池のほとりに小さな樫が生えていた。
まだまだ若い樫の子ども。
その池の周りは草っ原で、木らしい木といえば柳が何本か生えているだけだった。
どこを見回してもこの木の他には一本の樫もない。
きっと気まぐれな鳥が種を運んできたせいで、この樫はここに芽を出すことになったのだろう。
樫の木はいつも一人だった。
柳たちは柳どうしでおしゃべりをしているし、草も花も樫の木には一言も話しかけない。
でも、樫の木は幸せだった。
小鳥たちは毎朝チルチルと歌うし、風の子らはくるくるとおもしろく舞う。
池の水面はキラキラしていてとってもきれいだ。
樫の木は毎日が楽しくて、ちっとも寂しくなんかなかった。
冬の寒さもすっかり緩んだ、暖かい朝のこと。
樫の木はとろとろと陽だまりの中でまどろんでいた。
草の芽たちが次々と顔を出し、池のほとりはちょっとしたお祭り騒ぎ。
小さな小さな草の子の声があちらこちらから聞こえてくる。
暖かい春の風が吹いた、そのときだった。
「こんにちは!」
どこからかかわいらしい声が聞こえてきたのだ。
とても小さくて、とてもとても透きとおった響きの声が。
樫の木は、返事もせずにまどろんでいた。
だって、まさか自分が声をかけられたのだとは思ってもみなかったから。
「こんにちは! ねぇ、こんにちはってば!」
声はだんだん大きくなって樫の木の耳に飛び込んだ。
つんつん、土の下で根っこの先をつっつかれる感触もある。
「なんだ、うるさいな。」
樫の木はことさら眠たげにまぶたを開けた。
でも、それらしい相手の姿はどこにもない。
「どこだよ!」
思わずイライラして怒鳴りつける。
すると、キャッという悲鳴が足元から聞こえたのだ。
樫の木はびっくりしてそちらに目をやった。
そこには見たこともない草の子どもが縮こまってぷるぷる震えていた。
それは何とも不思議な草の子だった。
ここらの草たちはみんな、すらっと真っ直ぐな葉を上へ伸ばしている。
なのに、その草の子はギザギザした形の葉っぱを横へと広げていた。
樫の木の根元から少しだけ離れた辺りで、ぺたっと地べたに貼りつくように。
「何だ、お前。」
樫の木が言うと、草の子はぷるぷる震えながら顔を上げた。
「怒ってるの?」
その草は不安そうに樫の木を見上げる。
「怒ってなんかない。で、誰なんだ、お前は。」
樫の木はぶっきらぼうなふうに尋ねてやると、草の子はピンと背を伸ばして言った。
「タンポポ! ぼくはタンポポ! こんにちは!」
たんぽぽ、それが草の子の名前だった。
それからというもの、たんぽぽはひっきりなしに話しかけてくるようになった。
樫の木はちょっととまどいながらも返事をしてやる。
例えばこんな具合に。
「ねぇ、今日は風が強いね。飛ばされちゃいそう!」
そよ風にそよぎながら、たんぽぽが言う。
「そうでもないだろ。」
樫の木が答えると、たんぽぽはますます風になびきながら声を上げた。
「君は大きくて重たいから平気なんだ。
ぼくは小さいから、もう飛んで行っちゃいそうだよ!」
そうしてたんぽぽは長い根っこをひしっと樫の木の根に絡ませるのだ。
「いや、飛びっこない。」
樫の木がパッツンと切るみたいに答えてやっても、たんぽぽはあいかわらずの様子。
やだやだと駄々をこねてはしがみついてくる。
本当はしっかりと地面に食いついて、全く飛んでいく気配はないくせに。
あきれ返る樫の木。
そんな樫の木を見上げてぴるぴるとそよぎながら、たんぽぽはうれしそうに笑う。
