つれてこられた町は僕らの住むところから軽く3時間はかかるところだった。 特急列車と各駅停車での長い旅。 道理で珍しくバッグを背負っているはずだ。青木は弁当がわりのサンドイッチ持参だった。 僕はキヨスクでおにぎりを買って腹ごしらえ。 こんなに時間がかかる場所だなんて聞いていない。正直、最初の段階からぐったりだ。
雪がちらついている。 駅からバスに乗って約15分。 目的地は閑静な住宅街だった。 珍しすぎて雪降っちゃった、と青木が笑う。
「ほんと珍しいわー、撃つ必要ない依頼」“ウツ”という単語が耳障りだ。 僕はあえてそれには触れず、目的の家を探すふりをした。 目的地は工房と一体型の住居だそうだ。 現代的な住宅が多い中で、はっきりと目立つ昔風の木造家屋だという。
きょろきょろしながら歩いていると前方に何やらにぎやかな一角があった。 何かの店の新装開店だろうか、大きな花輪と人垣が見える。
「ん?」青木が声を上げた。
「……」僕らは無言で顔を見合わせる。
「……あれじゃねー?」青木が言う。
「……」僕は無言のまま天を仰いだ。
「すっげ人いるー」青木がうんざりした声を出す。
何ということだろう。 それは明らかに目的の家だった。 黒っぽい、わざと焦がしたような風合いの木で作られた平屋の家屋。 白や黄色、灰色など色とりどりの新しい家の中ではっきりと目立つ木造の建物。 間違いない。 僕らが探していた家だ。
こっそり外観をうかがうつもりで来たのに、こんなに人がいたのでは近づくのは難しい。 それでも、僕らはおそるおそるその家に近づいてみた。 家の前には車も止まっており、人の出入りが激しい。 さらに近づいてみる。
「回顧展……?」つぶやく。 僕の小声に、青木は黙ってうなずいた。
それはなかなかに盛況な展示会だった。 おそらく、例の故人をしのぶための催しだ。 外壁に大きな手製の看板で男性の人名と“回顧展”の文字が掲げられている。 家の入り口では何人かの関係者らしき人が、訪れた客たちに頭を下げていた。
やや離れてその情景を見ていると、突然、青木が僕の肩を叩く。
「何?」一言で問う僕。 青木はクィっとあごを動かして建物の中を指し示した。
「あれ」その先にいたは妙齢の女性だった。 僕も彼女に注目してみる。 和服の女性。 深々と頭を下げて客たちに挨拶をしているようだ。 綺麗な人だが、特に変わったところは見受けられない。
「ヤヴェエ……」青木がなぜかひどく浮かない調子でそうつぶやいた。 いったい何がやばいんだ。 ……聞きたくない。 僕は不安を隠すこともせず、青木の顔をまじまじと眺めた。
「あれ藻川のお嬢だわ……。ヤヴェー、ドン引き」青木が言った。 その表情からはわずかに血の気が引いて、珍しく緊張したふうに見える。
「モガワ………?」聞き返した僕に対して青木が短く答えた。 組。 ちょっと気になる団体名だ。 まさか。
「……まさかとは思うけど、健全な団体だよな? 建設会社とかだよな?」嫌な予感を感じながら問う。 すると青木はさわやかにこう言った。
「広域指定暴力団・藻川組ですが、何か問題でも?」ヤ ○ ザ 、 キ タ コ レ 。 今度は僕が青ざめる番だ。 穏やかじゃない。 これはもしかしたらもしかしてまずい話なんじゃないだろうか?
