「天然記念物並みの天然ボケ」
仲のいい、赤毛の青年から送られた言葉だ。
もう一人の仲良しである金髪の青年が言うには、めちゃくちゃぴったり、らしい。
どうも自分はテンポというか…考えるタイミングがおかしいようだ、と彼は思う。
ずれを実感することなどなさそうに見えて、実は、意外と気づいているわけだ。
彼はときどき思うのだった。
自分の考えは遅すぎることが多いし、ときには遥か先に飛びすぎるなぁ、と。
確かに天然ボケかもしれないなぁと納得している。別に、不自由はない。
しかし、彼自身、よそ者めいた気持ちになることもあった。
表通り生まれだが、少しもそう見えないのは裏通りに馴染んだからだろう。
だが彼の眼は、裏通りの住民たちとはどこか異なる。
裏通りに住んで長い。なのに、なぜ裏通りの住民と同じ眼にならないのか?
それだけではない。
彼にからは、今や誰の身体にも染み付いているはずの臭いが少しもしない。
裏通りだろうと表通りだろうと、この街の者なら誰もが持つ都市の臭い。
生粋の都会っ子。なのに、なぜ都市の臭いが染みつかないのか?
ぽわぽわ、と。
彼はいつもぼんやりして見える。
だけれど、実は誰よりもクールに現実を見ているところがある。
根拠のない予感のようなものを敏感に感じることもある。
不思議な、不思議な動物。
この都会という動物園のどこを探しても、彼に当てはまる名前の札は立っていない。
今日も朝からいい天気だった。
裏通りの薄汚れた道を気持ちのよい風が通っていく。
砂埃っぽい地面の臭いと、どこかでじめじめ腐っていくゴミの臭い。
そして、たくさんの人間の臭いが混ざり合って、風と一緒に抜けていく。
不思議な動物は、今日もふわふわと歩いていた。
特に、当てもなく。
まぶしいなあ。
太陽だなあ。
空を見上げれば、ひび割れて黒ずんだ壁の向こうに青空がある。
突き抜けるように高い空が。
あ、変な人がいるなあ。
ふと目を止めたのは、ごく当たり前の人間だった。
裏通りにはいくらでもいそうなタイプの、年取った浮浪者だ。
汚いぼろきれを体中に巻きつけていて、道端で小さく座っている。
しわくちゃの顔の中で、唯一、瞳だけがキラキラと光を保っていた。
しょぼしょぼのまぶたの奥から、道行く人を眺める老人。
もう爺さんか婆さんかすらもわからない。
若者は足を止めて、その老人をじっと見た。
「こら。」
突然、老人がしわがれた声を出した。
「あっち行け!」
あれぇ、と思った。
この辺りのおじいちゃんおばあちゃんは、こんなことは言わない。
彼らが口にするのは、何か恵んでくれ、いい天気だなどの言葉くらいだ。
でなければ、無言でいる。ただそれだけ。
やっぱり変な人だなぁ。
ますます妙な気持ちになったから、若者はその場を動かなかった。
やっぱり変な人だぞと思いながら老人を見つめる。
数分も経っただろうか。
老人の目つきがいよいよとげとげしくなった頃だった。
うん?
なんとなく後ろが気になって振り向いてみる。
すると、見覚えのある男がてくてく歩いているところだった。
「こーんにーちわぁー!!」
少し離れたところにいる男に、大きな声をあげて挨拶をする。
男も気がついて、にこにこと若者の方にやってきた。
若者の背後では、老人が近づく男の顔に疑わしそうな視線を投げる。
「こんにちは。よく俺の顔を覚えててくれたね。」
どこかうれしそうに、眼鏡をかけた男が話しかけてきた。
若者もにこやかにおじぎを返す。
この前、仲間と三人でいるときに襲ってきた男だった。
赤毛の兄や金髪の青年の話では、この男は表通りの住民らしい。
買い物でもしていたのか、腕に紙袋を抱えている。
表通りの人間がこんな所に来てまで、買うものなどあるのだろうか。
若者は、ちょいと首をかしげて言った。
「武っ、じゃなくて、道具の仕入れスか?」
眼鏡の男は細い目をさらに細くして微笑んだ。
顔はにこにこしたまま、ちらりと紙袋の中を見せてよこす。
これは穏やかではない。
バラしてあるが銃らしいパーツ、弾薬、何かわからないが嫌な感じがする箱…。
「鋭いね、当たり。」
どうやら、裏のお仕事に使う物の仕入れだったようだ。
「よく声かける気になったなあ。警戒しないの?」
眼鏡の男は感心した様子だ。
今日は前に会ったときと違って、こちらを傷つける意志は感じられなかった。
うん、大丈夫。この人は平気。
根拠のない直感で自分の敵ではないと決めつける。
眼鏡の男は、ふにゃんと笑う若者の様子を面白そうに眺めていた。
ふと、男の視線が若者の後ろに流れる。
人畜無害なふりをして実は鋭い牙を隠し持つ、この男は犬に化けた狼。
容赦のない殺し屋の眼が浮浪者風の老人に突き刺さる。
老人は落ち着かない様子で立ち上がり、どこかへ消えて行った。
男の視線が若者に戻る。
若者はその間ずっと、男の眼鏡の奥をなんとなーく眺めていた。
そして突然、きゅっと男の袖口をつかむ。
つかまれた方にしてみれば、まったく予想外の出来事だ。
当然、眼鏡の男は思いっきり驚いて飛び上がった。
「ど、どうした?」
あわてて問う眼鏡の男に、何かを伝えなければと思う。
でも、何を言えばいいんだっけ?
自分自身の行動に少しだけとまどいながら、若者はモゴモゴと口を開いた。
「今そこに、」
変な人が、と後ろを向いて、ようやくさっきの老人がいないことに気づいた。
あれぇと頭をかく若者の肩を叩いて、眼鏡の男はくすくす笑っている。
「そこに座ってた人なら、たった今どっか行ったよ。」
まだ納得できずにいる若者に、眼鏡の男は優しい声で告げた。