(中途半端な歴史的仮名遣いを含みます。読みづらいですね、ごめんなさい……! by『ち』)


自称、


 自称、とは便利な言葉だ。なにせ自ら称する所といふ意味であるから、これを文頭に持ってきさえすれば、どんなことを言っても嘘にはならぬ。この言葉は、本來なら自己紹介の折に用ゐる言葉であらうが、昨今では他人を言ふときにも使はれるらしい。

「彼は『自称、目利き』であるから、その審眼のほどは信用できぬ」

……等といふ具合だ。この場合、本人の称と他人から見た評の間には、往々にして大きな隔たりがあるものである。
 さて、僕の友人に「自称、温情家」といふやつがゐる。これが自称を掲げる者のご多聞に漏れず、全くもって自称するそれとはかけ離れた人物なのだ。
 例えば、


そこまで書いて、私はふと愛用の万年筆を走らせる手を止めた。
私は今、原稿用紙に向かって、懸命に小説を書いている。


 例えば、こんなことがあった。


例えば、の続きから書き始める。
私は大学から割り当てられた自分の部屋で執筆にいそしんでいた。
そう、私は大学教師。しかも教授なのである。


 我々の飲み仲間に高橋といふ男がゐる。これが少々おつむの弱い男なのだ。実に人柄の良い愛すべき人物なのだが、なにせ常識といふか、世の中のことを知らな過ぎる男である。
 かの「自称、温情家」はこの男に事あるごとに嘘を教へて喜ぶのだ。例へば、意中の女性を口説く法を教授するときにはこんな具合だ。

「何と言っても積極的が良い。
 少々強引でも構はぬから氣に入ったご婦人の腕を引っつかみ、人の氣の無い
 場所へ引っぱって、抱きしめてしまへよ。」

 とんでも無い話だと言ふことは、良識ある読者の皆様ならばすぐにおわかりになるだらう。確かに、この方法で上手くいく人間もごく稀に在る。しかし、それは、よほど恵まれた容姿と話術と妖艶的な魅力(+できれば財力も)を兼ね備へた達人級のモテモテ男のみである。
 哀れなる高橋氏は、野暮ったく冴え無い外見と重度の口下手とを兼ね備へた男なので、この温情家の言ふことを無邪氣に信じては女性に悲鳴を上げられ、痛烈なビンタを喰らふわけだ。それを見て、「自称、温情家」はたまらんと言はんばかりに吹き出すのである。


この物語はある登場人物を架空の筆者としている。
いわゆるホームズ形式というやつだ。
ワトソン役の書き手が作中に現れ、主人公について語るのである。


 そんな彼がどんな惡辣な面構へをしてゐるかといふと、それがさうでも無い。 彼の容貌は際立ってゐる。氷の貴公子とでも言はうか。いや、冷笑の惡魔と言った方が良いかも知れぬ。とにかく大した美形である。同時に、どこか酷薄な印象を持つ貌である。
 細い眉は少し吊り氣味。唇は比較的薄く鋭いが、いかにも整った形のせゐでそれほどの嫌味は感じさせぬ。髪はやや長く、見事なKである。鴉の濡れ羽色といふやつだ。男にしておくにはいささか惜しい美髪である。切れ長でK目がちの目は、鮮やかな印象でありながら大変に涼しげだ。肌なんぞは、その辺りの女性諸君が裸足で逃げ出すほど白い。だから、K髪とK目が際立つことったら無いのだ。
 彼の笑み方は独特だ。声を上げて笑ふときの有り様は、まさに若き惡徳貴族を演じる舞台役者のそれである。だが、声を上げず表情だけで笑むときの顏は何とも例へ難いのだ。にっこり、ではなからう。にやり……これも少し違ふ。が、先程よりはやや近い。どちらかといふと「しめしめ、うまくいった」とでもいふ感の得意げな顏である。あの笑顏には奇妙な効力があるらしく、それを見たとたん、ほとんどのご婦人方はコロリとまゐってしまふ。これは私にとって全く不思議に思へる事態だ。知人の女性曰く、「母性本能をくすぐられる惡戯少年の笑み」とのことだが、私にはとてもその様には思へぬ次第である。


さぁ、これで主人公の容姿に関わる紹介は終わりだ。
おっと、ところでこの主人公の名は何にしよう?


