星が見ている

位置について、足を踏み開く。
ふ、と小さく息を吐いてから、静かに呼吸を整えた。
腰から下をどっしりと落ち着けるイメージ。
屋外に作られた粗末な弓道場は、静寂に満ちていた。
私の他には誰もいない。
他の部員たちはまだ、教室の掃除でもやっているのだろう。
弓を下ろしたままで矢をつがえる。
的を見据える。
それから、おもむろに弓を持ち上げる。
弓を押し開く。
ギリギリまで引ききって、狙いを定めた。

矢を放つ。

自然に、自然に手を離すのだ。矢の離れを意識しないように。
つるが小気味の良い音をたてた。
矢は風を切ってまっすぐに飛ぶ。
そのまま、的に吸い込まれていった。ギリギリ、黒丸の内側に突き刺さる。
我が校の弓道部で使う的紙には二つの種類がある。
星的紙と霞的紙。

星的紙↓
霞的紙↓

今、私が使っているのは星的紙だった。
星的紙とは大きな白い丸の中に、小さな黒い丸が描かれたものだ。
大と小、二つの丸だけ。ただそれだけのシンプルな的紙だ。シンプルすぎるくらい。
放った矢が白丸の中に入れば中り。
私の矢はさらに内側の黒丸に刺さったのだから、十分に上出来の部類だろう。
「さすがですねー、三崎先輩。」
声が聞こえた。
振り向かなくてもわかる。
渡辺浩介。
今年、ただ一人、この弱小弓道部に入部してくれた一年生。
そして、入部して三ヶ月たらずだというのに、もう我が部のエースである人物。
彼は小学生の頃からずっと弓を持っているという。
私は高校に入ってから始めた人間だ。
当然、彼にはかなわない。
「さすが部長。やっぱ、うまいっすね先輩。
 それで始めて二年ちょいでしょ? すごくないっすか、マジで。」
彼は朗らかに私をほめてくれる。
わかっているんだ、悪気がないことは。
ああ、でも。
「形、きれいだし、筋いいっすわ。先輩はもっと上手くなると思いますよー。」
お願い、そんな風にほめないで。
上から見下ろすかのような、ほめ方をしないで。
技に長ける者から見た、若輩者へのほめ言葉。
わかっている。見下すつもりなんかないことくらいは。
けれど私たちには歴然とした差があるから、自然とそんな見方になるんだ。
私が卑屈になっているから、そう聞こえるだけかもしれないけれど。
「おっ、早いな! 美雪に、浩介か。じゃあ、右端の的紙を変えるかな。」
はつらつとした声が聞こえて、顧問の中本先生がやってきた。
少し前までは大好きだった先生。
でも、今は……。
私は先生の指がつまんでいた一枚の紙に目をやった。
霞的紙。
うちの高校の中ではただ一人、渡辺君だけが使う的紙だ。
星的紙とは異なり、幾重にも波紋のように輪が重ねられたデザイン。

『浩介は上手いから、霞の的紙だな! なるべく中心に中るようにやってみろ。』

忘れもしない、あの日、先生はそう言ったのだ。
渡辺君が入部してきて三日目のこと。
そのときはずいぶん妙な話だという気がした。
霞だって星だって、的紙の大きさは変わらない。
そして、和弓道の勝敗は中りか外れかでのみ判断されるもの。
的の大きさが同じである以上、本来ならば難易度に差なんてないはずなのだ。
的の中心に近づくほど点数が高くなるアーチェリーとは、根本的に違う。
でも、先生の言わんとすることもよくわかった。
上級者の渡辺君にだけは、より中心めがけて射る練習を。
彼の技術に合わせて、練習のレベルも高くした方が『教育的』だと思ったのだろう。
星と霞……、的の大きさ自体は変わらないが、柄の細かさはずいぶん違う。
先にも言ったとおり、星的紙は大小二つの丸だけでできている。
けれども、霞的紙は細かく区切られていて、中心部の丸などはずいぶん小さい。
霞なら、星よりずっと細かく評価することも、簡単にできる。
私は唇をかんで先生の持った霞的紙を見つめた。
それはまるで、渡辺君が優秀である証のよう。
同時に、『お前は渡辺に劣る』と告げるもののように見えた。
「えー、星貼ってありますから、あのままでいいですよー。」
渡辺君が言う。
わざわざ自分のために的紙を張り替えるのが面倒なのだろうか。
すると、笑いながら先生が言った。
「何言ってんだ。星じゃあ、つまらないだろう。」

ツマラナイ?

