在曇天求晴天



空。

天空。

蒼い天。

思い出すのは、あの日の光景。
幼い日、トンボを追いかけて見上げた空。
澄んだ水色の空の片隅に、薄っぺらい雲が浮かんでいた。
薄くちぎった綿のように、白く、柔らかな様で。

失意と、安堵にも似たあきらめ。
ため息をついて、そっと人だかりを離れる。
空は、一面すべてが雲で覆われていた。
ああ、彼ははるかに古い時代を生きる異国の人であるから、
『花曇り』などという言葉は知らないに違いない。
彼らの時代で言うところ、『倭国』という国のたおやかな言葉。
かの国では花といえば桜であり、桜咲く時期に空を覆う雲を、
日差しから花びらたちを守るものとして『花曇り』と呼んだ。
彼が住む国で花といえば桃であり、今まさに時は桃花の盛り。
雲で覆われた灰色の空も、桃の花咲くこの時期ならば、優しき
『花曇り』の空であると言えるのかも知れない。

「大の男が、戦いに出ようともせずため息とは何事だ!」

背後から、声高らかに言う者がいる。
驚いて振り向けば、翼徳だった。姓は張、名は飛。
おや、と彼は思う。
なぜ知っているのだろう、この青年の名を。
きらきらと力強い瞳を輝かせ、自分を呼び止めるこの青年を。
彼は首をかしげ、はたと気がついた。
ああ、知っていて当然ではないか。この青年は、私の義弟だ。
末の弟。

はら、はら、ひらひら、ひら、はらり。
美しい桃の花が、美しく花びらを降らせる。
桃園で見上げた空には、晴れ間がのぞいていた。
いつの間にか雲が切れ、風よりもなお涼やかな蒼い空が。
そう、まだこの蒼天は生きている。
絶やさせるものか、漢の歴史を。
志も新たに義兄弟の杯を交わした懐かしの桃園。
彼はまた思った。
そう、この後、兄弟の順を確かめ、私が長兄となったのだ、と。

空。
どこまでも続く晴天の、抜けるような高さ。
見上げていた視線を地上に戻し、彼はため息をついていた。
かけがえのない義弟たちが、彼の元にへ向かっている。
彼の妻を伴い、もうすぐ近くまで来ているという。
知らせが飛び込んでから、ずっと地平の彼方を見る日が続く。

「兄者……!」

声を詰まらせ、赤ら顔の男が膝をつく。
雲長だ。姓は関、名は羽。
なんと若々しいことだろう。赤ら顔と長髭はこの頃からだった。
通称を美髯公。私の義弟、中の弟。
抱き起こし泣きあって、再会を祝す。
ああ、翼徳もいる。
彼は、とめどなくあふれる涙をぬぐう。
三人、また共に過ごせるのだ。
ぬぐった涙で濡れきった両手を見つめた。
『こんなに良いお天気なのに、殿のお顔は大雨だ』
そんなことを言ってからかったのは、誰だったか。

白い息を吐き、手を温めた。
まだ見ぬ男を待ちながら、彼は思った。
三度も通った甲斐があったというものだ。やっと会える。
伏龍。
姓は諸葛、名は亮。
どんな人物なのか、わくわくする。
頭巾をかぶり、墨染めの衣をまとった男の姿を思い浮かべた。
まだ会ったこともないはずなのに、彼はその男を知っている。
白羽の扇を揺らめかせ、とうとうと、あるいは激しく、あるいは
静かに語る男を。
あの日、空はどんな色を映していたのだろう。



曇り空が多かった人生に、時折やってきた、あの晴れ間たち。
今、寝台の上で目覚めた彼は、まどろみながら意識していた。
自分が見た懐かしい光景は、つかの間の夢であることを。
苦労に苦労を重ねて、やっとたどり着いた気がする。
彼は思う。
明日、自分は漢中に入るのだ。
やっと礎が手に入る。孔明が唱えた天下三分の計が、ついに
成る。不遇や敗戦、浮草のような日々を越えて、ついに明日、
晴れて一国の主となるのだ。
夢に垣間見た桃園の誓いから、早や幾年。

まだ外は暗い。目覚めるには、早すぎたようだ。
彼は再びまぶたを閉じた。
浅い眠りの中、彼は不思議な夢を見た。
どこまでも続く灰色の雲上を歩いている。
馬に乗り、若い頃着ていた粗末な平服の姿で。
なぜか『これは夢かもしれない』と思い、彼は空を見上げた。
天を仰げば、ただそこに雲が漂っている。
柔らかな、灰色の雲がしっとりと。
水を。
湿った気配を。
吸い込むたびに生き返るような大気の甘さを。
そして、潤すような慈しみの雨を思わせる空だった。

曇る曇る 天の色
広い大地も 雲の色

天だけではない、気がつけば、どこを見ても灰色の視界。
途方にくれて立ち止まると、突然、前方に晴れ間が広がった。
彼は喜びの声を上げて、一気に馬を駆けさせる。
いつの間にか、彼の姿は鎧と宝刀を帯びた戦場のありさまに
変わっていた。

天は 丸い傘のよう
大地は 碁盤に似ている

彼だけではない。
戦乱のこの時代、誰もがそうだった。
平和のために戦うことの矛盾を抱えながら、己の魂を輝かせる
ために、一度しかない今日を生きていく。
雨にも、雪にも、風雷にも、そして晴れにもなりうる、曇り空。
可能性と混沌に満ちた群雄割拠の時代とは、そんな曇り空に
似た時代だったのかもしれない。
突き抜けるような青空が恋しくて、人は今日も戦い続ける。

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『曇天に在りて晴天を求む』でした。
三国志演義より発想、もちろん勝手に作ったエピソードです。
蜀の主、劉備のつかの間の夢。