 この「自称、温情家」の名は、


さて……。
ここは昼間よりも、夜や宵の口が似合う名にしたいところだ。


 この「自称、温情家」の名は、鏡月 宵也といふ。鏡の如き月と宵の口といふ、いささか氣障な氏名が彼が唯一自前で用意できる持ち物である。家柄も素性もよくはわからぬ。住まひは親切な知人が用意してくれたといふアパァトの一室である。いつ見ても仕立ての良い服を着てゐるが、これはことごとく懇意なマダムたちからの贈り物だといふ。贅沢極まりない。


 或る日の夕刻のことだ。我々は連れ立ってぶらぶらと町を歩いてゐた。
 はずれの住宅地の方に来た頃である。我々は、日傘を持った妙齢のご婦人に呼び止められた。
「もし、すみません」
 彼女は鈴を振るやうな良い声で言った。
「郵便局まではどちらを行けばよろしいのでせう?」
 私が、嗚呼、と声を上げる前に、鏡月の奴がさっと口を開いた。
「この道を行って、二つ目の角を右へ。
 その先の小さい駅を通り過ぎ、一つ目を左に曲がればすぐですよ。」
 鏡月は目の前の道を指さしながら言ふ。ご婦人は会釈をして教へられた方へ歩いていった。その後ろ姿を見送りつつ、私は隣でにやつく色男に問うてやる。
「ヲイ、なぜ嘘を教へた?」
「嘘だって?」
 鏡月はいかにも心外だと言はんばかりに首を振った。
「嘘なもんか。ちゃんと正しい道を教へたさ。」
 さう言ひつつ、鏡月はあの独特の顏でニヤと笑ふ。私は肩をすくめ、遠ざかり行くご婦人の後姿を見やった。鏡月が教へた道は確かに違ってゐたのだ。そのとほりの道を行ってもたどり着くことは出来るが、いささか遠回りであるし、第一、ご婦人が一人で歩くには少々寂しすぎる場所を通らねばならない。
「お前は本当に惡戯者だな」
 私が呆れたやうに言ふと、鏡月はさもをかしさうに笑って答へた。
「さう思ふならなぜさっき『それは遠回りです』と言はなかったんだい?
 君も僕と同罪だ、責めるのは無しにしようぜ」
 ……確かに。ぐぅの音も出ぬ。
 我々はしばらくの間、彼女の清楚な後ろ姿を見送ってゐた。その姿がマッチ棒程度になった頃だ。鏡月が急に私の袖を引いて歩き出した。例のご婦人が行く道を、だ。
「やぃやぃ、どうしたんだ?」
 私が問ふと、彼はクックと笑ひをもらして先を行くご婦人を指さす。
「まぁ、黙って歩けよ。何か面白いものが見られるかもしれないぜ?」
 私はぞくっとした。まさか、この男はわざとご婦人に寂しい道を教へて、彼女をどうにかするつもりぢゃあるまひな、と思ったのである。だが私は、すぐに、自らその考へを打ち消した。鏡月がその氣になればご婦人をたぶらかすことなんて朝飯前だ、いちいち襲ひかかるなどと面倒なマネはするまい。


