「あれ見て、あの青空!」
とつぜんの声に驚いて顔を上げると、一歩ほど前にいた君が空を指差していた。
指の先には空がある。
やけにくっきりした色彩の晴れ空だった。
真っ白い雲、濃い青の空、まるで夏空のように。
(あぁ、本当に青い。)
そう思った。
次の瞬間、俺はまったく無意識のうちに下を向いていた。
視界のほぼ全てが路面で埋まる。凍てついたアスファルトとつま先だけの景色。
そこで初めて気がついた。
ああ、俺はいつも、下を向いて歩いていたのか、と。
「すっごい晴れ方だよね?」
君の声が間近に聞こえた。
慌てて顔を上げると、君はくるりと振り返って俺の方を見ている。
「うん、夏みたいな色だね。」
ちょっと動揺しながら笑顔で答えた。
「ねー。」
君は同意見を確かめるように言って、にこにこと笑う。
(君には、いつも空が見えているの?)
心の中だけでつぶやく。
空の青さにすぐ気づく、そんな存在がまぶしい。
俺には空が見えていなかった。
俺は今、空の青さに気づかなかった。
後悔にも似た苦しさを感じながら、俺はまた路面に視線を落とした。
下を向いて歩くことが良いとは思えない。
「下を向く」という行動自体が落ち込んだ時のポーズ。
第一、下ばかり見て歩いたのでは前が見えづらくて危ない。
実際のところ、そのせいで車にひかれかけたことが何度かあるほどだ。
けれど。
俺の首は自然とうつむき、視界は地面で覆われた。
そうした方が楽なのだ。
いや、楽というよりしっくりくると言った方が実感に近い。
これこそが俺にとっての自然な行動。あるがままの俺の姿。
そんな実感がある。
嬉しくはない。けれど、無理やりに変えてはいけない気がする。
足元を見て歩く。
流れゆくのは濃灰色のアスファルト。
そして規則正しく動く自分の足が見える。右、左、右、左、地道な足取り。
ふと、水たまりに気がついた。
道の端っこにできた小さな湖には薄い氷が張っている。
誰かが踏み壊したのか、氷の一部が割れて黒い水面がのぞいていた。
通り過ぎる瞬間。
水面に空が映った。
色濃い背景に浮かぶ真っ白い雲のコントラストが。
(あ、俺にも、空が見えたよ。)
誰に言うでもなく、胸の内で小さくつぶやく。
浅黒い俺の頬にかすかな笑みが浮かんだ。
振り仰いで見上げた空は白く煙り始めている。
真夏のような濃い青から、白く濁る薄青の空へ。
うっかり季節を間違えた空が正しい姿に変わろうとしているかのようだ。
冬のさなか、ふいに現れた刹那の夏空。
今、幻のように姿を消していく。
俺はまた視線を地に落とし、君の後ろをゆっくりと歩き続けた。
* * *
「あ……。」
後ろから小さな声がした。
振り返るとあなたは足元まで身をかがめていた。
右手を地面に伸ばして何かを拾っている。
「なぁに?」
ひょこりと近づきのぞいてみると、あなたの手の中にはちょっと汚れた百円玉。
「お金拾っちゃった。」
あなたはちょっと困ったように眉を寄せて笑う。
「そんなの落ちてたー? 気づかなかったぁ。」
そう笑って言ったら、あなたはこう応えた。
「ああ、上見て歩いてたからじゃないか?」
あ、と思った。
そう言われてみれば、自然に視線が向かう先は前方、ちょっと上寄りの辺り。
ちゃんと前を見て歩いてはいるけれど、視界に入る範囲はいつも空の近くだった。
初めて気がついた。そうか、私はいつも、上の方を見て歩くクセがあるんだ、と。
『 涙をこぼさないように上を向いて歩きましょう 』
そんな意味の歌が流行ったのは、私の親よりもっと古い時代の話。
あの歌を聴いたのはいつだったか。
昔々は泣き虫だった私。
些細なことで泣きそうになったある日、本当に上を向いてみたんだ。
そうしたら涙は目の中にたまって零れ落ちなかった。
(これはいい!)
そう思った記憶がある。
もしかしたら、上を見て歩くクセはそのことと関係があるのかな。
顔を上に向けるのと視線だけ上を見るのとではずいぶん効果が違いそうだけれど。
上を向いて歩くのは私が泣き虫だった証拠なのかもしれない。
そう考えていたらバツが悪くなって、私はあなたに背を向けた。
ちょっと恥ずかしくて頬が赤くなる。
口をへの字に結んで、白い息を吐きながらサッサと歩く私。
背中の向こうからは、悠々とした歩でついてくるあなたの気配。
「あ!」
またあなたの声がした。
振り向こうとした瞬間、何かに足を取られて転んでしまった。
あなたは慌てて助け起こしてくれる。
それから、困惑した表情で私に言った。
「何で避けないの? こんなでかいトラップ〜。」
あなたの視線を追って私も足元を見たら、道路に変なぼろ布みたいなものが落ちている。
これが足に絡まったのねー。
まったくもう、危ないったら。
「ちゃんと足元も見てあるかないと。」
あなたは苦笑いして私の足首を気遣う。
そうだね、あなたはちゃんと足元を見ている。
私と違って着実な歩み。
下を見ていたって涙をこぼすこともないのだろう。
そんなあなたがちょっとだけ素敵に思えて嬉しくなる。
同時にちょっとだけムッとくる。
なぜ、ムッときちゃうんだろう?
きっとうらやましいんだろうなぁ、私。
自分と違う人だから。
でも、私は自分も好きだ。
上を向いて歩く自分が好き。
ときどき足元がお留守になって、スッ転んだっていいよ。
さっと起き上がってまた歩けばいい。
さぁ、上を向いて。
私はまたさっさか歩き出す。あなたの一歩前を、鼻歌なんか歌いながら。
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