二人のおしゃべりは尽きなかった。
別の日は雨粒のおいしさについて。
また別の日には太陽の光の気持ちよさについて。
またまた別の日にはみみずが根っこをくすぐることへの不満。
またまたまた別の日には小鳥たちが歌うメロディの良し悪しのこと。
来る日も来る日も、たんぽぽと樫の木はおしゃべりを続けた。
樫の木は妙な気分だ。
だって、今までは誰かに話しかけられることなんて一度もなかったから。
「お前は変なやつだな。」
ときどき、樫の木はぽつりとつぶやいた。
するとたんぽぽは『何言ってんのかワカンナイ』とでも言いたげな顔できょとんと首をかしげる。
それからまたぴょこぴょこと葉っぱを揺らしてはしゃぎだすのだ。
次から次へと絶え間ないおしゃべりのやりとりに樫の木を巻き込んで。
ある日、たんぽぽが花を咲かせた。
お日様みたいな、まぁるい金色の花。
「なかなかいい。」
樫の木が言うと、たんぽぽは誇らしげに胸をそらせた。
「どう?」
目いっぱいに花びらを開いて見せるたんぽぽに、樫の木は柔らかい微笑みを浮かべた。
「なかなかいいぞ」
ぽんぽん黄色い花をゆらして、たんぽぽはうれしそう。
それを見て、樫の木もなんとなくうれしくなる。
たんぽぽの花は間もなくしぼみ、真っ白い綿毛に姿を変えた。
「なかなかいい飾りだな。」
樫の木が言うと、たんぽぽは照れくさそうに笑う。
「あのね、これは種なんだ。小さいでしょう?」
樫の木は笑った。
樫の木から見れば、それは確かに小さな小さな種だった。
「ぼくも昔はこんな種だった。
種たちはこれから風に乗って旅に出るんだよ。ふわふわ、空を飛ぶの!」
たんぽぽは少し照れたまま、でも、とてもわくわくしたふうに語りだした。
自分が種だったとき、どんな冒険をしたのか。
遠くの原っぱで生まれたこと。
そこはたんぽぽだらけの場所だったこと。
風に乗って飛んだ空からの眺めがすばらしかったこと。でも少し怖かったこと。
そして、キラキラ光る池の輝きを目印にここへ降りてきたこと。
「君の近くに降りたのはまた飛ばされるのが怖かったから。
大きな君のそばなら飛ばないように守ってもらえるかな、と思って……。」
そう言って、たんぽぽは照れくさそうに笑った。
「失敗だったな。そこは日当たりが悪い。ときどき俺の影になる。」
樫の木は苦笑い。
でも、たんぽぽは大きな声でこう答えた。
「失敗だなんてとんでもない!!
ここに決めて本当によかったよ、ぼくは君が大好き!」
今度は樫の木が照れる番だ。
たんぽぽの声があんまり大きかったので、樫の木は思わず辺りを見回した。
周りの草や柳たちが樫の木とたんぽぽをチラチラ見ている気がした。
樫の木は真っ赤になって、照れ隠しにえへんと咳払いをした。
春が過ぎ、夏が来た。
樫の木は青々と葉を茂らせ、たんぽぽは涼しい木陰に守られながらしっかりと葉を伸ばした。
樫の木とたんぽぽはたくさんのおしゃべりをした。
特におもしろかったのはお互いが見ている景色の話だ。 だって、まるで背の高さが違う二人だから、見えるものが全然違うものね。
いや、それだけじゃない。
まったく同じものについて話していても、二人の感じ方はまるで違っていた。
例えば同じ風に吹かれたときにも二人は別のことを言ったのだ。
「涼しいな。」
と、樫の木が言う。
「甘いにおいがするね。これは何のにおいだろう?」
と、たんぽぽが言う。
ね? 違うだろう?
