一呼吸置いて、黒服の男は話を続け始めた。帽子の男はポケットからチーフを取り出し、汚れたスーツとびしょぬれの顔をぬぐう。そして黒服はこう宣言した。
『誰かがやったことじゃなく、誰もやったことのない方法を見つけて行きます!』まぁ、とばかりに両手を組む司会進行役の女性。黒服の傍らでは帽子の男がやや驚いた表情で相棒の顔を見る。
『え、行きます? 確定?』帽子の男の問いに黒服は力強く答える。
『何、ハードルあげちゃってんの』帽子の男は笑いながら言った。黒服の男は知らぬ顔だ。言いたいことは言い終えたとでも言いたげに、穏やかな笑みを浮かべている。
『力強いご意見ですね』司会進行役がうっとりとした口調で感想を述べた。ここでまとめに入るかと思いきや、帽子の男が再び口を開く。
『あの、こう、』ん、と軽く声を漏らして、黒服が顔を上げた。
『思いついたーってやっちゃった後に誰かとかぶってたのがわかったら、どうすんの?』帽子の男が言うと、一瞬、画面の中は静まり返った。その指摘は至極もっともだ。
『……』黒服は少し黙ってから、非常に元気な声でこう答えた。
『なかったことに!』帽子の男と司会進行役が同時に吹き出す。
『『なかったことに!?』』繰り返した言葉も二人分、きれいに重なった。帽子の男と司会進行役は同じ言葉を発してしまった偶然にますます笑いが止まらない様子だ。笑い転げる二人を何度か見くらべてから、黒服の男は再び口を開いた。
『とにかく、新たな方向性を見出す! それが我々の方針なんです!』やっと笑い終えた帽子の男も穏やかにうなずく。黒服はニッと唇を吊り上げ、語気を強めた。
『そう! たとえ楽に進める舗装された道があったとしても!』やり取りの中で、盛んに身振りを入れてこんがらがった様子を伝える黒服。帽子の男は背もたれに腕を回し、満足げな表情でその続きを言う。
『切り拓いていきます』黒服と帽子、二人の男は一瞬、互いの顔をチラリと見やった。
『それが俺らの?』口を開いたのは黒服の方。
『『最後は二人の声がそろう。
そのときだ。
フッ、と。
蘇った。熊髭の脳裏に、あの精神科医のような穏やかで無機質な声が。
番組を進める司会進行役の声が遠く聞こえる。熊髭はもうテレビを見てはいなかった。視線は画面の上を漂っていたが、意識は目の前の現実から記憶の中へと飛び移る。
それはまだ誰にもわからない、神のみぞ知ることだとあの男は言っていたが。
藪の中を。
脳裏に響くキーワード。重なる残影。それが彼らの革命だというならば。ああ、と思った。今、画面の中にいる二人。彼らは表社会の人間を装った裏社会の人間、【Evolutoin】の中で力を集める者たちだ。
進化推進派のリーダー格。そうか、この二人がそうだったのか。……いや、確信はない。何の証拠が示されたわけでもない。だが。
切り替わった画面の中ではフットボールの試合が中継されている。緑色のフィールドを駆け回る小さな人間たち。このユニフォームはこの都会をホームグラウンドとするチームだ。スポンサーはまだ少ないながらも最近めきめきと実力をつけてきた新進気鋭の若いチーム。確か今は試合のために海外遠征をしていると聞いた覚えがある。
フィールドをぼんやりと眺めながら、熊髭は思った。もしかしたら自分は思い違いをしていたのかもしれない。知りたいのは【Evolutoin】の中で力を散らす行動を取る者たちの真意、そして黒幕。しかし、それは果たして【Evolutoin】を生み出した者と同じ人物なのだろうか。
力を散らす者たちこそ【Evolutoin】独特の存在、いわば彼らこそが進化した人々。だが、【Evolutoin】もまた、元々は力を集めようとする動きから生まれたのかもしれない。
どうしてそんな簡単なことに思い至らなかったのだろう。もしそうだとすれば大変な見当違いだ。なにせ熊髭は【Evolutoin】の生みの親=目標と思い込み、喜び勇んでここへやって来たのだから。
無駄足。そんな言葉がよぎる。暗闇の中で掴み取ったはずの糸がプツリと切れた、そんな感覚。熊髭はただ呆然とするしかなかった。幻だったのだろうか? 【Evolutoin】の黒幕など、最初からどこにもいなかったのだろうか。いや、しかし。
黒髭は思い直した。やはり黒幕はいる。それが【Evolutoin】を起こした人物と同一ではなかったとしても、きっといるに違いない。この都会のどこかに、力を散らす者たちを裏で束ねている人物がいるはずなのだ。
自分が追いかけるべき真実はやはりこの都会にある。あるはずだ。それにたどり着くために、今、何が出来るのだろう。熊髭の目がぎらりと光る。熱を帯び、まるで酒に酔ったように赤く充血した目が。
今までは力を散らす動きをしている人間ばかりに気をとられ、力を集める者たちを無視していた。だが、考え方を変えるときではないだろうか。どうアプローチしても力を散らす者たちはつかまらない。その代わり、力を集めるものたちの親玉があいついで目の前に現れた。
“流れ”のようなものを感じる。今はこの方向に流れが来ているのだ。ならば、乗ろう。この流れに乗りながら、また力を散らす者たちへの取材を続けよう。もしかしたら意外なところから真実が見えてくるかもしれない。