筆が乗ってきたようだ。
このまま一気に書き進めよう。


 五、六分も歩いた頃だらうか、先を行くご婦人が角を曲がった。姿が見えなくなると、私たちはちょっと顏を見合はせて、無言のまま足を速めた。我々が角にたどり着いた、まさにそのときだ。
「キャア!」
 絹を裂くやうな悲鳴。女性の声だ。ハツと鏡月を見ると、彼はすでに走り出した後であった。なんといふ素早さだらう。私は大いに慌てて彼の後を追った。角を曲がるとその場の光景が目に飛び込んできた。十歩ほど行った所でご婦人が座り込んでゐる。白い日傘は放り出されたのか、電柱の足元に転がってゐた。駆け寄ってみると、彼女は両手で顏を覆ひ、何か恐ろしいものを見たかのやうに慄ゐてゐた。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
 いち早くご婦人に駆け寄った鏡月が優しい手つきで彼女を抱き起こす。彼女を助け損ねた私は、一歩離れた所で立ち止まった。
「今、今……」
 ご婦人はガタガタと震へながら日傘の方を指してゐる。ちゃうど手持ち無沙汰だった私は、日傘の方へと近づいていった。
「待て、山代!」
 私を呼ぶ鏡月の声が背後から飛んでくる。半ば振り向きながら、日傘を拾ひ上げた瞬間だった。

……―― ガッ!!

 『何か』が私の手を掴んだのだ。私はギョッとして掴まれた辺りを凝視した。何も見え無い。私の手を掴む者などまったく見あたらぬはずなのに。それなのに、紛ふことなき『手』の感触がガッチリと私の腕を掴み止めてゐた。


ますます筆が乗ってきた。実にいい感じだ。


 息を飲む。視界の真ん中で何かが揺れたのだ。目をしばたかせるうちに、それはKっぽいもやとして姿をあらはにし始めた。
 目を疑ふ。もやの中に……顏、が浮かんだのだ。正確には顏のやうにも見えるKい染み。それは確かに私を見てゐた。硬直する私の目の前で顏がぐにゃりと歪む。その様は悲しみにも……怒りにも似てゐた。傘を放り投げようとして、私は再び息を飲んだ。
 動けない……?
 恐ろしいことに、私の体はまるで固まったかのやうにピクリとも動かぬ。必死で動かうとする私の肩を誰かがぐっと引いた。
「うひゃあっ!」
 その途端、私の体は自由を取り戻し、後へ向かってスッ転がった。と同時に、ずいぶんと情け無い声を上げてしまったが、ゐた仕方の無い話だらう。生温い脂汗がどっと出た。謎のもやとにらみ合ってゐたのはどれくらゐの時間だったのか。たぶん数秒だったのだらうが、酷く長く感じられた。
「大丈夫か?」
 いつに無く真面目の声で鏡月が語りかけてくる。私の肩を引いたのは、この男の手であったらしい。鏡月の後ろではあのご婦人が真っ青な顏でこちらを見てゐる。彼らの目にもあの怪異が映ってゐたのであらうか。
「な、何だ、あれは……」
 私は格好をつける氣にもなれず、づりづりと後ずさりで日傘から離れた。鏡月が前に進み出て、ひょいと日傘を拾ひ上げる。私と婦人は思はずアツと声を上げたが、特に奇妙なことは起こらぬ様子だ。私は思はずほっと息を吐いた。
「私、急に傘を引っぱられて……誰かの惡戯かと思ったら、手が、手が」
 ご婦人がわっと泣き出す。何とか聞き出した話によると、どうやら彼女がそこを通りかかったとき、突然、横から傘を引っ張られたらしい。驚いて見ると、壁からにゅっと手が出てゐたと言ふのだ。白い、女の手のやうであったと言ふ。