先生の言葉が心臓に刺さる。
つまらないってどういうこと?
星は簡単すぎるから、上手な渡辺君にはつまらないということなのか。
そんなのはおかしい。
だって、当てる難しさはどちらも同じはず。
それより何より、今、目の前で私が星的紙を使って練習しているのに。
私には当たり前のように星的紙を与えているのに。
なぜ、そんなことが、言えるの?
悔しくて、息が苦しい。
「期待してるぞー。浩介は期待の新星なんだから、どんどん攻めていけよ!」
先生は笑いながら彼の肩を叩いている。
全く同じセリフ、私にも言った。
私が入部したばかりの頃、先生は私の肩を叩いて言っていたのだ。

『美雪は筋がいいからな! 期待してるぞー、お前は期待の新星だからな!』

スターだ、エースだとおだてておいて、もっと上手い子が入ってきたとたんにこの態度。
私の指導にかけていた時間は十分の一くらいに減って、渡辺君につきっきりだ。
私は、ないがしろにされている。
そう思うとますます悔しくて、涙がにじんできた。
ゆがむ表情を隠そうと、私は彼らから必死に顔を背けた。

足を踏み開き、呼吸を整える。
乱れていた心を静める。真っ平らな水面のように。
研ぎ澄ます。鋭い真剣の切っ先のように。
矢をつがえて。
的を見据えて。
弓を引き、狙い定めて矢を放つ。

矢は風を切って飛んでいった。
白い丸の内側には中ったけれど、黒丸からは外れていた。
つまり、さっきよりは外側。それでも中りなのだから、よし。
こんな乱れた心でもちゃんと弓が引ける。
私は少しの満足感に小さくうなずいた。
そのとき、隣から弦を弾く音が聞こえてきた。
「おっ、すごい!」
先生の声がする。
思わずそちらに目をやると、渡辺君の放った矢が的のほぼ真ん中を射抜いていた。
先生はうれしそうだ。
私の練習なんか、見てもいない。
私はまた唇をかんだ。
「どうすか、先輩!」
楽しげに、私を呼ぶ渡辺君。
自慢げなわけではない。私を馬鹿にしているわけではない。
ただ朗らかに声をかけてきただけ。
いつも彼はにこにこしていて、明るくて、くったくがない人なのだ。
「すごいね。」
やっとの事で賞賛の言葉をしぼり出し、私は作り物の微笑みを浮かべた。
彼は皆の人気者だ。
私は彼のせいでつらい思いをしていると思う。
けれど、彼には悪気なんて全然なくて。
苦しいよ。
いっそ嫌なヤツなら良かったのに。
全身全霊を上げて憎めるようなヤツならば、こんなに自己嫌悪しなくて済んだ。
相手の良いところばかり目に入るから、ますます自分はダメなんだと思えてしまう。
つらい。
ちょうどそのとき、廊下からにぎやかな声がして、他の部員たちが現れた。
「こんにちはー。」
「こんにちはー!」
口々に言いながらぞろぞろと弓道場に出てくる、皆。
私は急いで『大人しくてしっかり者の部長』という仮面をかぶり、皆を迎えた。


部活動の時間が終わったことを知らせるチャイム。
鳴り終わるのとほぼ同時に、私は部室の中に入った。
今日の練習は終わり。
活動の反省や終わりの挨拶も済ませ、皆それぞれの帰路についている。
私は部室の中を少し整頓してから帰ろうと考えていた。
今は夏。
プレハブで作られた弓道部の部室は、むしむしと暑い。
的やいくつかの弓が置かれた部室の中で、私はせっせと掃除に励んだ。
気をつけて見ると、紙くずのような細かいゴミが目立つ。
片づけ終えたときにはもう薄暗くなり始めていた。
時刻は七時近く。
早くしなければ校門を閉められてしまう。
私は少し焦って、玄関へと向かった。
自転車通学の私。
部活中に味わった嫌な気分を吹っ飛ばすように、軽快に飛ばす。
掃除の疲れからか、何だかとても喉が渇いた。
ジュースでも買おう。
そう思って立ち寄ったコンビニで、私はとんでもない言葉を聞くことになった。

「本当つまんねーんだよなー、部活。ウチのガッコ、レベル低いわー。」

笑いながら話すその声は棚の向こうから聞こえてきた。
顔は見えない。
けれど、間違いなかった。

「オレを部長にしろっての。他の奴ら全員、下手くそなんだから。」

渡辺君!?
渡辺浩介!!

「顧問は全然弓の知識とかねぇし。オレ以外の部員全部、クズだよ、クズ。」

それは間違いなく彼の声で。
私は耳を疑った。
今までいい子だと思っていた後輩が、とんでもないことを言っている。
先輩たち、仲間たちを皆、クズ呼ばわり?
先生のことも馬鹿にしている。
嘘でしょ、あなた、こんな人だったの?

