男が、たたずんでいる。
堅固にして尊大な印象を与える城の楼閣に、ただ一人たたずんでいる。
彼のまなざしは遠く地平のかなたを見つめていた。
はるかに薄紫の霞みかかるあの向こうに、血を分けぬ兄弟達がいるのだろうか。
「雲長どの。」
背後から字を呼ばれた。
振り返ると、旧知の友であった。
「文遠どのか。」
文遠と呼ばれた男は、静かに歩み寄ってきた。
そして、どこか辛そうな表情を見せながら、言った。
「貴殿に命を救われた。返したつもりだ、恩も……、」
その後は口をつぐんだ。
最初の男は、静かに微笑んだ。
「これで消えた。恩も、貸しも。これで互いに楽になり申した。」
そう言って、また遠くを見つめる。
文遠は、男の言葉にかすかにうなづいた。
しばし、沈黙の時があった。
「義兄嫁殿と貴殿の命、お助けできた。
……主と離れ生きる重さ、お返しできた。」
ぽつり、ぽつりと、文遠という男が言葉をつむぐ。
たたずむ男は、ただ静かに地平を見つめていた。
風が、そよそよと吹く。
頬をなで、朝の匂いを運びゆく風の心地よさ。
ふと目を細めて、隣に並び立つ友と視線を合わせた。
「どうしても曹操様にお仕えする気はないのか。」
文遠は、真剣な瞳で問うてくる。
「無論だ。この命、義兄、義弟とともにある。」
男はさわやかに笑った。
風が、そよそよと流れていく。
風で運ばれてくる砂埃に迷惑顔をしつつ、文遠が口を開いた。
「貴殿の義兄、見つかったそうだ。」
とたんに、男の眼がかっと見開かれる。
食いつくように詳細を問うと、男は飛ぶように楼閣を駆け下りていった。
「おい、誠か? して、兄者は何処に!?」
知らせを持ってきたという男の胸倉をつかまんばかりの勢いで、詳しい事を聞き出す。
男は人が変わったように動的である。
先ほどまでの静的な面差しは、うって変わって生気に満ちていた。
瞬く間に、仕度が整えられる。
義兄の妻を馬車に乗せ、自分は赤い名馬にまたがった。
「曹操殿、大変お世話になり申した!
このご恩は決して忘れぬ、天に誓いまする。
このたび義兄、劉玄徳の消息が知れましたゆえ、お約束どおり、
おいとまを申し上げる!!」
朗々と響く大音声。
城の門を出たところで、城内にむかって叫ぶ。
喉も裂けよとばかりの大声に打たれながら、身分のある服装の人物が苦い顔をする。
どうやら、この男が曹操という姓名の人物らしき様子である。
その隣に走りこんで来た隻眼の男が、「馬を引け」などと怒鳴りながら駆け戻っていった。
急がねば、あの隻眼の武将がやってくるだろう。
男は馬首を返し、馬車と共に大急ぎで城を離れた。
結果的に、逃げるように立ち去ることとなった。
追われる道筋は楽ではない。
曹操は黙って送り出してくれたが、その配下の者達はそうではなかった。
しかし、苦しくはない。
この先に待つものを思えば、楽ではなくとも胸躍る心地がした。
千里の道を行く。
心は体を通り越し、羽が生えたように飛び駆ける。
ときおり馬車の女達を気遣いながら、男は馬を走らせた。
白々と明るんでいた早朝は、すでに過去となりかけている。
やがて高く日が上る昼になり、夕暮れになり、夜を越えてまた朝が来る。
千里の道は遠く続く。
それでも馬足はあいかわらず軽く、気ははやるばかりだ。
このとき千里を駆け抜けた馬は、後に男の無二の愛馬となる。その名は「赤兎」。
義兄にまみえる瞬間を脳裏に浮かべながら、嬉々として男は駆け続けた。
古びた緑色の衣と、何より目立つ長い髭の持ち主。
美丈夫であったという。
身の丈八尺をゆうに超えていた。現代で言えば二メートルもの大男だ。
その男の姓名は関羽、字は雲長といった。
後の世に名高い蜀の英雄、桃園三兄弟が次兄・関羽の若き日の出来事である。
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