「そういうことかー……」青木がつぶやく。 わかりたくないけど薄々わかってしまう自分が嫌だ。
「聞きたくないぞ、どういうことか聞きたくないぞ……」無駄なあがきとわかりながら耳をふさごうとする僕。 その指の隙間から青木がささやく。
「バッチリ狙撃含みのお仕事でした♪ てへ☆」てへ、じゃない。 僕はもう本格的に絶句するしかなかった。
なんてことだ。 今回は小猿をさらうだけ、たいしたことはないと言われてついてきたのに。 狙撃ってなんだ。 撃つのか、撃つ気なのか。 今日は下見だけだから、幸い僕が目撃することはなさそうだが。 これじゃ前と同じじゃないか。
以前、危険な仕事への協力を求められ、某所へと連れ出されたことを思い出す。 あの時は帰りに逃げる手段を失って、正真正銘、命からがらの経験をしたんだ。 そのときの恐怖がよみがえり僕の心臓をキュッとつかむ。
僕は思わず目をつぶり、強く耳を押さえた。 そのわき腹を青木がつつく。 とっさに声を上げそうになりながら、僕はバッと目を見開いた。
「あ!」今度こそ、声が出る。 あわてて口をつぐみつつ、僕はまた青木と顔を見合わせた。 展示会場の入り口付近。 そこに、さっき建物の中にいたあの女性が出てきていた。 彼女の足元には何かがうごめいている。 黒っぽい、犬くらいの大きさのもの。 女性の手から赤いリードでつながれているその生き物は、そう。
「こじゃる」青木が言う。
「あれか」僕も答える。 それは猿だった。 体長は40cmくらいだろうか。小猿と聞いていたが、意外と中くらいの大きさだ。 おとなしそうで、白いオムツのようなものをはいている。 これは思わぬ収穫だ、と僕は思った。 家の場所と外観を確かめに来ただけなのに一番の目的物まで見られるなんて。
そっと青木の顔をうかがう。 やつはどこかキラキラと輝くような瞳で猿を見つめていた。 ……やばい。 これはやばい。 こいつがこういう顔をしているときはろくなことがない!
「ちょっと今盗ってくる!」案の定だ。 とんでもない発言。 あいつはとことことそのにぎやかな会場に向かって歩き出した。 ええい、待て待て待て待て! 僕は必死で青木の腕をつかみ、引き戻す。
「ぼ、ぼぼぼぼぼぼ僕はどうするんだ!」えらくどもってしまったがとりあえず聞く。 ここでこっそり猿を連れ帰ろうなんて無謀だ。 人が多すぎる、きっと見つかってしまう。 すると青木は、にらみ続ける僕の肩をポンと叩き、こう言い放った。
「帰れ☆」ひどい一言にはにっこり笑顔のおまけつき。 なんていい笑顔なんだ。 許せん。 僕はできる限りの抗議をこめてやつをにらみつけた。
「いいから帰れ☆」青木が言う。 思い切り白い目で見てやったはずなのにこのバカときたらちっとも効いていない。 なんてやつだ。 こいつの面の皮は次世代合金の特殊加工か! 僕がため息をつこうとした、まさにそのときだった。
「どうした、ボウズたち」突然、背後から低い男の声がしたのだ。 飛び上がるほど驚いた。 いや、1cmくらいは実際に飛んでしまったかもしれない。
次の瞬間、青木が僕のかぶってた毛糸の帽子をガッとずり下げた。 顔が半分以上隠れる。 前が見えない……と思ったが、意外なことに薄い毛糸の壁はあまり視界をさえぎらない。 もちろん少しは見えにくくなった。 でも、それでも十分に歩ける程度は辺りが見える。 むしろずれてしまった眼鏡の方が問題だ。僕は帽子ごしに眼鏡を押し上げた。 ついでに帽子自体も持ち上げようとする。
「めっ」いたずらっぽく言って、青木が僕の手をつかみ止めた。 それからますます深く僕の帽子をずり下げる。 いったい何のつもりだ? 戸惑う僕の隣で青木は妙に明るく話し始めた。
