三里のつぼに灸据えて、草鞋の鼻緒も付け直し、しばし別れの水の杯。
われらが母御の御ためじゃ。
さあさ、出立、皆の衆。
母御は我らが姫様じゃ。無茶の我がまま、なお愛し。すぐさま叶えてしんぜよう。
急げや急げ、億歩の彼方。揃うて目指せや氷山。
ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ |
地面に落としてやったカチ割り氷に群がる蟻たち。
子供が一人、薄い笑みを浮かべながら、蟻の様子に見入っている。
一匹の蟻は、自分の体よりも大きな欠片を咥えて帰ろうとしていた。
(バカだな、とけたらおぼれちゃうかもしれないのに)
こちらの蟻はちっとも運ぼうとしていない。
よく見ると、氷の表面に溶け出した甘い汁にかじりついているようだ。
(こいつなまけものだな、ようし、おしおきだ)
子供は怠け者をつまみ上げ、ふぅっと遠くへ吹き飛ばす。
「おーい、何やってんの?」
遠くから、子供の友らしき男の子が呼びかけてきた。
「アリとあそんでるー。」
答えて子供はにたりと笑う。
「まぁくん、またアリんこで遊んでるのー? いじめたらだめなんだよー」
駆け寄りながら友だちが言えば、最初の子供は大声を出す。
「いじめてない! アリさんといっしょにあそんでるんだ!」
そうしてすぐに視線を戻す。地面にしゃがみこむ子供の見つめる先には、お気に入りの黒い点。
黒い体躯の小兵どもは、一心不乱、ただひたすらに氷に向かう。
氷は二つの小さな欠片だけ。どちらも半ば溶けてしまい、子供の目には少なく見えた。もっと与えてやろうと、子供はカチ割りの容器を傾ける。群がる蟻たちのためを思い、目を輝かせて。
全身に巨大な氷塊を受け、何匹かの蟻が転げ落ちた。
落ちた蟻たちを優しくつまみあげ、氷に擦りつけてやる子供。だが蟻にとって、子供の指は強すぎた。たちまち蟻の足はひしゃげ、触覚が氷の表面で歪曲した線を描く。比較的元気のあるものはその場を離れようと必死の様子。何匹かは瀕死の有り様で、ひくひくとうごめいていた。
(優しくしたのにアリさんケガしちゃった……)
ほんのつかの間だけ、子供は悲しげな顔になる。
蟻という昆虫は、危険な目に会うと特殊な臭いを出すそうだ。仲間に『この場所に近寄るな』と知らせるための警告臭だという。まだその知らせが行き渡っていないのか、無数の小兵達は氷に群がり続ける。
子供はつんつんと蟻を「なで」た。蟻はそのたびに慌てふためき、逃げ惑う。走り回る姿を喜んでいるものと思い込み、子供は満足げに笑った。気をよくした子供は、くり返し、お気に入りたちを「なで」続ける。
ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ ぞろ …… |
母なる女王蟻のため、幼い子蟻たちのため。
蟻の小兵どもは甘い香りを放つ氷山へと果敢に挑む。
無邪気にも恐ろしい危険をもたらす、巨大生物の足元で。