トビラ


あの日、私は静かにドアを閉じた。
私を驚かせたもの。それは、我が家の正面にあった――。


今、一冊の本を前に、私は回想にふけっている。
その日の正午過ぎ、アイディアに詰まった私は、いつものように書斎を抜け出した。
作家という職を生業として早三十年。
締め切り前の散歩 ― という名の逃避 ― は、すっかり習い性となっている。
隣室に控える担当の女性編集者に気づかれぬようにそっと玄関へ向かうと、いつものように靴べらを使い、いつものようにドアを開けた。
我が家の正面は、昨今では珍しい広い空き地である。
否、空き地である はず だった。
私は目を疑った。
空き地だった場所に、立派な屋敷が建っていたのだ。
一夜にして。
前日の夕方までは確かに何もない草はらであった。
それなのに、目の前には完璧に出来上がった建物が建っていた。
建物の周囲は高い塀で囲まれいて、塀の上から建物の2階が見える。
とても立派な屋根だった。
我が家の玄関のちょうど正面には門があった。
門柱も、柵も、高い塀も、全てが深みのある臙脂色のペンキで塗られていた。
門は鉄の柵で硬く閉ざされ、柵の奥に白い扉があることがうかがえた。
門に近づいて屋敷に見入っているうちに、私は妙な気分に襲われ始めた。
呼んでいる……。
門の奥から何者かが私を呼んでいる気がする。
中に入って来いと促されている気がする。
その気分はだんだん強くなっていった。
そして……気がつけば、私は呼び鈴を押していた。
澄んだベルの音が響き、インターホンから応答があった。
「はい、どちらさまですか?」
屋敷の住人らしいその声は、おそらく私と同年代であろうと思える男性の声だった。
私は少しだけ慌てて、何と名乗るべきかと考えた。
『向かいの者ですが』と名乗るのが一番良かろう、引越し祝いと挨拶をかねた訪問ならば屋敷の主人も悪い気はすまい。
そう思い、私は口を開いた。
「すみません。向かいの者ですが、ご挨拶をと思いまして。」
屋敷の主人らしき声が答えた。
「これはご丁寧に。どうぞお入りください。」
声が終わると同時に、門を閉ざしていた柵が音もなく開いた。
私は少々興奮しながら中に入った。
何かおもしろいことが起こるかもしれない、そんな予感がした。
一夜にして現れた不思議な屋敷……。
私は物語の主人公になった気分で、門の中へと足を踏み入れたのだった。
臙脂色に塗られた門を通り抜け屋敷の入り口へ。
白い扉は一枚板で作られており、中ほどには謎の文字が書き付けられていた。

