その日、白門楼にて。



その日、白門楼にて。
今からざっと1800年ほど昔のことである。
これは、後世まで語られるすばらしい死に際を見せた、『義心あふれる悲運の名軍師』の話だ。





時は198年。
並外れた強さと裏切りの繰り返しで知られた猛将、『人中の呂布』が後の魏王・曹操と戦った。世に言う、下ヒの戦いである。
戦いに敗れた呂布は、彼に付き従った文武の将たちと共に曹操の前に引き出された。いわゆる『白門楼の終焉』の場面だ。
その将たちの中に呂布軍の軍師として捕われた者がいた。
姓名は、陳宮。
字は公台。
かつて曹操に仕えたことがある。
剛胆な人物だったそうだ。
他でもない曹操自身が、我が子同然に扱うほど大切にしていた鬼才の持ち主であった。 自らを “有り余る智謀の士だ” と認めていたという。
自信家であると同時に、その言葉に恥じない確かな実力を持つ人物でもあったのだろう。
正史に見える彼の最期は、曹操の問いに答えて
「(呂布が)言うことを聞かなかったために捕われたのだ」
と言った後、曹操を相手に孝仁の政を説いて老母と妻子の無事を得るというものである。
最期の弁舌の直後、陳宮は、惜しむ曹操をあっさりと振り切って潔い刑死を求めた。
この場面での弁説の見事さと潔い死際こそ、彼の存在が『惜しまれつつも自らの 死際を選んだ義心あふれる悲運の名軍師』として今日まで伝わっている最も大きな理由といえるだろう。

ここで、演義の同じシーンを見てみよう。
演義では、正史に伝えられる白門楼の終焉の前にごく短いやり取りがつけ足されている。

曹操「久しぶりだのう、陳宮」
陳宮「私は貴方の心が正しくないから去ったのだ」
曹操「では、呂布はどうなのだ」
陳宮「彼には知恵はない。
    だが、貴方のように平気で嘘偽りを言う奸物ではないのだ」

この、各々二言ずつの会話がそれだ。





戦いの後、捕われた陳宮は、一人の敗者として曹操の目前にあった。
傍らでは曹軍の家臣や、今回は曹軍の味方であった劉備らが成り行きを見守る。
縄打たれたまま、陳宮は、曹操の前で凛と姿勢を正した。
相変わらず豪胆なことだ、とつぶやく声が、どこからともなく聞こえてくる。
ふと後ろの方を盗み見れば、憮然とした表情の我が君・呂布。
縄目がきつい、とブツブツ文句すら言っている。
きつく締め上げねばならぬほど暴れてばかりいた自分が悪いだの、
負けたのだから仕方ないだのとは思いも寄らないらしい。

 ――……まったく。

陳宮は思わず苦笑を浮かべた。

「公台。」

突然声がかかる。昔、聞きなれた声だ。聞きなれた呼び方だ。
正面に視線を戻すと、目に曹操の姿が飛び込んできた。自信に満ちた、勝者の表情だ。
そっと笑みを消し、曹操に向き直る。
さあ、最後の決戦だ。いや、舌戦、か。

「久しぶりだな、『陳宮』。」

皮肉をこめた口調で、曹操が言う。

「私は貴方の心が正しくないから去ったのだ。」

陳宮は間髪いれずに答えた。
涼声一鳴。
ほんの一瞬、曹操の表情が険しさを帯びた。
だが、すぐ元の表情に戻り自らの髭をもて遊ぶ。
そんな曹操の隣では、毎度お馴染みの夏侯惇が思い切り渋い表情で陳宮をにらんでいたりする。
辺りにはかすかな声がさわさわと漂っている。
突飛にすら思える陳宮の返答に、皆、困惑のようなものを抱いているらしい。
人は、不思議なことに出くわせば、余計に知りたくなるもの。
それゆえ、自然と場にいるものたちは皆、陳宮の言葉に耳を傾けた。
曹操の呼びかけからあまりに飛躍した答えの続きが気になって。
それこそ陳宮の思うつぼである。
人々の興味を引き込んだ手ごたえに、陳宮は腹の中でほくそえんだ。
そんな陳宮の心を知ってか知らずか、曹操はいかにも愉快げに笑い声をあげる。

「では、呂布はどうなのだ?」

皮肉めいた口調だ。
一瞬、今度は陳宮の唇がゆがんだ。捕われるときに傷ついたのか、薄く血のにじむ唇が痛々しい。
言いたい事はわかる。
やれ赤兎馬だと言っては養父を斬り、やれ貂蝉だと言っては次の養父も斬り。
事実はどうあれ、世間での評判はそうだ。
しかし、次の瞬間、ゆがんだ唇はにやりと形を変えた。