「幽霊の類だらうな。」
 鏡月はこともなげな風で言った。まるでペンを指してこれはペンだと言ふときの様な口調だ。
「幽霊って……」
 私が絶句してゐると、鏡月はこんな言葉を付け加へた。
「去年からずっとここにゐるんだらうさ」
 あまりに落ち着き払った様子に言葉も無い。私はたっぷり二つ呼吸以上も黙り込んだ後、かう問ひかけた。
「……心当たりでもあるのか?」
 鏡月はフムとだけ言ってチラとご婦人に目をやる。彼女は相変はらず真っ青な顏だが、いくらか落ち着いた様子であった。鏡月は私とご婦人を助け起こすと、急かすやうにしてその場を離れさせた。怪異の現場から少し行ったところに駅がある。我々三人は誰も居ない駅のベンチで休むことにした。
「落ち着きましたか?」
 鏡月が問ふと、ご婦人 −江美子さんといふさうだ− は、胸に手をあて大きく息をついた。
「ええ、大丈夫ですわ。ご親切に。」
 鏡月はその背中をそっと抱くやうにして彼女を氣遣ってゐる。よくよく見れば、江美子さんはなかなかの美人だ。こんな非常時なのに……鏡月はなんといふ抜け目の無い男だらう。うらやま……いや、何でも無い。
 鏡月は私を手招き、自分の隣に座らせてから、次のやうに語り出した。
「覚えてゐるかね?
 去年の六月、ここで事故があったんだ。四輪自動車に子供が轢かれたのさ。
 確か新聞に載ってゐたと思ふんだが。
 酷い雨の日で視界が惡かったんだな。
 車の方が子供に氣づいてブレエキを踏んだときにはもう遅かった。
 飛び出し事故だったといふ記事だったよ。
 子供は傘を持ってゐなくてね。
 土砂降りの中を早く家まで帰らうと走ってゐたんだらうといふ話だ」
 私は江美子さんと顏を見合はせた。では、あのKいもやや江美子さんが目にした怪しい手は、その子供のものだったのか?
「でも……私が見たのは大人の手でしたわ」
 江美子さんが言ふ。どうも得心がいってゐない様子だ。
「さうだな、僕が見たのも子供の顏では無かった氣がする」
 正直なところよくわからなかったのだが、私も江美子さんに賛成しておいた。すると、鏡月はこんなことを言ひ出した。
「そのとをりさ、子供の手ぢゃない。母親の方さ」
 母親が如何したと言ふのか。そろそろ恐怖が薄らいでゐた私は、いささかの興味を覚え、身を乗り出した。
「事故の後、死んだ子供の母親が首を吊ったんだ。
 事故現場……そら、さっきの場所に電信柱があったらう?
 あれに帯紐をくくりつけてヤッちまったらしい。
 子供がろくに前も見ず走ってゐたって噂が流れたからな。
 自責の念からノイローゼになったんださうだ。
 子供が飛び出しをしたのは自分が傘を買ひ与へてやら無かったせゐだ、とね」
 私は思はず日傘に目をやった。さっき鏡月が拾ひ上げたそれは、私のすぐ脇の座面に横たはってゐる。
「傘が、欲しかったのかな」
 ぽつり、私がつぶやく。
「だらうな」
 鏡月が答へる。やがて、江美子さんの啜り泣きが辺りに流れ始めた。
「お氣の毒に……。」
 ややあって、江美子さんがつぶやく。本日は晴天にて、広がる青空には雲ひとつ無い。どこからか蝉の声がする。かの日の雨は如何程だったのだらうか。私は約一年一ヶ月程前の悲しい出来事に思ひをはせた。


