今夜の月は三日月だ。夜空の真中にぽっかり浮かんだ三日月は、 きつねのしっぽによく似ている。 むかし、おやなぎさんというおきつねがいた。 おやなぎさんは神社のおきつねだ。いつもはお社の奥にちん、と 座って、人間たちが拝みに来るのを待っている。 立派なおきつねさんだ。ときどきうたた寝もするけれど心配はない。 そんなときにはお付きの仔ぎつねたちが、主の代わりに、ちゃあんと お願い事を聞いていて後で伝えてくれるので。 水無月の三日頃のことだ。 おやなぎさんのお社には、お付きの仔ぎつねたちしかいなかった。 おやなぎさんはどこへ行ったのだろう。 お社からしばらく西にいったところに、山がある。人の足ではとても 登れないような険しい山だ。 その険しい山の中腹あたりの崖っぷちに、大きな大きな岩がある。 その大きな大きな岩の上に、おやなぎさんは一匹で腰掛けていた。 根っこのあたりに緑の苔がわっさり生えた、たいそう古い大岩だ。 七年ほど前、おやなぎさんは初めてこの岩を見つけた。山の散歩を 楽しんでいる最中のことだ。ちょうど今夜のような三日月の晩だった。 岩の上から周りを見回すと、遠くの方に小さく村の明かりが見えた。 下の方をのぞいてみると、ふもとの森が深々と緑色に輝いていた。 それまで見た中で一番見事な景色。あんまりきれいで、ついつい、 お月さまを見上げてこーんこーんと鳴いたものだ。 それからというもの、おやなぎさんはほんにしょっちゅうこの岩へと やってくるようになった。月のとくによい晩や、梅や桜が咲いた日や、 ふと物思いに想う日は、いつも決まってやってくる。 大岩は崖の端からせり出すようなかっこうをしていて、乗っかると とても見晴らしがよい。岩の上から周りを見回すと、今でもやっぱり 遠くの方に小さく村の明かりが見える。足下に広がるふもとの森は、 季節ごとの新緑や紅葉に彩られ、色さまざまな織物のようだ。 |
大きな大きな岩の上で、おやなぎさんのしっぽがふわんと揺れた。 七つの三日月を並べたような、きれいなおやなぎさんのしっぽ。 おやなぎさんのおしりには、七本の真っ白いしっぽが生えている。 あと二百年もしたら、九本のしっぽがそろうだろう。おやなぎさんは 『七尾の白狐』なのだ。 今夜のふもとの森は、いつもより濃い色をしているようだった。 むくむく大きくなりそうな黒い森を見つめながら、おやなぎさんは 何かを考えている。おやなぎさんは何を考えているのだろう。 |
おやなぎさんはぴょーいと飛び上がり、自分のお社に帰ってきた。 お社では、お付きの仔ぎつねたちが今か今かと首を長ぁくして、主の お帰りを待っていた。 こーんこーん。 やっと帰ったおやなぎさんに、仔ぎつねたちはどぅっと駆け寄った。 みんな一緒に来るものだから、柔らかいしっぽや手足がからまって ふわふわの毛玉が転がってくるような景色だ。 仔ぎつねたちがあんまりあわてるようなので、おやなぎさんは少し びっくりしてしまったほどだった。 |
お盆といったら葉月の十五日。あと二月と十日ほどの間しかない。 おやなぎさんは、ぶわんとしっぽを広げて天を仰いだ。 人の心は匂いでわかる。おなやぎさんのお鼻に届いた娘の心は、 切羽つまった必死の思いでいっぱいだった。 きっと深い由があるのだろう、本当にこまっているのだろう。 こんなに熱心に拝んでいるのだし、日頃の信心もよい人だ。何とか 叶えてやりたいものだ。仔ぎつねたちも声をそろえて、お力で助けて やりましょうと口添えをする。 おなやぎさんは決心をした。 さんさんさん、涼やかな音を立ててしっぽを振って、おやなぎさんの おからだは青白く光りはじめた。両のお目めがきゅぅっとつりあがり、 金色と朱色にぽっぽと燃えた。 |
あれから、かれこれ何百年。 年若いおきつねだったおやなぎさんも、今では立派なおとな狐だ。 お社も、もっと大きな神社を任されるようになった。昔は七本だった お尻尾だって、とっくの昔に九尾になった。 名前も少し立派になったのだ。『尾柳の狐』なんて漢字で書いたり する。『白狐の臣』なんて呼ばれたりもする。もう狐からも人からも、 尊敬されて拝まれる、立派な一人前の御狐様だ。 だけれども。 毎年、水無月の三日がやってくると、尾柳の狐は決まってどこかへ 出かけていくのだった。 こーんこーん。 あれでよかったのだろうか? 尾柳の狐は、お月様を見上げるのだった。 あの時は本当に決心をして、金銭宝の守りになったのだけれど。 ふと気がつけば、世の中は金ばかりが偉い物のようになっていた。 作物の実りも金に替えるばかり。子を増やすといっても、二、三人の 子どもがいれば、今は十分であるらしい。黒狐殿も赤狐姫もめっきり 暇になったと言っていた。 昔々、狐を祭った小さなお社からしばらく西へ行くと、山があった。 人の足ではとても登れないような険しい山だった。 今ではすっかり様子が変わっている。険しい山にはトンネルが通り、 ふもとから山を突っ切る灰色の道ができあがった。人間たちはみんな とんでもなく速い乗り物に乗って、道をビュンビュンと飛ばしていく。 険しい山の中腹あたりの崖っぷちには、今でも大きな岩がある。 その大きな岩の上には、誰かが座るようなくぼみが残っているのだ。 だが、大きな岩の上に座ると、すっかり様変わりした眺めが広がる。 ふもとに広がっていたきれいな森は、人間たちの町になった。夜に 灯る明かりはきらきらとしてきれいだが、四季折々の美しさとは遠い。 今年もその日がやってきた。旧暦でいうと、水無月の三日である。 あの大きな大きな岩の上に。 美しい九尾をなびかせて、それは立派な白い狐が腰掛けている。 あれから数百年。 かの狐は、いまだ迷いを持っているのだ。 あの時は正しいと思ったことが、本当によかったのだろうかと。 今夜の月は三日月だ。夜空の真中にぽっかり浮かんだ三日月は、 今も昔も、狐の尻尾によく似ている。 |
−終−