『もう一人の私に捧ぐ』

何だろう、と思いながら、私はそっと白い扉のノブを掴んだ。
静かに回すと、かちゃりとかすかな音がして扉が開いた。
扉の向こうには人が立っていた。
一瞬どきりとして、とっさには言葉が出なかった。
どういうわけか、その人物は家の中にいるというのにかなり目深に帽子をかぶっていた。
幅広いつばのせいで、彼の顔は全く見えなかった。
「こちらからご挨拶をと思っていたのですが、わざわざお越しいただいてすみません。」
扉の内側にいた男が言った。
先程、インターホン越しに聞いたのと同じ声だった。どうやらこの屋敷の住人らしい。
私はやや落ち着きを取り戻し、こう答えた。
「いえ、散歩に出ようと思ったところ、こちらが目に入りましたもので……。」
「そうですか。まぁ、どうぞこちらへ。」
屋敷の主人らしき人物の声はどこかで聞いたような懐かしい響きであった。
私は彼に招かれるまま、不思議な屋敷の中に入っていった。
すぐ妙なことに気づいた。
壁紙の模様に見覚えがあるのだ。小さな青い花が並んだ柄の壁紙に。
いや、壁紙だけではない。
何もかもが不思議なデ・ジャ・ヴを呼び覚ますのだ。
応接間に通された私は、思い切って口を開いた。
「何か、懐かしい気がします。以前どこかでお会いしましたでしょうか。
 この家もどこかで見たような気がするのですが、モデルになった建物などがあるのでしょうか。」
屋敷の主人は、帽子の下で微笑んだようだった。
「きっとすぐにお分かりになりますよ。さぁ、お茶をどうぞ。」
そう言って彼は紅茶の入ったカップを差し出した。
そのカップの柄を見たとたん、私はハッと息を飲んだ。
そこには、物語の一場面が描かれていた。
一人の青年が巨木の腹に取り付けられた謎の扉を開こうとしているところだった。
青年の背後には、美しい娘やドワーフの老人が心配そうに控えている。
まさに、まさに私が連載していた物語の冒頭部分であった。
ちょうどその物語の〆切に追われているところで、家を抜け出してきたのだ。
これは偶然の一致なのだろうか。
はたまた屋敷の主人の粋な計らいなのだろうか……。
彼に問いかけようとしたとき、暖炉の上の人形達が目に入った。
豪奢に着飾った婦人……女王が、黒い騎士に出撃を命じているシーンであった。
これもまた、同じ物語中の一場面なのだ。
その横にかけられた絵画もまた、同様であった。
油絵の具で描かれた絵は、霧深い森を彷徨う双子の狩人達と猟犬の姿を表している。
ちょうど、先週の連載分のシーンだった。
私は屋敷の主人に微笑みかけた。おそらく、この人物は私の書く物語の読者なのだ。
私を知っていて、こんなユーモアあふれるもてなしをしてくれたのだ。
そういえば、青い小花柄の壁紙も私の書いた物語に登場したものだった。
主人公が生まれ育った家の壁紙なのだ。
ますますもって、この家の主人は私の読者に違いない。それも、かなりのファンと見える。
私は、嬉しいながらも『何もそこまで』と思うような、複雑な気持ちで紅茶を飲み干した。
「お菓子もどうぞ。占いクッキーですよ。ぜひ召し上がってください」
主人は皿に乗った丸い焼菓子を差し出す。
美味そうなクッキーを遠慮なく一つを手に取ると、彼はおかわりの紅茶を注いでくれた。
甘く香ばしい、いい香り。私は思わず唾を飲み込んだ。
占いクッキーならば私も知っている。
クッキーの中に占いの文句を書いた紙が入っているものだ。
パキッと軽い音を立ててクッキーを割る。
すると、自分にぴったりの占いが顔を出すという寸法である。
私は早速手にしたクッキーを割ってみた。中から、細かい文字が書かれた紙が出てきた。
文字を読んだ私は、アッと声を上げた。
そこには、つい数十分前に書いたはずの文章が記されていたのだ。
私は急速に混乱し始めた。
なぜまだ仕上げてもいない今週掲載分の内容が書かれているのか?
もしや、自分で思いついたと思ったこの文章は、すでにこの世にある別の小説の一部だったのか?
いや、しかし、この家のあちこちに散りばめられているのは、確かに私が書いた物語にちなんだものだった。
では、この屋敷の主人は、書かれたばかりの文章をクッキーに忍ばせたのだろうか?
まだ、担当にすら渡していない文章を?
戸惑いうろたえながら紙切れを読み終え、顔を上げた。
屋敷の主人が、いなくなっていた。
きょろきょろと辺りを見回したが人の気配すら感じられない。
私はますます混乱を深めてから、はたと思い当たった。
これは、夢なのではないだろうか?
睡眠不足であった私は、知らぬ間に眠り込んで夢を見ているのではないだろうか?
夢ならばどんな不思議も納得できる。
一夜にして屋敷が建っていたのも、書いたばかりの文章が知られていたのも当たり前だ。
私は疑問が晴れたと感じ、さっぱりとした気分になった。
きっとこれは夢なのだ。
そうなると、俄然ある思いが胸中を占めた。
続き。
行き詰った先の続きを覗けはしまいか。
私は淡い期待を抱いて、もう一つ、クッキーを割った。
今度のクッキーの中身もやはり私が執筆中の物語であった。
しかし残念なことに、ちょうど私が行き詰っている、まさにその場面で文章は途切れていた。
不思議さよりもむしろ落胆に近いものを感じて、私は溜め息を吐いた。
ああ、次の場面が覗けさえすれば、すぐ続きが書けるというのに……。
締め切りを控えた私の頭は、そんな都合の良いことを考えていた。
次の場面は、主人公が他の登場人物との対話から冒険のヒントを得る、という内容であった。
ヒントの中身やその後の展開の流れは決まっていたのに、どの人物を対話役とするかが決まらなかったのだ。
主人公の行動、ひいては人生に大きな影響を与える。
そんな示唆に満ちた台詞を話す人物がどうしても思い浮かばなかったのだ。
ならばもう一つクッキーを割ろうかと手を伸ばしたとき、隣の部屋で物音がした。
ことり。
……ひそひそ。
硬い物音に続き、ひそやかに人が話す声がする。
私は弾かれたように立ち上がった。
もしかしたら、行き詰まっている続きの部分が覗けるかもしれない。
期待に胸を膨らませて、私は隣室への扉に近づいた。
扉は数センチだけ開いていた。隙間から中を覗くと、部屋の中央にちらりと人物が見えた。
私はまた息を飲んだ。
その人物が私の思い描く登場人物の一人にそっくりだったからだ。
次の場面に登場させる人物が、そこにいた。淡い緑の髪、とがった耳、白い肌。
それは紛れもなく、主人公の幼馴染という設定の、エルフ族の青年であった。
(そうだ、彼だ! 人間である主人公が思いつかない発想を、異種族の親友が与える。
 それしかない! なんてぴったりなんだ!)
私は興奮して、隣りの部屋への扉を開けようとした。
ところが。
「ああ、いけませんよ。この先は見せられないのです。」
急に声をかけられ、私は飛び上がるほど驚いた。
振り向くと、声の主は屋敷の主人だ。彼はやんわりと私の腕をつかんで首を横に振った。
もっと続きの展開が見たいというのに。
私は抗議を口にしよう息を吸い込んだ。
すると彼は、帽子のつばをそっと上にずらしたのだ。
帽子の下から半分ほど顔が覗いた。
全くと言っていいほど見えなかった顔が垣間見えたことは、私の鼓動を跳ね上がらせた。
私は瞬きも忘れて見入った。
どこかで見た顔のような気がする。どくん、と心臓が大きく脈打ち、なぜか背筋が寒くなった。
私は、瞬きすら忘れて見入った。すると、彼がゆっくりと顔を上げたのだ。