山場を書き終えた。
室内には扇風機の羽音と万年筆が滑る音だけが響いている。
この静けさは執筆中の身にはありがたい。


 翌日もよく晴れてゐた。
 私は汗を拭きながら駅前の通りを歩いてゐた。目的はあの怪異現場である。
 向かふ先へと続く角を曲がった私はヲヤと声を上げた。先客がゐる。件の電柱を見上げるやうに、男が一人、佇んでゐるのだ。
「やぁ、山代君ぢゃないか」
 歩み寄った私に笑ひかけたのは、他でも無い、鏡月 宵也その人だった。いつに無く素直な表情である。
「どうしたんだ、こんなところで」
 わざとに聞いてやると鏡月はバツが惡さうに答へた。
「ちょっとな」
 そして、何かを後ろ手に隠す。私はそれ以上は追及せず、ただ少しだけ笑ってやった。後ろに回った彼の手には少々小ぶりな傘が握られてゐる。……たぶん子供用の傘だらう。
「奇遇だな」
 私は自分の持ち物を彼に示した。安物だが、新品の蝙蝠傘だった。鏡月と私は同時に吹き出した。


ここまで書いて、ふと、視線を上げてしまった。
書棚に収まった数え切れない蔵書が目に飛び込む。
一瞬、取り出して読んでしまいたくなるが、堪える。
あと少しなのだから、今は書くことに集中しよう……。


「まったく妙な二人組だな、我々は。こんな晴天に傘なんか持ち歩いて」
 鏡月が言った。
「良いぢゃないか。意味ならちゃんとある」
 私は答へた。
 我々は、二人して電柱の杭に傘をぶら下げて帰ることにした。事情を知らぬ者から見ればきっと意味不明の行動に見えただらう。帰る道々、私はちょっとした惡戯心で鏡月をからかってみた。
「人非人だと思ってゐたが、君もたまには善行を施すんだな?」
 すると鏡月は澄まして言った。
「何を言ってるんだ。僕はいつだって善意の人だ。
 己の損得を勘定に入れず、弱きを哀れみ、慈しみ……」
 私は盛大な爆笑でそれを遮ってやった。
「冗談は四月馬鹿の日にでも言ひたまへ。君にそんな心があってたまるか」
 すると彼はあの独特の笑顏でさらりと言ってのける。
「あるともさ、なんたって僕は温情家だからな」
 氣取った調子がことさらに可笑しく、我々はカラカラと笑ひ声を上げた。
 そのとき。
「あら!」
 聞き覚えのある美しい声がする。声の方に目をやると、あの江美子さんが手を振ってゐた。右手に白い日傘を差し、左手には可愛い真っ赤の雨傘を持って。私は鏡月と顏を見合はせ、頷き合った。江美子さんはこちらに駆け寄って来る。我々もそちらへと歩み寄った。
 正直に告白する。私は密かに今度こそ遅れを取るまいと思ひ、鏡月よりも早足で歩いたのだ。目論見通り、私はいち早く江美子さんの元にたどり着き、彼女に手を差し伸べた。ところが、江美子さんは私の横を通り過ぎ、サッと鏡月の方に歩み寄ってしまふではないか。嗚呼、何たることだ。
「氣が合ひますね、ちゃうど僕も貴女と同じことをしてきたところです」
 鏡月は惡びれもせずに言った。ちょっと待て、『僕も』だと? 違ふ、『僕らも』だ! 私は慌てて訂正させようとしたが、時すでに遅し。江美子さんはマァと頬を染めて鏡月の貌を見上げてゐる。
「お優しいのですわね」
 江美子さんが恥づかしげに言ふ。
「いへ、貴女こそ」
 紳士面で鏡月が微笑む。むむ、これは。私は慌てて「いや、私も……」と言ひかけた。が、私の言葉は取り上げてはもらへぬらしい。二人はさっさと例の電柱の方へと歩いて行ってしまった。何とも酷い話だ。
 何が『自分の損得を勘定に入れず、弱きを哀れみ……』だ。女性関係に対して言へば、私の方が鏡月に比べて圧倒的に弱者である。なぜ哀れみを示さぬのか。自分ばかり得をして、ずるいではないか。憮然と立ち止まる私を振り向き、「自称、温情家」はあの独特の顏でニンマリと笑った。その間にも、彼の右手はしっかり江美子さんの腰に回ってゐる。
 ……やれやれ、かの江美子氏はゐつまで彼の恋人でゐられるものやら。常時七日と持たずに相手を変へるあの男にひっかかるとは、つくづく氣の毒な話だ。
 私は、