「部長がブスでさぁ。下手なくせに先輩ヅラして、暗いし、キモイんだよ。」

……ブス?
……下手なくせに?
私の、こと、だ。
部長なんて一人しかいない。間違いなく、私のこと。
お腹の中で、胃の辺りが震えた。
内臓から震えが走ることなんて、あるんだね。
何、これ。
何なの、これ。

死ね、三崎。

クスクス、楽しそうに笑いながら、聞き覚えのある声は言った。
三崎。
私の名字。
やがて彼らはレジへと向かったようだった。
私は彼らに見つからないように移動しながら、荒い息を吐いていた。
神様、ありがとう。
私はもう二度と自己嫌悪なんてしないだろう。
前から思っていたのだ、いっそ渡辺が憎めるような人間ならいいのに、と。
願いは叶ったよ。
大嫌い。
お前なんか、最低だ。
私の中で何かが弾けて、飛んでしまったような気がした。


「忘れ物をしてしまって……。」
電話の受話器を握りしめ、私は、嘘をついていた。
電話先は職員室。
「今すぐ取りに行きたいんです、実は、明日までの宿題に必要な物なんです。」
嘘はなぜか、さらさらと口をついて出た。
まだ残っている先生がいて良かった。
私の話を聞いた初老の先生は、それなら今すぐ取りに来なさいと言ってくれたのだ。
職員玄関を開けて待っているから、と。
この思いつきは突然降ってわいたものだった。
思いついてしまったら、もう止められない。
いけないこと。
そうわかっているのに、どうしても我慢できなかった。
大した嫌がらせではない。
そう思うから、なおさら。
私は自転車を飛ばして学校へと向かった。
進行方向正面の夜空、町の灯りの向こう側に輝く星座がある。
知っているよ、あれは射手座。
蠍座の赤い星に向かって弓を引く、半人半馬の男の姿。
射手座は許してくれるだろうか。
こよなく愛しているはずの弓道。その弓の心を汚すような、私の行為を。
「忘れ物は部室にあるんです。」
そう言って鍵を受け取り、私は弓道場に走った。
飛びつくようにして部室のドアに駆け寄り、急いで鍵を開ける。
誰もいない四角い空間、暗い深夜の部室。
小さな窓から月明かりが差し込んでいる。
その片隅に。

あった。

無造作に投げ出されていた。アイツの、渡辺の道具入れが。
彼は、いつも道具を置きっぱなしにしているのだ。
どうせ校外では別の道具を使うからと言って。
これって、本気で弓道を愛するものがすることだろうか?
私は彼の道具入れを開きながらそう考えた。
道具を置きっぱなしにするなんて、ずぼらでがさつで、その上、うかつな行為。
こんな風に誰かが触れるとは思わないのか、思わないのだろうな。
世の中は貴方を中心に回っているのですものね?
誰かに害されるなんて、思いも寄らないんだよね。
アンタなんか、大嫌い。
私は彼の道具入れの中から、弦を抜き出した。
和弓の弦は、両端が輪になっている。
この輪を弓の上下にひっかけて弦を張るのだ。
その輪の一つをつまみあげて。
ポケットからカッターナイフを取り出し、弦の輪にあてた。
ゆっくり、ゆっくり。
断ち切ってしまわぬように細心の注意を払って。
私は彼の弦に切れ目を刻んでいった。
1、2、3箇所。
ずぼらでおおざっぱな彼のことだから、きっと気づかないに違いない。
ろくに注意もせず弦を張るだろう。
そうしたらきっと、弦が切れる。
わずかな傷を刻み終わると、私は少しだけすっとした気分になった。
大した嫌がらせじゃない。
弦が切れるなんてよくあることだもの。
私が何かしたなんて、きっと誰も気づかない。
明日の練習で、できれば皆に注目されているとき、無様に切れればいいな。
ふと、窓を見上げた。
この窓から見えるのは東の空だ。
さっきなんとなく気にしたあの星座、射手座は見えない。
そのかわり、名も知れぬたくさんの星々が輝いている。
きらきら、きらきらと。
小さな窓枠の中から私の様子をのぞきこむように、満天の星が輝いている。


事件は次の日に起こった。
私が思ったとおり、渡辺は何の注意も払うことなく弦を張ったのだ。
けれど、弦は切れなかった。
すぐには。
そう、『すぐには』切れなかった。
あれは何度射た後のことだったのだろう。
練習時間も中盤にさしかかったときのことだった。
彼が弓をつがえ、一杯に引き絞った、まさにそのとき。