「これ、何のイベントですかー?」どうやらさっきの低い声の主に話しかけているらしい。 僕は深く深く帽子をかぶったままで声の主の姿を探した。 その男性は僕らの真後ろに立っていた。 渋いおじさんといった感じの人だ。 かっちりと着込んだスーツがお堅いサラリーマン風の印象を作っている。
「ああ、これか。からくり細工の展覧会だ」男の人は意外と優しい口調で言った。 案外、柔らかな話し方をする人だ。
「あのキレーなおねーさんの?」青木がさっきの女性を指差して言う。 あの暴力団のお嬢さまだとかいう恐ろしい経歴の女性だ。
「はは、いや、あの人の師匠が遺した物だ。 お嬢は……いや、あの人は、師匠の腕に惚れ込んでた熱心な弟子の一人でな。 どうだ、少し覗いていかないか?」急な申し出に僕は少しだけうろたえてしまった。 これはチャンスかもしれない。 青木にとっては今まさに潜入しようとしていた場所へのお誘いなのだから。 でも、僕は……。 どうしていいのかわからずに青木の袖をつまむ。 すると、青木は自然な動作で携帯電話をパカリと開き、頓狂な声を上げた。
「あー、でもハジメちゃん、もう帰んなきゃかー! 寄れないねー!」……ハジメって誰だ。僕のことか? ワケがわからない僕に青木が告げる。
「じゃオレは見てくわ。じゃね。バイバイ」意味がわからん。 帽子の下で目を白黒させていると、僕の携帯電話がなった。 某ゲームの起動音。 これはメールの着信音だ。
青木が僕の体の両サイドをサッとつかみ、右を前、左側を後に押し引く。 くるりと一回転。 僕は先ほどの男の人に背を向ける格好になった。
「メール」青木の一言に促され、僕はディスプレイを覗き見る。 そこには青木の名が光っていた。 まったく気がつかなかったが、どうやらあの男性と話しながらメールを打っていたらしい。 確かに電話は開きっぱなしだったが、一度も画面を見ずによく打てたものだ。
本文を確認する。
今すぐどこか遠くに移動して。 『急ぐんで〜』とか言ってここから離れて。離れ終えたらメルして。 |
これは指示だ。 ここに来て、僕はやっと事態を飲み込んだ。
「あ、ぼ……くは急ぐんで、これで」うつむいたままボソボソと告げ、男の方に頭を下げる。 すぐにこの場を離れなければならない。
これは青木の配慮なんだ。 帽子をずり下げたのは僕の顔を背後の男に見せないように。 名前をハジメと呼んだのは僕の本名を悟られないように。 そして今、僕をこの場から離そうとするのはこれから起こす騒動に備えてのこと。 要はあいつなりに僕の身の安全を確保してくれたということだ。 もちろん、足手まといになるから遠ざけられただけかもしれないけれど。
僕は青木と人々のざわめきとに背を向けて、もと来た方に歩き出した。 どのくらいまで遠くに行ったらいいんだろう。 そもそも僕はこの辺りに土地勘がない。 知らない土地をむやみの歩くのは危険だ。 となると、さっき来た道を戻って駅を目指すのが一番の上策だろうか。
とりあえず大きな通りを目指して歩く。 5分も行くと、あの場所へ行くときにも通った少し広い道に出た。 ちょうどバスが止まっている。 行き先を見ると目指す駅名が書いてあった。 これは運がいい。 どうやら思ったより早く駅まで戻れそうだ。
乗り込む車内は暖かい。寒い外とは大違いだ。 相変わらずちらつく雪がうっすらと道路を白く染めていた。 帽子の中で眼鏡が曇る。 座席に腰を落ち着けて、僕はやっと顔を覆っていた帽子をまともな位置までずり上げた。 バスはじわりと動き出す。 一つ目の信号を越えたところで青木にメールを送った。
『バスに乗った。とりあえず最寄の駅方面に向かう』バスの中に貼られたマナー広告に従って携帯の音を切る。
信号でバスが止まった。 早く遠くまで行きたいのに……。 少しだけ焦りを感じたとき、急に僕の携帯電話が震え始めた。 バイブ音は3回鳴っても鳴り止まない。メールではなく通話だ。 少しあわてながら電話を開くとそこにはやはり青木の名が示されている。 通話ボタンを押すと、いつもと変わらないトーンの声が聞こえてきた。