同じ雨を受けてもそうだった。
「聞いて! 池に雨が落ちる音がとてもすてき!」
たんぽぽが葉っぱの先をぴくぴくさせて耳を澄ませば、樫の木は天を見上げてつぶやく。
「いい雨だ。冷たくてすっきりするな。」
草っ原のみんながさやさやとそよぐときも、そう。
「ねぇねぇ、見て! はっぱの波が銀色に光るよ!!」
おもしろそうに目をみはるたんぽぽ。すると樫の木はこう言うのだ。
「あぁ、葉のすれる音がする。」
こんなふうにね。
ぜんぜん違う二人なのに、樫の木とたんぽぽはとても仲良しだった。
ときどきケンカもしたけれど、いつもお互いの違うところを楽しんでいた。
二人の毎日はいつだっておしゃべりでいっぱい。
やがて夏も過ぎ、秋が過ぎた。
「寒いよぅ。」
木枯らしが吹き、冷たい雨が降る。
そのたびに、小さなたんぽぽは寒がって情けない声を出した。
「しっかりしろよ。」
樫の木は自分も寒かったけれど、そんなことは一言ももらさず、たんぽぽを励ました。
わざとたんぽぽの上に葉を落として、冷たい風から守ってやったりもした。
でも、季節は無情だ。雨も風もどんどん冷たくなっていく。
深まる寒さが植物たちをいじめる中、二人はますます寄りそって寒い日々を過ごした。
そして、冬が来た。
初雪が降った日、たんぽぽはついにしゃべらなくなってしまった。
たんぽぽの姿はすっかり雪の下に隠れた。
毎日聞こえていた元気な声もぱったりと聞こえなくなってしまった。
土の下では、たんぽぽの根っこがときどき樫の木の根に触れてくる。
けれど、その他に動きらしい動きは少しもなかった。
「おい、タンポポ、大丈夫か?」
樫の木が声をかけると、たんぽぽは力なく根っこをすり寄せてくる。
樫の木は何だか変な気分だ。
何かがどうもおかしいような、妙ちくりんな気持ち。
冬が深まるにつれて、樫の木はますます変な気分になっていった。
でも、樫の木にはその『妙ちくりんな気持ち』が何なのかちっともわからなかった。
やがて雪が解け、春がやってきた。
雪のおふとんが薄くなると、たんぽぽはたちまち元気になった。
ぐんと根っこを動かして、樫の木の根をこづいてくる。
雪解けはますます進み、じきにたんぽぽの体にお日様があたるようになった。
たんぽぽは待っていたかのような勢いで樫の木に話しかけてくる。
「かしくん、こんにちは! ああ、長いこと暗かった!」
樫の木は笑って答える。
「それほど長くもないだろう。今年の春は早かった。」
するとたんぽぽはプンとふくれてしまった。
「長いよ、とても長かったよ!」
そんなに長かったろうか? 樫の木は少しとまどった。
本当はね、樫の木がとまどうのも無理はないのだ。
樫の木とたんぽぽは育つ早さがずいぶん違う。
一年ごとに茎を伸ばしては枯れ、枯れてはまた伸びるたんぽぽ。
ゆっくりゆっくりと大きくなる長生きの樫の木。
二人が感じる時間の速さはぜんぜん違っているのだ。
そんなこととはつゆ知らず、樫の木はたんぽぽの様子にとまどったまま。
少しの間黙っていると、たんぽぽはとつぜん、きょろんと樫の木を見上げてこう言った。
「君もさびしかった?」
ふいをつかれて、樫の木はびっくり。
「何が?」
するとたんぽぽはムッとした様子でこう言った。
「さびしくなかったの? こんなに長いことお話しできなかったのに?」
樫の木はまたまた首をかしげた。
だって、寂しいってものがどんな気分なのか、わからなかったから。
黙っているとたんぽぽがまた言った。
「長いこと君とお話しできなくて、ぼくはさびしかったよ。」
樫の木は仕方なくこう答えた。
「別に、寂しいったって、たったひと冬だ。」
たんぽぽは怒る。もうカンカンのぷんぷん。
「君はぼくのことが好きじゃないんだね!」
そう言ったきり、たんぽぽはそっぽを向いてしまった。
樫の木は大弱り。
「そんなことはない。」
ぷりぷり怒るたんぽぽをどうにかなだめながら、樫の木は考えた。
(寂しいってのはどういう気持ちなんだろう。)
樫の木にはわからなかった。よくわからないな、と思った。
それから何年かの月日が流れた。
樫の木はむくむく大きくなった。
たんぽぽと出会ったころはまだ子どもだったけれど、今では若い樫と呼べるくらいだ。
二人はずっと一緒だった。
冬が来るとたんぽぽは枯れてしまったが、春にはまた元気に顔を出す。
