくりと口を開いた。

「あなたがその申し出を受け入れるのであれば、もう一度この部屋を訪れることです。我々があなたの書く記事を検閲することはありません。無論、不利となる情報は削除すべく動かせていただきますが……、あなた自身には決して危害を加えないことを私の名をもってお約束いたしましょう」

熊髭は黙ったまま下を向く。濃い色の絨毯。毛足の長い地面が光を吸い込み、仄かな闇を生んでいるようにも見えた。

「先ほどの例え話についてですが」

突然、白髪の男が言った。

「は?」
「山登りのルートに例えた、いかなる戦略を取るかという話です」

思わず疑問系の声を上げた熊髭。白髪の男は何でもないことだと言わんばかりにさらりとした口調で言う。

「彼らはどの道をたどるのでしょう」

遠い目。熊髭は白髪の男の視線の先を追う。それは自分の体ではなく、ややそれた壁の辺りを見つめていた。

いや、壁ではないのかもしれない。もっと遠くを、あるいは壁にいたるまでの何もない空間を。そんなどこでもないどこかを彼は見ているのかもしれない。

「彼ら、とは……?」

問いかけた言葉は小さく、ややかすれた。喉が渇く。無理やり唾液をしぼり出し、飲み下した。

「『進化』を引き起こす者、そして『進化』のキーパーソンとなる人々のことです」

白髪は淡々と返してくる。

「もし彼らにこの質問を投げかけたとしたら、果たして彼らが選ぶのはどのルートでしょう。崖の道でしょうか、遊歩道でしょうか。それともまったく別の場所を通る藪の中でしょうか? ……それはまだ誰にもわかりません。神のみぞ知る。そう申し上げておきましょう」

そう言うと、白髪はわざとらしく肩をすくめて見せた。まるでコメディアンのような仕草。だが、その所作にも表情にも一部の隙も感じられない。

気配。かすかな物音に視線を移すと、部屋の入り口の扉が開いていた。外への出口。

「あの、」

熊髭はすがるかのように最後の質問を口にした。

「【Evolutoin】を起こした側の意図は本当に、本当に全く分からないんでしょうか?」

一瞬の静寂。

「え? あぁ、あいつらか」

声を上げたのはジャケット姿の隻腕の男だった。隻腕の男は小指を耳の穴に突っ込んで、ほじくりながら言葉を吐く。

「さあねぇ。案外、ただケンカしたいだけ、とかじゃねえかな。ケンカ好きなんだよ、本っ当に。どぉーせろくな考えもなしに、バチバチやりたいだけなんだろ」

引き抜いた指にフッ、と息を吹きかけ、隻腕の男はにやりと笑った。



「今日は、ありがとうございました」

礼を言って深々と頭を下げる。悶々としたものが胸に重く残るような会談だった。熊髭は顔を上げる。最後にもう一度、白髪の男の目をのぞきこんだ。

微笑みに似た形に細められた目の置くには何の感情も読み取れない。得体が知れない。それは彼の声を聞き始めたときに得たのと同じ感覚だった。

『最後まで対等なやりとりができなかった』

そんな印象だけが心に残った。この場は白髪の男に支配されている。やんわりと、だが確実にだ。相手のテリトリーの中を十分に動ききれなかった己の無力さを思う。熊髭は無意識に唇を噛んでいた。悔いが残る。だが、今後に向けてあまりにも収穫の多い会談だった。

「……ありがとう、ございました」

もう一度礼を述べ、熊髭は白髪たちに背を向けた。一歩、二歩。まさに出口をくぐりかけたときだ。背後から声がかかった。

「待てよ」

振り返る。

「あいつらのことが知りたいなら、ここに行ってみるといい」

隻腕の男だ。隻腕は懐からピッと名刺のような物を取り出した。こちらへと差し出す。熊髭は急いで駆け戻り、そのカードを受け取った。バーのカウンターなどに置いてある店名と住所が書かれた宣伝用のカードだ。

どうやらスポーツバーらしい。観戦用にさまざまなスポーツの中継を流すテレビが置かれた酒場のことだ。部屋を出る。当然のごとく、熊髭はカードの住所を目指して歩き始めた。


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