2月20日 曇り 手術してくれた先生が驚いていた。 弾が通ったのは心臓のすぐ近くなのに何も傷ついてない、 臓器や血管の隙間を、まるで、狙って通したみたいだ、 と言っていた。 『信じられない幸運』だそうだ。けれど……。 よかったことが一つだけある。 また彼に会えたこと。 他人のようなふりをしたのはなぜ? 私のこと、忘れていたわけではないと思いたい。 覚えていたのに知らないふりをしたのなら、やっぱり……。 コサージュをずらしてくれたこと、気になっています。 撃たれた場所、最初にコサージュを留めた所だと思うから。 金具が邪魔だったのではないかしら。 あの時、彼の手が私に触れて、とてもうれしかった。 お医者様が言ったのとは別の意味で、信じられない幸運。 傷が痛い。痛み止めが切れてきたのだろう。 私が考えている通りなら、痕が残ってくれたらうれしい。 勝手な思い込みだろうか、彼は迷惑に思うだろうか。 | |
事件の一週間後、美奈子の面会謝絶が解かれた。 美奈子の体はずいぶんと早いペースで回復したのだ。 幸いにも当たり所がよかった、というのが医者や警察関係者の見方だった。
病室に見舞い客がやってきたのはその日の正午過ぎだ。 客は少年。ちょうど、美奈子と同じ年頃だった。 少年が入ってきたとたん、美奈子ははっとした表情で目を見開いた。
「やぁ♪」少年は明るく言って片手を挙げる。
「青木くん……」つぶやいて、美奈子は花のような微笑みを浮かべた。 澄んだ瞳には今にもこぼれ落ちそうな涙。
「ひっさしぶりー! って、この前結婚式の日にも会ったけどさ」少年はベッドの横に座るとにっこりと美奈子に微笑みかけた。
「こんにちは……」美奈子もゆっくりと微笑む。 その微笑みはここ数年間に彼女が見せたの中でもっとも華やかなものだった。
「傷、どう?」少年の問いかけに静かにうなずき、美奈子はもう一度笑って見せた。 それから二人は世間話をし始めた。 たわいもない話だ。 そのうちに、ふと二人の会話が途切れた。 ほんの少しの沈黙の後、美奈子が少年にたずねる。
「青木くん、今、何やってるの?」少年は一瞬、何のことだかわからないとでも言いたげな表情を作った。
「仕事、とか……。高校には、行ってないんだよね?」美奈子が言葉をつけ足す。
「テキトー! 毎日、好きにやってるよ」そう言って、少年は笑った。 明るい、明るい笑顔だった。 美奈子は戸惑いの表情を浮かべながら、小さな声で彼の言葉をくり返す。
「あきれた?」少年は肩をすくめておどけてみせた。
「ううん。青木くんらしい……」美奈子はそっと目を伏せる。 また、しばしの沈黙。 お互いに一分ほども黙っていただろうか。 美奈子は、意を決したように視線を上げた。
「……青木くん、なの?」声はかすれた。
「……ん?」少年は片眉をちょっとつりあげて、不審げな顔をする。
「私を撃ったの、青木くんなの?」前置きをつけ加えて、美奈子はもう一度問い直した。
「何で?」少年は両手を肩まであげ、大げさに『WHY?』のポーズ。 美奈子はまたうつむき、唇をかんだ。
「助けてくれたのかな、って……」白い指がシーツの端をぎゅっと握る。 強く、強く。
「んー?」少年は半笑いで眉をきゅっと寄せて見せた。 表情豊かな少年だ。
「手術してくれた先生が驚いてた。 本当に心臓のすぐ近くなのに、大きな血管も、神経も、一つも傷ついてないって。 小さな隙間を、まるで、狙って通したみたいだって。 信じられない幸運だって」美奈子の声が無機的な景色の病室を流れる。 少し間。 少年はふっと噴き出すように笑った。
「そんなこと! オレだとしても、ヤリマシター、なんて言えると思う? 銃でしょ? 銃刀法違反。それより何より殺人未遂。捕まるじゃん」少年は言葉を切った。 と、同時に。 彼の人差し指がすっと上がる。 美奈子の見つめる先で、真っ直ぐ伸びた指は彼自身の唇にあてられた。 ニヤリ。 不敵な笑みでナイショのポーズ。
「…………ありがとう……」美奈子はちょっとだけためらってから、そう言った。 感謝の言葉に答えることはせず、少年はイスから立ち上がる。
「そろそろ帰る。お大事に」髪をかきあげる少年。 彼はひょいとマフラーを首にまいて出口に向かった。
「私……っ!」唐突に、だった。
その背中に美奈子が声をかけたのだ。 部屋を出ようとしていた少年は、ドアの手前で立ち止まった。
「私、嫌だったの。結婚なんか、したくなかった」少年は背中で聞く形。 微動だにしない。 ただ、沈黙。
「好きな人がいたの。本当は、私……」美奈子の言葉は少しだけ震える声で。 まばたきを忘れた瞳からは、一筋の涙。 これ以上は言葉にならない。美奈子は崩れるように顔を覆った。
「……あのさ」振り返る少年。
「死ぬとこだったの生き延びたんだから。 拾った命でしょ? 好きに生きなよ。今度は自分の好きに生きたらいいよ」それだけ言って、彼はにっこりと笑った。 泣きぬれた顔を上げて美奈子は無理やり微笑もうとする。 何とか作れた、ぎこちない笑顔。
「……青木くんは、強いね」泣き笑いのままつぶやく。
「そう?」少年は肩をすくめる。
「じゃ」片手を挙げて別れの挨拶。少年は再びドアの方を向いた。
「さようなら」美奈子は彼の背中に声をかけた。 少年が去った後も、美奈子はドアを見つめ続ける。
「……誰にも、言わない……。誰にも、言わない、から……」花びらのような唇からもれたのはこんな言葉。 美奈子は少年を見送っていた。すでにドアの向こうに消えた姿を、いつまでも。 とめどなく流れる涙、ぽろぽろ。 暖かい滴はいつまでも止まらない。
「さようなら……」そっとつぶやく。
2月27日 快晴 病室に彼が来た。 彼は明るく鮮やかな紺色のマフラーをしていた。 ビビットなウルトラマリンブルーがとてもよく似合っていた。 今、何をしているのか聞いてみた。 例えば、どんな仕事、とか。 「毎日好きにやってる」 そう答えて、彼は彼のように笑った。 『彼のように』だなんて変な言い方。 でもそれしか思いつかない。 何かに例えるなんて無理。彼は彼でしかない。 彼は肯定しなかったけれど、否定もしなかった。 彼はああいうことを仕事にして生きているんだろう。 信じられない非現実的なこと。でも現実。 ずっと抱えていたことを彼にぶつけてしまった。 「拾った命なんだから、これからは好きに生きたらいい」 結婚なんてしたくない、逃げ出したい。 でもそんなことできるわけがない。 彼のようには生きられない。 この日記は燃やしてしまおう。彼が疑われないように。 私は何度も彼について書いてしまったから。 二度と会えない気がする。 でも、いつかまた会えたら、と思う。 また会える日まで、元気でいてね。 どうかまた会えますように。 さようなら。 | |