二人は、いつだって一緒だった。
ところが。
その恐ろしい日はとつぜんやってきた。
ある晴れた日。
二人が日向ぼっこをしていると、どこからともなく見たこともないものがわらわらと現れたのだ。
それは人間だった。
人間たちはここに新しい村を作るつもりなのだ。
二人が暮らす池のほとりで、人間たちはあっという間に作業を始めた。
草花は次々とむしられ、どこかへ連れ去られていく。
柳の木たちもみんな抜かれてしまった。
「こわいよぅ! かしくん、どうしよう!?」
この様子を見ていたたんぽぽはすっかりふるえ上がった。
樫の木は答えた。
「大丈夫だ、きっと大丈夫。」
でも心の中では、樫の木だって怖くてたまらなかった。
人間たちの仕事はどんどん進み、ついに、樫の木とたんぽぽのところまでやってきた。
人間たちは樫の木をながめて、こう言い合った。
「これは樫の木だ。」
「今はまだ若いが、育てば立派な木になるぞ。」
「この木は大事に取っておいて、村のシンボルにしよう。」
樫の木はそりゃあホッとした。
どうやら自分は引っこ抜かれずに済むと思ったからだ。
でも、その安心も長くは続かなかった。
「周りの雑草はみんな引っこ抜いてしまえ。」
そんなことを言いながら、人間たちが辺りの草を抜き始めたからだ。
樫の木はあせった。
これでは友だちのたんぽぽまで引き抜かれてしまうかもしれない。
樫の木の心配はそのとおりになった。
ほどなく、一人の人間があのたんぽぽを引っつかんのだ。
「いたい! いたいよぅ! 誰か助けて!」
たんぽぽはめいっぱい悲鳴を上げた。
「おい、大丈夫か!? くそっ! お前ら、やめろ!」
樫の木は一生懸命に枝をゆすって叫んだ。
けれど、残念なことに、人間たちには草木の声は聞こえない。
「いたい、いたい! いたいよ、やめて……!」
ついに、たんぽぽは引っこ抜かれてしまった。
「タンポポ、タンポポ! しっかりしろ!」
樫の木は一生懸命たんぽぽを呼んだ。
けれど、たんぽぽは答えられない。
やがてたんぽぽは人間の手の中でくったりと力なく首をたれた。
もう泣き声もあげられないくらい、しおしおにへたれた顔で。
「ああ、タンポポ!」
樫の木の心は痛んだ。
でも、どこかでまだ平気に感じていたのだ。
だって心のどこかでは、根っこさえ残っていればまた生えてくるだろうと思っていたから。
冬を越えた後のように、ね。
でも。
そんな樫の木の幹にもたれかかりながら、一人の人間がこう言った。
「タンポポは根が深いからな、しっかり引っこ抜けよ。」
「な、なんだって?」
今度こそ、樫の木は心底からギョッとした。
根っこまで引っこ抜かれたら、どんな植物だって死んでしまう。
もしそうなったら、二度とたんぽぽには会えない。
まもなく、人間たちはシャベルを持ってきて地面を掘り出した。
「やぁ、本当に長い根だな。だからタンポポはしぶといんだなぁ。」
ぶちり、ぶちり。
人間は笑いながらたんぽぽの根っこをむしり取る。
「やめろ、それじゃ本当に死んでしまう!」
樫の木は一生懸命叫んだけれど、人間の耳にはちょっと枝葉が鳴ったようにしか聞こえない。
やがて人間はたんぽぽの根っこをしっかりつかむと、思いきり引っぱった。
長い根っこがぞろりんと地上に現れる。
もうおしまいだ。
たんぽぽは、引っこ抜かれてしまった。
「よーし、きれいになったぞ。これでこの木もうれしいだろう。」
樫の木はぶるぶる震えた。
なぜ震えているのか、自分でもよくわからない。
人間たちは樫の木をぺんぺんと叩き、笑いながら去って行った。
樫の木は、ただ、草の子一本残っていない地面を呆然と見つめていた。
樫の木は一人だった。今度こそ、本当に独りぼっちになってしまった。
それからというもの、樫の木の毎日はひどくつまらないものになった。
どんなに心を励ましても、ちっとも気が晴れない。
どうしたことだろう。
いつも一人でいたときはこんなふうにはならなかったのに。
樫の木は昔の自分に戻ろうとした。
一人で毎日を楽しく暮らしていたあの頃に。
でも駄目だった。
どうやったって駄目だった。
小鳥の歌を聴いても、風のダンスを見ても、もうちっとも楽しい気持ちになれない。
光を跳ね返す水面を見ても、チカチカした光がうるさいだけ。
樫の木は何とも言えない気持ちになった。
それはたんぽぽと出会ってから初めての冬に味わった気持ちに似ていた。