『やほー。今どこー?』声の向こうにごくごく小さな雑音が聞こえる。 周りに誰かがいて、話でもしているのかもしれない。
「今、信号で止まって……まだ近くのコンビニのとこ」そう答えると、青木はふむふむとわざとらしく応じて黙り込んだ。 再びバスが動き出す。 道を曲がり、さらに太い道路へ。 こちらの道はさっきまでのバス通りにくらべてかなり込んでいるようだ。
渋滞。
たぶん、どの車も雪でスリップすることを恐れて早く進めないのだろう。 思っていたほど早くは駅に向かえないかもしれない。 少し不安になる。 喉の奥からこみ上げるような緊張を感じながら黙ったままの電話に耳を澄ました。 すると、急にガサッと大きな音が響いた。 電話のマイク部分がどこかにこすれたような音だ。
次いで、悲鳴。
「きゃあっ!」甲高い女性の声だ。 続いてもっと高く細い「キーッ!」という声が聞こえた。 猿の声。 瞬間的にそう思う。
電話の向こうは喧騒に包まれていた。 誰かが怒鳴る。 何か硬い物が落ちたようなカランカランという音。 そして雑音交じりの人々の声が遠くに離れるかのように小さくなっていく。
『サル確保ー! 後で合流しよ!』ほどなく、少し弾んだ声であいつが言った。 どうやら走りながら電話をしているようだ。
「どこでっ?」小声で問う。
『いーからそのまま行って!』青木の声がして、ピッと電話が切れた。 どきどき、動悸が激しくなっていく。 いったいどうなったのか、あいつはちゃんと逃げられるんだろうか、僕は無事に帰れるのか。 不安な僕を乗せたまま、バスはじりじりと進む。
「もっと急げませんかぁ? 時間ないんですけどぉ」迷惑そうな女性の声に目を上げると、乗客の一人が運転手さんに話しかけているところだった。
「いやー、雪ですからねー。ちょっと進まないですねぇ」運転手らしき男性の声がそう答える。
どこまでも灰色が続く空、冷え込んだ今日。 ちらついていた雪はますます勢いを増し、うっすらと積もり始めていた。 大きなフロントガラスの向こうを見るとずいぶん先まで車の列が続いている。 きっと、どの車も普通の速さでは走れないのだ。 極限までの低速走行。 都会の雪は簡単に道をふさぐ。 雪国の人ってどうしているんだろう。 たまに見るニュースでは真っ白の道の上でも普通に車が走っているのに。
外は人もまばら。 さっきのバス停で降りたらしい人が何人か見えるだけだ。 進まない車内で僕は小さくため息をついた。
そのとき。
誰かの怒鳴り声が聞こえた。 いや、聞こえた気がした。 ほんのかすかな音だったが大人の男の声だと思う。 たぶん、後ろの方から。
何かと思って窓越しに外を見やると、遥かに遠い歩道の上で見覚えのある人影がちらりと揺れた。 青木だ。 ずいぶんの後ろの方だが、青木がこのバスを追うように走ってくる。 濃淡の灰色と濃い青でまとめた服装は特に目立つところもないが、アッシュグレーの髪の毛はかなり目立つ。 黒や茶の頭をした人々の中で一人だけ明るい灰色の髪はまるで主人公のように彼を見分けさせた。
豪快なストライドで走ってくる青木。 その姿はみるみるうちに大きくなって、あと数分もすれば僕らに追いつきそうだ。 いくら何でも徒歩が車に追いつくなんて、と思いそうだが実際はそうでもない。 だって、街路樹に覆われた歩道には雪がないから。 あれなら滑ることもないし、きっと当たり前の速さで走れるだろう。
前方を見る。 列を成した車の群れはちっとも動こうとしない。 たまに思い出したようにじわりと先へ進むだけで、またすぐに止まってしまう。 完全なる渋滞。 これなら俊足の青木が追いつくことも無理な話ではなさそうだ。
