不思議の国のカクテルバー

寒い冬の始まり。
朝晩に霧の流れ冷たく、ことに夜は冷え込む。
寂しげな色のピエロ。
頬のメイクが涙の形、透明感のある水色に光る不思議な化粧だ。
廃墟となった立体駐車場。
つぶれてしまったが、過去はにぎやかだった。今はもう、立ち寄る人もない。
屋上の柵に、ピエロが腰掛けている。
シルクハットの手品師が近づいて、出番ですよ、声をかけて行った。
小さく、か細い歌。
口ずさみながらピエロは天幕の中に消えていく。
立ち寄る人もないはずの廃墟の屋上に、サーカス小屋。
ざわめき、拍手、歌、かけ声。
オレンジ色のテントは、静かなる客たちで立ち見の賑わい。


地下のバー。
数え切れぬ酒のビンが並ぶ棚はとりどりの暗い宝石箱。
濃い緑のビン、暗い赤色は何かのリキュールか?
ジン、ウォッカ。ベースも色々。
闇の薄布をかぶったようにビンたちは暗い色を美しく並べる。
カウンターだけ。
出迎えは無人のカウンター。天井からのピンライトを浴びて、そこだけが明るい。
店内には誰もいない。
片隅のテーブルに腰掛けた、ただ一人の客を除いては。
傾けるグラスから甘苦い香。
褐色というより、赤い、さび色に近い。
カクテルの名は『ラスティ・ネイル』。その意味は『錆びた釘』だ。
甘くて、苦くて、濃く深く酔う酒。
ひとたび味わえば、身体の芯まで錆びつく心地。
男は、苦いような眠いような酩酊の表情。
暗い店内、かすかな灯りはオレンジ色の電灯だけだ。


ころん、古いベルの音。
ドアにつけられたベルが鳴る。
前触れも無くドアが開き、新たな客がするりと店内に滑り込んだ。
コツ、コツ。
響く足音。光を弾く黒い靴は、若い娘の黒目のような光沢を持つ。
真っ直ぐなステッキと大仰なマント。手品師の証のようなシルクハットを脱ぐ。
無人のはずの、カウンターの上。
いつの間にか、美しいきらめきのウィスキーグラスが人待ち顔で客を迎える。
からん、氷の音。
グラスの中、透明な上質の氷が透明感のある音を立てる。
一歩、一歩。
影のように革靴の足音が行く。向かうのはカウンター。
立ち止まった。
手品師の長い影。
当然のように待ち構える、カウンターの中央には薄い水割り。


ふと気がつくと、彼は目の前に座っていた。

「こんばんは」

夜のような色の声で、優しい挨拶。
灰白色の髪の毛に暗い橙色。
電灯の色を吸い込み、彼の髪が暗すぎるオレンジに光る。
白蝋の指が持つ水割りも、似たような暗いオレンジ色。
天井から、涼やかな気配。
遥か高みの屋上に流れる鈴のような音色が、なぜか地下に届いた。

「今ごろは、道化師の曲芸でしょう」

ささやいたグラスはすでに乾き、新たな飲み物を求めて彼は席を立つ。
リンリンしゃらしゃら、愛らしい鈴。
気配だけの曲芸が鈴の音となって耳に響く。
しかめ面で飲んでも、美味い一口。
『ラスティ・ネイル』は甘く苦く、鈴の音には無縁の酒。


ふと気がつくと、彼は再び目の前にいた。

「今宵はどうか、このまま。
 共に飲みましょう。今夜、私の手品は用無しなのです」

甘く苦く、心地よい声。
夢見心地うつろなまま見上げれば、手品師の頭には兎の耳が生えていた。
はて?
手品に使われる兎が人に化けてきたのか。
何かのミスで手品師が兎と混ざってしまったのか。
それとも耳は偽物で、衣装のひとつに過ぎないのだろうか。
ぴくんっ。
耳が動いた。地下への階段、細い穴倉に吹き込む風音に、少しだけ驚き。
どうやら耳は本物だ。
では兎自身が手品師なのか。
兎に手品ができるのか?
種明かしを求めて視線を這わせても、兎の耳は恥らうように黙ったまま。


紅い目がまばたく。
ゆっくりとまどろむような、瞳のきらめき。
目の前のカクテル、紅玉のチェリー。
ピンに貫かれてグラスの上に乗ったチェリーに、酷似した紅。

「そろそろ、歌姫の出番でしょう」

ささやいたグラスは先程と違い、背の高いカクテルグラス。
満たされた飲物は、黒い層にクリームの層が乗り、紅いチェリーの飾り付け。
カクテルの名は『エンジェル・チップ』。その意味は『天使の心づけ』だ。
甘くとろけて、クリーミーな味わい。
兎の口に合うのかと、ふとおかしくなる。
乾杯。
二人だけの静かなパーティーに、チェシャ猫はいらない。
帽子屋、眠りねずみ、三月兎は気ちがいのお茶会。
金髪の少女さえも、この場にはいらない。
錆びついた釘のような男は、天使の心づけが似合う兎と二人きりで飲む。