ばちん、と。

大きな音がしたかと思うと、渡辺がギャッと悲鳴を上げた。
驚いて彼を見ると…… 目 を 押 さ え て い る 
右の目を。
彼の顔はたちまち泣き顔に変わった。
私は何が起こったのかよくわからず、呆然と立ちつくした。
渡辺はそのまま先生に連れられて、あわただしく病院へと運ばれて行く。
それから、だいたい一時間後。
病院から戻ってきた先生からさっきの出来事が説明された。
一杯に張りつめた弦が、思いっ切り弾けて。
渡辺の右目を直撃したらしい。
角膜に傷がついたそうだ。
失明はしないものの、しばらくは眼帯をつけて、片目の生活になるそうだ。
しかも、視力が下がるくらいの後遺症は残るかもしれないのだそうだ。
傑作だ!
私は声を上げて笑いたかった。
天罰だよね、神様!
私や部の皆を馬鹿にして、見下していたからだ。
ふと、窓から見上げた射手座を思い出した。
弓を愛する神話の人よ。
あなたはきっと弓の神様だ。
彼の弦を刻みに行くときは、あの星座が私をとがめているような気がしたけれど。
射手座、あなたは私の味方。私と同じ怒りを覚えていてくれた。
いいえ、私よりもっと厳しい。
私が考えたいたずらくらいでは生ぬるいと、彼に大きな罰を与えた。
そう思って、私は笑いをかみ殺す。
人の不幸を喜ぶ日が来るなんて、考えたこともなかった。
けれど今、私は、こんなにも愉快だ。
私は誰にも疑われなかった。
誰もが皆ただの事故だと思いこみ、私の罪を知る者は誰もいない。


その日の夜、私は部屋の窓から空を眺めてみた。
部屋からは射手座が見えない。
私の部屋は東向きで、射手座のある西は窓の反対側。
ちょっと残念に思いつつ、星空を見る。

誰も知らない。
誰にも気づかれるはずがない。

そうつぶやいたとたん、ひどい不安が私を襲った。
誰にも気づかれるはずはないんだ。
だって、私が彼の弦に触ったところなんか、誰にも見られていないんだから。
それなのに、なぜか、ひどく心細く思えて。
私は部屋の中でうずくまってしまった。
脳裏の中で南斗六星を抱えたあの星座が輝いている。
射手座。
引き絞った弓に矢をつがえ、今にも放とうとする姿だ。
私の守り神。
ガタガタ震えながら、窓の外に目をやる。
当然ながら射手座は見えない。
そのかわり、名も知れぬたくさんの星々が輝いている。
きらきら、きらきらと。
私の罪を暴くかのように、あのときと同じ、東の星々が輝いている。
窓の向こうから、満天の星が私を見ている。


その日から私は眠れなくなった。
夜に眠れない分、昼間が眠い。
集中力も落ちてしまい、私が放った矢はほとんどが外れてしまう。
それは片目の渡辺が部活に顔を出すようになっても変わらなかった。
どうして?
どうして?
私が彼の目を奪ったからだろうか。
犯した罪に見合った罰を誰からも与えられていないから?
だから天罰が下っているのだろうか。
天は私を許してくれないの?
弓の神様は私の味方をしたと思ったのに。
眠れない夜。
根拠のない不安、いや、恐怖が私を襲う。
誰にも見られていないはずなのに。
それなのにどこからか、突然、告発者が現れるのではないかという恐怖が。
ううん、たぶん、きっと、神様は私の味方のはず。
そう自分を励ます。
でもね、気分は晴れない。
部屋に閉じこもっていても恐怖は増すばかりだ。
私は思いきって外に出ることにした。
静かに泣きながら、庭を歩く。
西の空を見上げたけれど、薄い雲に隠れて、射手座は顔を見せてもくれなかった。
そのかわり、東の空が晴れ渡っている。
そこに輝くのはあの日の星々。
私が罪を犯した晩に、部室の窓で輝いていたのと同じ星。
私は息苦しくなってそこから逃げ出した。
家の裏手に回ってみたけれど、東の星々は隠れない。
どうしようもなくて自分の部屋へと逃げ帰った。
でも、私の部屋は東向き。
カーテンを閉めたって、この布の向こうにはあの星があるのだと考えてしまう。
いや、いや、いや。
私を見ないで。
布団をかぶってみたけれど、眠気は舞い降りてくれない。
私は強く目をつぶってみた。
まぶたの裏に、チカチカと光が見える。まるで星のように。
イヤ、やめて。こっちを見ないで!
でも光は消えてくれなくて。
イヤ。
消えて、消えて、東の星々。
お願い、消えて。
どうして消えてくれないの?
私が悪かったよ、神様、ゴメンナサイ。
消えてよ。こっち見ないで。
眠れない私のまぶたの裏で、東の星々が嗤っている。
窓の外から。
閉じた瞳が見る暗闇の中から。
満天の星たちが容赦なく私をのぞき込む。

どうすればいいの? 誰か教えてください。


ああ、今も、ずっと。



ずっと見ているの、私のことを。




ああ。





今も、ほら。





ね ぇ 、 眠 れ な い の。







星  が  見  て  い  る  か  ら  。

−Fin.−

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