「そうですね……。」

懐かしむように、遠くを見つめてみる。
何故彼に惹かれたのか、というならば、答えは一つだ。
あまりにも。
あまりにも自分と違いすぎたからだった。



炎。



それが陳宮の感じた呂布であった。
定められた形などない。縛り捕らえようとする縄も柵も焼き尽くし、何よりも猛々しく。
見誤られることなどありえない程、何よりもそれ自身。
激しい熱と朱光を放つがゆえに、無形でありながら有形の存在よりも鮮烈である。
このようなものが炎であるならば、呂布とはまさに炎の如き男だ。
ここまで考えて、陳宮はふと現実に帰った。曹操はまだ陳宮の返答を待っている。

「彼……呂布温候には、知恵はありませんね、“まったく”。」

それはもうきっぱりと言う。
背後から、単純な我が君がムッとしている雰囲気が漂ってきた。
彼の表情が目に浮かぶようで思わず頬がゆるみそうだ。
単細胞(失礼・汗)もここまで極まるといっそ可愛らしい。
軽くうつむいて表情を隠し、陳宮は言葉を続ける。

「だが、貴方のように平気で嘘偽りを言う奸物ではないのだ」

曹操に向けられた言葉は、静かに響いた。

そうだ。

静まり返った満座の前で、陳宮は再び思いをめぐらせていた。
呂布という男。
彼の中には嘘偽りなどない。そこにあるのは己。ただまっすぐな己。
嘘偽りや小賢しい策略、その他のややこしい汚れが入るスキ間もない彼自身。
それは腕力ではない『強さ』だった。
だからこそ魅せられた。
自分にはない、どこまでも純粋な『強さ』に。
その『強さ』を持つがゆえに、時として自分の献策が認められないことがわかっていても。
それでもなお、側で見たいと思えたのだ。彼の『強さ』を。この身、朽ちるまで。
そして今。
どこか晴れ晴れとした気分で、この終焉を迎える自分がいる。
望むがままに、最強の傍らにあり続け、かの人の『強さ』を存分に味わった。
己の生き様すらも揺らぎがちな戦乱の世の中で、この生涯、なんとも贅沢なことではないか。 この陳公台、幸せな男だ。

やがて、曹操が問うた。

「公台よ。お前は常々、自分は有り余る智謀の主だと自ら認めていたというのに、
 今のありさまはいったいどうしたのだ?」

鋭く、どこか知的な輝きを放つまなざしを向け、曹操が豪奢な座の上でゆっくりと言う。

「この男のせいですよ。」

陳宮は、わざとらしいまでに疲れた調子で後方の呂布を指し示した。
指差された呂布は、「何だ。」とでも言うように片眉を上げている。
ふと前方の曹操に目をやると、こちらは苦く笑っていた。
陳宮と目が合うと……
偶然だろうか。
どこか呂布と似た風に、「ん?」と片眉を上げて答えをうながす。
陳宮はもう一度呂布を指差した。

「私の言うことをさっぱり聞かないからこんなことになった。
 我が策を用いていたならば、必ずしも生け捕りになるなどとは限らなかったものを。」

ちらり後方を向いて、いかにも憎らしげに言う。
だが、陳宮が浮かべた表情はあでやかなほど満ち足りた笑みだ。
呂布という離れがたき人を見る瞳の中に、愛しいものを慈しむように柔く揺れる光を宿し。
最強の猛者は黙って聞いていた。
陳宮を見つめ返しつつ、珍しく、何か思いをめぐらせるようにして。
やがて呂布の口元にも、微笑が浮かんだ。
それが合図であったかのように、陳宮の表情が変わる。
凛と冴えた、戦いに挑むものの表情に。

陳宮は思う。


さて、と。
曹操殿を相手に一勝負といきますか。
世に名高い智謀の雄・曹操、相手にとって不足はない。
『惜しまれながら、すばらしい最期を遂げた心正しい義の軍師』
とでも、千年後まで我が名が伝われば、この勝負、私の勝ちだ。
策は、すでに腹中にあり。
この策が成れば、私の最期はさぞかし美談として伝わるだろう。
最期の弁の見事さゆえ、あの曹操の記憶にすら『逃した大魚』として永久に刻まれるほどに。

だから、
見ていなさい。
そこで、その様を。
最後まで、私は、貴方の、臣なのだから。

ああ、妙な話だ。
これから死ぬというのに、何だか楽しくなってきた…


こうして、世にも稀なる一人の鬼才は、最期の舞台に立った。
最後の策が成るか、否か。
結果が出るのは、千年の後……。





その日、白門楼にて。
かの軍師が胸に抱えた思いを知るものは、すでにいないが。
あれからざっと1800年ほど後の今も「陳公台」の名は伝わる。
これは、自らの思惑通りまんまと歴史上に名を残した、ある天才的な、
そしてこの上なく幸せな名軍師の話だ。


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