白 い 犬

―― 2006、戌年の新年に ――


犬。
一匹の白い犬。
そいつに出会ったのは雪が降る帰り道のことだった。
その犬は、少しだけ薄汚れて、少しだけ痩せていた。
たぶん長いこと野良暮らしをしている奴なんだろう。

*

ちょうど雪が積もった細い歩道を歩いているときだった。
夕方をやや過ぎた時間帯のこと。
滑らないように気をつけながら、下を見て歩いていたんだ。
薄暗くなった寒い道を、首を縮めながら。

「わん!」

突然、犬の鳴き声。
弾かれたように視線を上げたらそいつがいた。
中くらいの白い犬だ。
たぶん雑種。
日本犬らしいフォルムのそいつは、びっくりした顔で俺を見ていた。
全く想定外の出来事。
こちらの進路をふさぐようにして立つ、一匹の犬。
この遭遇は全く予期せぬ出来事だった。
向こうもそうだったんだろう。
そいつは本当に真ん丸い目でこちらを見上げていたから。
きっと犬の方も下を見ながら歩いていたんだ。
裸の足が冷たくて、足早に歩いていたのかもしれない。
そして、何かの拍子に顔を上げたんだろう。
そうしたら、急に人間の姿が目に飛び込んできたんだ。
だから驚きのあまり、思わず一声吠えたのだ。
わん!、と。
吠える直前まではこちらに気づいていなかったに違いない。
白い息。
きりりと冷たい空気の中を流れる。
白い軌跡は二筋だ。
犬と、人間と。
犬もこっちも、互いに気づいた瞬間の姿勢で固まったまま。
お互いの目を見詰め合う。
まるで時間が止まったみたいだ。
なんだろう、この緊張感は。

突然現れた見知らぬ犬。
首輪もしていない。
人間に慣れている様子もない。

犬にしてみれば、見知らぬ人間。
きっと、かぎなれない匂い。
たぶん伝わっている、警戒している気配。

お互いがお互いに驚き、緊張した表情で見詰め合っている。
白い息。
犬の息遣いが見える。
この犬、もしかしたら噛み付いてくるかも。
そんな不安がチラッとよぎる。
犬の方でも『この人間、何かするんじゃないか』なんて思っているのかも。
一匹と一人の間で張り詰める空気。
動けない。
どちらも動けない。
何分くらいそうしていたのだろうか。
いいかげん、この状況にも慣れてきたころ……。

たし、たしたしっ!

「おぅっ!?」

うわ、びっくりした!
足音を立てて犬が数歩近づいてきたんだ。
びっくりしすぎて思わず「おぅっ!?」とか言ってしまった。
犬の方もものすごく驚いた感じで立ち止まっている。
絶対こっちの声にびっくりしたんだ。
もう一度、一匹と一人で向き合う。
でも、さっきより少しだけ動きがある。
犬はこちらをうかがいながら少しずつ足を動かしている。
こちらも犬の様子をうかがって、いつ動き出そうかと身構える。
どうやって犬をやりすごそうか。
犬の向こうに続く道を行かなければ、家には帰れないんだ。
どうにかして犬の横を通り抜けなくちゃ。
そうだ。
犬だってこっちの後に続く道を通りたかったんだろう。
邪魔な人間が立ちふさがっていることを迷惑がっているに決まってる。
お互い様なんだ。
だったら、変に身構えずに通り過ぎればいいのかもしれない。
そうしたら意外と自然に通れるんじゃないか。
そう思ったら、ふっと力が抜けた。
気のせいだろうか。
犬の方も、ふっと力を抜いたように見えたんだ。
ゆっくり、ゆっくり。
犬を脅かさないように気をつけながら、道の端っこギリギリまで動く。
じわじわと動きながら犬の顔を見る。
向こうも見ている。
よく見れば可愛い犬だ。
ファニーフェイス。
美形じゃないけれど、面白みがあるというか、味のある表情。
落ち着いてみればビビるほどの相手じゃなかったんだ。
体も小さいし、それほど荒々しい犬には見えないじゃないか。
よし、よし。
心の中で声をかけつつ、そうっと前に踏み出した。
犬は動かない。
きょとんと首を傾げてこちらを見ているだけ。
犬に近づく。
犬はこちらを見ている。
さらに近づく。
黒くぬれた色に光る犬の瞳。
通り過ぎる。
バイバイ、犬。
こっちが通り過ぎた瞬間、犬がフッと息をついた。
あはは!
ホッとしたって感じだ。
うん、こっちもホッとしたよ。
意味もなくにらみ合っちゃってゴメンな、犬。

「わふっ。」

ワンとまではいかない、気の抜けた鳴き声。
犬はそっぽを向いた。
ぱち、ぱち、まばたきをしている。
犬の横を過ぎて一歩、二歩、前へ。
顔を後に向け、犬を視界に入れたまま足を進める。
ちょっと立ち止まる。
すると、犬はくるっと首を回してこっちを見た。
なぁに?
なーんて、さっきまでとは全然違うテンションで話しかける。
心の中でだけれど。
一瞬目が合った。
犬はすぐにまた向こうを向いてしまった。
そのまま、犬は歩き出した。

たし、たし、たし、たし。

乾いた足音を立てながら歩き出す白い犬。
すっ、すっ、すっ。
目立つ足音も立てずに歩き出すマフラーをした人間。
携帯電話の時計を見たら、けっこうな時刻になっていた。
犬と出会ってから30分くらいは経っているみたいだ。
何だかなぁ。
犬もこちらも、なんでこんなに長いこと固り合っていたんだか。
ちょっと歩いてから振り返ってみた。
犬も振り返っていた。
バイバイ。じゃあな。

*

同じ道を今歩いている。
この帰り道に、もう犬はいない。
白い犬だった。
少し薄汚れた感じがしていた。
あの犬は今どこにいるだろうか。
背中の方から、年賀状を配る郵便配達のバイクに追い越される。
賀正。
明けましておめでとうございます。
年も明けてしまったけれど、あの犬はどうしているだろう。
寒い思いをして震えているんじゃないだろうか。
お腹は空いていないだろうか。
野良だったと思う。
自分で餌を探して生きている奴だと思う。
なかなか味のある、愛嬌のある顔の犬だった。
そいつは驚いた表情でこちらを見ていた。
通り過ぎた瞬間、ホッとしたように息を吐いていた。
今、どうしているんだろう。
潤んだ丸い瞳を。
くるりとしたしっぽを。
ピンと立った三角の耳を。
寒い空気の中、白い息を吐きながら思い出す。
今年は戌年だ。
あの犬に教えてやりたい。
今年はお前の年だ。
もう一度会ってみたい。
今度は笑いかけよう。
声もかけてみたいんだ。

この前も会ったな。
お互いびっくりしたよな。
犬のお前にはわからないだろうけど、新年なんだよ。
元気に生きろよ。こっちも元気にやってくよ。

それからこんな挨拶もしたいんだ。
ワン! 明けましておめでとう、犬。また会おうな! ……と。


A happy new year!!

EXIT  TOP


inserted by FC2 system