最も激しい【Evolutoin】の渦中へ。今、自分にできる最善の策はそこに身を投じることではないだろうか。熊髭は硬く目をつぶった。まぶたの裏にチカチカと白い光がちらついている。
思い起こすのはさっき見たばかりの二人組。おそらくは彼らこそが「今こそ進化せよ」と声をあげた最初の人物なのだ。『カンパニー』の一員がこの店を教えたこと、そして今のやり取り。偶然とは思えない。
そもそもタイミングが良すぎるではないか。座ったとたんに試合が途切れ、あの会話が流れた。偶然だとしたらあまりにも奇遇が過ぎる話だ。
店内で流れている番組は一般にも放送されているごく普通のスポーツチャンネルだった。試合は生放送。だが、合間のインタビューは録画されたものである。当然、先ほどの会話も前もって録画されたものだろう。
インタビューだけを入れ替えて流すことくらいはたやすく出来るはずだ。……もし、この店が『カンパニー』の影響下にあるものだとしたならば。
思い出してみればいい。先の『カンパニー』の重鎮との会話の中で最初に道のたとえ話を持ち出したのは誰だったのかを。
最初に話題を振ったのは熊髭だが、短期決戦と長期決戦を道のりに例えたのは白髪の男の方だ。それまでの会話に道などという単語は出てきていなかったはず。あまりに自然な流れだったので気にも留めなかったが。
『カンパニー』という組織は情報収集にも抜け目がないと聞く。その重鎮が敵対組織のトップが出たインタビューを放送前に入手し、チェックすることなど十分にありえる話。熊髭が【Evolutoin】を推進する人々に興味を持つことくらいは予想の範囲内だ。そこで彼らについての情報をほんの少しだけ与えるためにキーワードを会話の中に仕込む。
全ては白髪の掌の上で仕組まれたこと。
被害妄想、飛躍しすぎた世迷言。そう言われても反論は出来ない。だが、ありうることではないだろうか? 少なくとも想像をすることくらいは許されるシナリオだろう。
そういえば『カンパニー』はもともと違法な賭博場の運営を主な商売とする組織だったという。今はもう全ての業種において並ぶものなき大組織ではあるが、昔ながらの商売も続けているだろう。やはり、ここはまだあの白髪の男の掌の中……、本当にそういうことなのかもしれない。
熊髭は細く息を吐いた。ゆっくりと、長く、細く。進化反対派の重鎮は言った。きっと熊髭は反対派に益することになるだろう、と。
そんな予言とは裏腹に熊髭をひきつけたのはむしろあの二人の方だ。どこまでも強い印象を与え、力を感じさせる黒服の男。そして、一歩引いて構え、一見は穏やかに見えた帽子をかぶったあの男。
そしてそれ以上に心を占めるのはやはり……【Evolutoin】の真実と黒幕の存在。
目を開く。うつむいていた顔を上げ、天井からぶら下がる黄白色のライトを見上げた。全てを知ろう。力を集める者たちのことも、散らす者たちのことも。そう決意したのは備え付けのテレビがフットボールの中継を終えた頃。
熊髭は静かに席を立った。まずは仮眠を取るために安宿へと戻るつもりだ。たっぷり眠って英気を養ったら、再びあのアパートの一室を目指す。ただ一人、【Evolutoin】の証人となるために。
外は白々と明け始めていた。冷たい朝の霧が火照った頬に心地よい。
熊髭は思う。全てを保証してもらおうとは思わない。相手の出すあらゆる条件を飲むつもりもさらさらない。それでも、やはり『カンパニー』の支援を受けるべきだろう。少なくとも今のまま草の根の取材を続けるよりはずっと手っ取り早くことが進むはずだ。
どちらかに偏った報道は決してしないつもりだった。出来ることなら水鏡のようにただそこにあるものだけをそのままに映し出す存在となりたい。
真実。その言葉の意味をこれほどまでに深くかみ締めたことはない。自分が知りたいこともそうではないことも、全てを含めて、そこにあるものの全てが真実なのだ。【Evolutoin】の真実が知りたいと思うのならば、本当に全てを見なくてはならない。本当に、全てを。
車の通りも少ない早朝。熊髭は横断歩道の線を踏みながら考えていた。どうやって真実に近づくのか? その方法は誰かの掌の上で論じられるものではないはずだ。
自分なりの方法論を築こう。きっとできるはずだ。今はまだ手探りだが、やっと、やっとスタートラインに立てたのだから。もちろん今までやってきたことも無駄ではない。このスタートラインに立てたのは、今までの取材が実を結んだからなのだ。
都会は薄もやに白く包まれていた。今はまだ朝焼けを宿した空はやがて薄白い青へと複雑な変化を遂げていくのだろう。
ふと、熊髭は立ち寄るべき場所を思い出した。あの情報屋。トランクルームの一室に店舗を構えた風変わりな男に会いに行こう。前回対面してから一週間が経つ。そろそろ何か新しい情報が入っているかもしれない。
あそこへ行くには店主の気に入りのウイスキーを買っていかなければならない。ああ、でも酒屋が開く時刻にはまだまだ早いのだから、やはりまずは安宿が先だ。一眠りの後に向かう先はアパートの一室だけではなくなった。
真実に近づくための道筋はもう彼の中にある。都会を縦横に走る網目のような道を行く途中、ためらいはチラリともよぎらなかった。