ここまで書けば、完成までは後一歩。
残すは結びの一言、何か気の利いた一文で物語を締めくくるだけだ。
「私は〜〜と思った。」という文章と、気候・天気の描写で締めくくるつもりだ。
私は静かに万年筆を置いた。
コーヒーを飲もう。
立ち上がりかけた、まさにそのときだった。
突然、ノックの音が部屋に響いたのだ。
「入りたまえ。」
私が言うと、扉の向こうから返答があった。
「失礼いたします。」
緑色の扉を開けて顔を見せたのは、男子学生と白衣姿の助手である。
私はいささか慌てながら、原稿用紙の上に数式だらけのノートを広げた。
我ながら非常に素早い動作だったと思う。
「また新しい数式のご研究ですか。ご熱心ですね。」
興味深げにのぞき込んでくる学生に、私は努めて温厚な笑顔を向けた。
「お邪魔をしてはいけないよ。」
人の良さそうな助手の青年がやんわりと学生を諭す。
学生は素直にうなずくと、書棚の方を振り向いた。
私の研究室は壁一面が丸ごと書棚になっているのだ。
「しかし先生は根っからの理系人間ですね。」
並んだ背表紙をチラリと見渡して、学生が言った。
「そうかね。」
私は穏やかに微笑む。
書棚に並んだ本、本、本。
それらは一冊残らず数学と物理学の研究書である。
「本当にそうですよ。いつも数式とにらめっこをしておられて。
 もう、先生の脳には人間まで数列か化学式にでも見えていらっしやるんでしょう。」
若い学生は屈託なく笑う。
「いつも数式をご研究なさっておいでなのは当然のことだよ。
 だって教授は、そのお仕事で大学からお給金をいただいているんだから。」
青年助手の柔らかな声音がチクリと痛い。
すみません。
たった今しがたまで別のことしてました。小説、書いてました。
無論、そんなことはおくびにも出さない。
うろたえる代わりに、私は澄ました表情でこう言ってみた。
「いやいや、私は実は文系の人間なのだよ?
 若い時分には真面目に物書きを志したことも……」
私の言葉は青年ら二人の爆笑にかき消される。
「先生、それはいくらなんでも嘘でしょう!」
学生が笑い涙をぬぐいながら言う。
私は一瞬だけひるんだ後、苦笑とともにつぶやいた。
「……そうかね?」
すると、助手の青年がおかしそうに口を開いた。
「さすがに嘘だと思います。」
後を引き継ぐようにして学生も言う。
「先生ほどの人が文系だったら、この世に理系なんていなくなりますよ?
 何といっても最たるものですからね、先生は!」
二人はまだおかしそうに笑みを浮かべている。
私は照れているような、苦笑いのような、複雑な表情。
二人に気づかれぬよう、机の端に乗っていた新聞の切り抜きをそっと隠した。



文芸新人賞 作品募集中

「気の毒な話」を題材とする小説を広く募集する由
募集期限は七月末日まで也
職業作家を志す諸君の力作を応募されたし


残念ながら、この小説が日の目を見ることはなかった。
落選したのではない。
書き上がらなかったのだ。
最後の結びの一行がどうしても思いつかず、私は〆切を逃してしまった。
何とも無念な話であるが、いつまでもくよくよはしていられない。
今日も私は忙しい研究の暇をぬっては執筆を続ける。
次はかねてより所属している『自称、小説書きの集い』の作品募集が迫っているのだ。
募集テーマは「自称」だという。
ちょうどよい。
あの書きかけた「気の毒な話」の小説には「自称、温情家」という言葉が登場している。
エピソードを加えて書き足せば上手く再利用できそうだ。
私はさっそく改稿作業に取りかかった。
万年筆は留まるところを知らず、私の頭からは泉の如くアイデアが……
というわけでもなく、書いては消し、消しては書くのくり返し。
得意の数式を解くようにスラスラとは行かない。
それでも。
私こと、「自称、物書き」の「実質、理学博士」は書くことをやめはしない。
第一章を書いて。
第二章を書いて。
思いなおして第一章を書き直して。
次の瞬間、いきなりラストシーンを思いついて書き留める。
書くことは私の胸に大きな喜びをもたらすから。
だから、書く。
これからも、きっと書き続ける。
この文章を読んでくれた諸君。
諸君も物書きをする同好の士であろうか?
それとも敬愛すべき読むことを趣味とする方々であろうか。
どちらにせよ、諸君に物書きを自称し続ける私の気持ちが伝われば幸いだ。
それでは、またいつかお目にかかろう。
私は諸君にお会いできる次の機会を心から楽しみにしている。
願わくば、諸君もそうでありますように。

−終わり−

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