その顔は 私自身 であった。

気がつくと、私は我が家の前に立っていた。
目の前に見慣れた自宅の玄関がある。
私は気をつけの姿勢でそこにいた。
玄関から数歩離れたところで、まるでずっと前からそうしていたかのように。
一瞬、何が起こったかわからなかった。ただ呆然としていた。
どのくらい時が経ったのだろう。
突然、我が家の奥から物音がしたかと思うと、担当の編集者が血相を変えて飛び出してきた。
若い彼女は私を見るなり、目を吊り上げてまくし立てた。
「どこに行かれたかと思いました! 急に消えないでください、先生!!」
とっさに、私は言った。
「向かいの家に挨拶をしていたんだよ。」
担当はきょとんとした表情で、不審げに問い返してきた。
「……向かい、ですか?」
その視線は、私の背後に注がれていた。あの、不思議な屋敷が立っていた方向に。
私はある予感を感じながら後を振り向いた。
案の定、そこには何もなかった。屋敷はおろか、異変の痕跡すら残さない草はらがあるだけだった――。


私は今、一冊の本を手にしている。
あの日、アイディアに詰まった私が抱えていた連載小説が書籍となったものだ。
表紙の色は臙脂に決まった。あの屋敷の門や塀とそっくりの色合いであった。
厚い表紙を開くと、本文や目次の前にまずはタイトルページがある。
いわゆる「扉」と称されるページだ。
その中ほどには、あの言葉。

『もう一人の私に捧ぐ』

Fin.

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