今宵、久しぶりに語りながら善い酒を飲む。
思い出し、問う。兎は知るか? なぜか今、浮かんで消えないあの物語。

「アリス、でしょう?」

手品師の微笑み。そう、確かそんな名の少女が主役。
酔いが回ったのか白い耳はぺたりと寝て、心地よさげ。
兎の、手。
手をのばし触れてみれば、滑らかな肌。
これは人であったかと驚いてから、なぜ兎と思ったのか、いぶかしく思う。
姿かたち、耳以外は人であること。今更ながらはっと気づきひどく気まずい。

「耳にも、触れますか?」

人懐こい性質らしく、頭を差し出す。
そろりそろり、撫でてみれば暖かい血の通う本物の耳。
髪の毛も柔らかく、兎の毛そのまま。感触を楽しみながら、やはり兎かと迷う。


ふと気がつくと、彼はいつの間にか杯を干していた。

「とてもいい気分ですから、もう一杯」

立ち上がるまでもなく、薄いハンカチを取り出す。
さぁさ、どうぞご覧を。どうぞ。種も仕掛けもございません。
甘く苦く、とろりとした声がまろやかに届く。
迷い込んで錆びた釘は、不思議な心持ち。眠いような甘いような酩酊の微笑。
1・2・3! 小声でかけたおまじないは、どこか遠い響き。
手品師がハンカチを取れば、グラスには真新しい『エンジェル・チップ』。
ふわり、ハンカチは舞って空中に消えた。

「あなたも、おかわりはいかがですか?」

物静かにも楽しげに兎が誘う。
ぜひもなくうなずいてグラスを見れば、そこにはいつもと変わらぬ適量の酒。


思い出す。
ここは思い出の酒場、幻のカクテルバー。
ただ一人、己自身。我が記憶の中にしかない、幻想の場所。
だからいつも一人きり。いくら飲めども酒は減らない。
決して減らぬグラスの中身は時がすでに止まったのだと知らせて嘆く。
だが。兎はどこからか、またハンカチを取り出す。

「ほら、飲み干してください」

訪問者のささやき。
時止まる空間に、時の動く世界からやって来た者。
うながされるまま、グラスを仰ぐ。
喉を流れる甘く苦く強い酒。兎が笑う。いとも簡単に空になるグラス。
さぁさ、どうぞご覧を。どうぞ。種も仕掛けもございません。
甘く澄んだ、軽やかな声が店内に満ちる。
迷い込んで錆びた釘は、不安な心持ち。酩酊の眠りから、醒めてしまうのか。
1・2・3! 声高らかに掛けられた呪文は、どこか懐かしい響き。


手品師がハンカチを取れば、グラスにはなみなみと見慣れない酒。
味わえば、『ラスティ・ネイル』と少し似た、初めて飲むカクテル。

「『エヴァー・タイム』、『永遠の時』とでも名づけましょうか」

パッチリと赤い瞳、ふるふるっと耳が動く。やはり兎か?
手をのばし頬に触れて指で伝い、唇は人の感触。やはり人か?

「私ならば兎ですよ。無論、人ですとも。」

謎々めいた言葉、矛盾のような真実。
兎であり人であり、手品師なのだ。
混合(カクテル)。妙に納得をして新しい酒を楽しむ。

「いかかです?」
「ああ、美味い」

はっきりと言葉を交わし、二人、目が合う。
『永遠の時』は甘く苦く、飲む毎に魂まで軽くなる酔い心地。


チッ、チッ、チッ、チッ、チッ
兎の懐から、時計の音。凍りついた時間が動き出した証。
二人だけのパーティーは終演の予感。寂しそうに顔を伏せて兎は別れを憂う。

「また来年、お会いしましょう、氷の月が昇る夜に」

寂しさに耳を垂れて兎は行った。
手の中には新しく創られたカクテル。『永遠の時』は減ることもない。
名付け親は、兎で人で手品師の友。甘く苦く、濃い酒なのに軽い口当たり。
飲む毎に思い出す。兎で人で手品師の新しい友を。
外の時の流れなどは知る術もない。バーの時の流れならば、気分しだい。
長いはずの一年など、ここでは数分。心の赴くままに時は留まり、また流れる。

「ああ、おひさしぶり。やっと一年が経ちました」

嬉しそうに耳を立てて兎の言葉。されど、ほんの少し前に出て行ったばかりと思う。
おかえり。自然と出た言葉。紅い目が丸くなって兎が笑う。


ころん、古いベルの音。
寒い冬の始まり。

立ち寄る人もないはずの廃墟の屋上に、サーカス小屋。
満員の客は皆、時を知らない。生前はそれぞれに時の流れを感じていた人々。
オレンジのテントにファンファーレ。
さあ、サーカスが始まる。
獣使いの迫力が人々の魂を揺すぶる。それだけでやや客が減る。
ぶらんこ乗りが上への昇り方を思い出させる。これで客は大幅に減る。
道化師の曲芸に満たされた客が天に召され、客は半分以下になる。
歌姫のレクイエム。鎮魂の歌で客たちは一人残らずいなくなる。
普段は花形の手品師も、ここでは役に立たないわけだ。
兎は逃げる。お客が消えていくショーなんて、まっぴらごめん。

そして、地下のバーには変わらぬ顔ぶれ。
寂しがり屋の手品師と酒好きな記憶のパーティーが今年も始まる。

Fin.


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