何かがどうもおかしいような、妙ちくりんな気持ち。
その気持ちはどんどん大きくなっていった。
あの冬よりもずっとずっと大きくなった。
『幹の真ん中が空っぽになったような感じ』
妙ちくりんな気持ちはそんなふうに感じられていった。
空っぽは消えなかった。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、また新しい春が来ても。
樫の木は思った。
(ああ、これがあいつの言っていた『寂しい』ってことか……。)
空っぽな感じはいつしか鈍い痛みになって樫の木を苦しめた。
シクシクと幹の真ん中辺りが苦しい感じにうずくのだ。
夕焼けや冷たそうな星を見ていると、特に痛みが強くなった。
そんなときは見えないツタにぎゅうぎゅうしめつけられているような気分になる。
樫の木は思った。
(一人でいるのが寂しいんじゃない、二人でいられなくなったのが寂しいんだ……。)
昔は、毎日でも一人でいられた。
一人でいたってへっちゃらだった。ちっとも寂しくなんかなかった。
それはきっと、本当の意味での『独りぼっち』じゃなかったからだ。
だって一人でいることが当たり前だったから。それしか知らなかったから。
でも、樫の木は知ってしまった。
二人でいることを。
そうしたら、急に『独り』が寂しくなった。
もう一人きりで過ごすことは当たり前じゃない。
だって、当たり前の毎日にはいつだってたんぽぽがそばにいたのだから。
たんぽぽと過ごした日々はとても楽しかった。
二人でいるとおしゃべりがつきない。
二人でいると時が経つのが早かった。
二人でいるとたくさんになる、思い出も、感じることも。
一人のときよりずっとたくさん。うれしさもおもしろさも、全部、全部。
でも今は二人じゃない。
樫の木はため息をついた。
ため息と一緒に小さなしずくがポロリとこぼれた。
たんぽぽの声は聞こえない。
樫の木は独りぼっち。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来た。
チョウチョたちが遊びに来た。
強い日差しが樫の木をすくすくと育てた。
樫の木は立派に育ち、たくさんのどんぐりの実をつけた。
秋が深まると愛らしいネズミやリスがどんぐりをめあてにやってくる。
やがて雪が舞い踊り、北風が朗々と冬の交響曲を奏でるころ。
小さな生き物たちはみんな、樫の木の根元で冬の眠りについた。
樫の木の周りはにぎやかだ。
人間の子どもたちがきゃあきゃあ駆け回ったり、大人たちがやってきては木陰で涼んだり。
人間たちはときどきこんなふうに言った。
「この樫の木は幸せだよ」
「こんなに大事にされて、村のシンボルにしてもらえたのだからね」
でも、樫の木はちっとも幸せじゃなかった。
どんなに周りがにぎやかになっても樫の木は独りぼっち。
いつもいつも、いつも寂しかった。
霧の濃い、ある朝のこと。
誰かに根っこの先をつつかれた気がして、樫の木は目を覚ました。
しばらく根っこに気を向けてみたが、特に何も起こらない。
気のせいだったかと思って目をつぶると、また根っこの先にちょこんと何かが触れた気がした。
樫の木は今度こそはっきりとまぶたを開いた。
二・三度、パチパチとまばたき。
ミミズだろうか? しばらく待ってみたけれど、何かはそれきり動かない。
どうやらミミズじゃないようだ。だって、ミミズは絶え間なく動く生き物だから。
樫の木は根っこの先を動かしてみた。
やっぱり何かが触れいてるような気がした。
でも、それが何なのかはわからない。
次の日。
何となくあのたんぽぽがいた辺りをながめていた樫の木は、思わず、おっと声を上げた。
とつぜん、地面が小さくむくりと持ち上がったのだ。
ちょうど何かの芽が出るときのような具合に。
樫の木は驚いた。
とってもとっても驚いた。
それからわくわくし始めた。何かとんでもなくすてきなことが起こりそうな気がして。
案の定、持ち上がった地面の下からはかわいい草の芽が出てきた。
まだあんまりにも小さくて、何の芽だかはわからない。
問いかけようにも、赤ちゃん過ぎて、草の子の方も答えられないほどだ。
けれど。
その芽が見覚えのあるギザギザの葉っぱに育つまで、たいした時間はかからなかった。
なんてうれしいことだろう!
樫の木はもう待ちきれない気持ちでその葉を眺めていた。
やがて、その草はくりくりした瞳をパッチリ開くと、懐かしい声でこう言った。
「こんにちは! なんてひさしぶりなんだろう!」
それは、あの友だちだった。
あの日、たんぽぽの根っこはすっかり引っこ抜かれたわけではなかった。
土の奥のそのまた奥に、ほんのちょっぴり、根っこの切れっぱしが残っていたのだ。
それはすばらしい幸運だった。
あの日から、たんぽぽは長い時間をかけて一生懸命に伸びた。
小さな根っこのかけらから新しい根を出し、地上に向かって茎を伸ばして。
そして、今。
たんぽぽはまた地上に現れ、立派に葉っぱを広げたのだった。
「また会えてうれしい、長いこと、とってもさびしかった!」
たんぽぽは大はしゃぎ。
「そうか。」
樫の木は短く答えた。
本当は樫の木だって、うれしくて、もう涙が出そうだ。
けれど、泣き顔を見せるのはかっこ悪いと思って、泣かないように我慢していた。
「すごくさびしかった。ずっとここにいたのに、ちっとも気づいてくれないんだもの。」
たんぽぽは葉っぱをふりふり樫の木に言う。
「しかたないだろ」
そう答えながらも、樫の木はバツが悪そうに微笑んだ。
「つらかったよ、こんな近くにいるのに一言もしゃべれないなんて。」
たんぽぽが言う。
「そうだな。」
樫の木も素直にうなずいて見せる。
「また君とお話しできてうれしいよ! 君もそう思う?」
「ああ。」
樫の木とたんぽぽは笑顔を見せあった。
たんぽぽは、輝くようなお日様の笑顔。
樫の木はがんばって涙をこらえたカチコチの笑顔。
「これからは、またいっしょだね!」
言いながら、たんぽぽは樫の木の方に伸び上がる。
樫の木はそんなたんぽぽをどこか遠くを見るようなまなざしで見つめた。
「いつまで一緒にいられるかな」
ぽつり、つぶやいた言葉はどこか寂しい響き。
「ずっとだよ! ずっとずっといっしょ!」
答えるたんぽぽはあいかわらずはしゃいでいる。
「そうか?」
そう言った後で、樫の木はにっこりと笑った。
「そうだよ! きっとそう!」
たんぽぽは元気よく叫ぶ。
樫の木は苦笑いを浮かべながら、本当にずっと一緒にいられるだろうかと考えた。
考えてはみたけれど、答えは出なかった。
ただ一つ確かなのは、二人がまた一緒にいられるようになったこと。
それだけは、本当に、本当に確か。
それからというもの、二人はますます仲良く過ごした。
冬が訪れればたんぽぽはちょっとの間、口をつぐむ。
でも、春になればすぐ、二人はまた元気におしゃべりを始めた。
毎年、毎年、たんぽぽは咲いた。
村の子どもに摘み取られても、世話焼きのオバサンに雑草としてむしられても。
たんぽぽは、何度も、何度でも生えてきた。
だから二人はずっと一緒だった。
ずっとずっと、ずっと一緒だった。
−終−
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