また斜め後ろに視線を戻す。 青木よりもっと後ろに、全速力で走ってくるらしい黒っぽい服の人影が見えた。
ごくりと息を飲む。
あれはきっと展覧会場にいた人たちの一人だ。 よく見るとその後ろからさらにもう一人、上下とも黒い服の男が走っていた。 追っ手は二人いたのだ。 たぶん二人とも黒いスーツ姿。 青木とスーツマンたちの間はわりと離れているが、とても巻いてしまえる距離ではなさそうだ。 彼らの姿はぐんぐん僕の居場所に近づいてきて、ついに顔が見分けれられるほどになった。 青木の肩に黒っぽい塊が見える。 手から赤いひものようなものが伸びていて、青木の手と黒っぽいものをつないでいた。
あれは小猿だ。
そう理解した。
途端に。
ばくばく、心音が響く。 僕の心臓が急に存在を主張して、口から飛び出んばかりの音を立て始めた。 怖い。 顔は見られていないはずなのに、脳の奥から『見つかるのではないか』という声がする。 見つかりたくない。 帽子を脱いでマフラーをはずす。 こういったものを取るとだいぶ服装が違って見えるはずだ。
落ち着いて。落ち着いて。
深呼吸をした。 いくらか鎮まってきた鼓動の中、僕はほんの少しだけ窓を開ける。 外の音が聞こえた。
「待てゴルァーッ!」怒号。遠く聞こえるこの声は追っ手のものか。 数秒遅れて、キーッキーッとかすかに獣の声のようなものが聞こえてきた。 青木はもうバスから数mの距離にまで近づいている。 何度か後ろを振り向き、首を縮めたり、一歩ほど横っ飛びに飛ぶ様子が見えた。 何だろう、不自然な動きだ。
「ガキが、止まりやがれ!」怒号に続いてパンと乾いた音がした。 青木が横にすっ飛ぶ。
また、心臓が跳ね上がった。
あれは。
あれは銃声だ。 以前、青木が銃を撃つ練習に付き合ったことがある。 ごく普通のホビーショップの地下に練習場があって、彼はそこで愛銃の調子を見ていた。 乾いた発砲音はイメージしていたのとは違い、ひどくチープでつまらない音で。 その音が。
パン!
また鳴り、青木が振り返る。 こんな街中で撃つなんて! 僕は他人事ながら、発砲した人のことが気がかりになった。 こんな人目のありそうなところで撃ったら、普通に考えてまずいんじゃないか? 通報されるに決まってる。 というか、僕なら通報する。
パン!
もう一度、あの音。 危ない! 僕は食い入るように青木を見つめた。 視線の先で青木が振り向き、体を完全に後ろに向ける。 そのままト、ト、ト、と後ろ歩きで進む青木。 何をやってるんだ、そんなんじゃ追いつかれてしまう!
―― 走れ!
そう念じたとたん、青木が宙を舞った。
「……!?」無意識に息を吸い込んで、僕のヒュッと喉が鳴る。 足を、滑らせた。 そう思った。 つるりという効果音が聞こえそうなほど、青木の足は見事に滑った。 もしかしたらそこだけが凍るか何かしていたのかもしれない。 嘘みたいに勢いよく足が上がった。 両足が完全に浮き上がり、上半身が後ろに倒れる。 まるで漫画みたいだ。 膝下が頭より高く上がるほどの見事な転倒。こんなの見たことがない。
コンマ数秒の刹那に僕はいろいろなことを考えた。 このままなら確実に背中から着地する、とか。 確かにそんな姿を見てみたいとは思っていたが何も今転ばなくったって、とか。 できるものなら転ぶ前に時間を巻き戻してやりたい、とか。 それはほんの数秒の出来事だった。 あれっと思ったのだ。 宙に浮いた体が思った以上に高く飛び上がっていることに気づいたから。
パンパンッ!
さっきよりずっと小さい音が鳴る。 次の瞬間、やつの体はくるりと空中で一回転した。 そして、スタッ、と着地。 驚いた。 転んだというよりは後方宙返りだ。 足を滑らせたように見えたのは間違いだったのか? わざと飛び上がって、空中で回って見せたとしか思えない。
僕はそこでやっと追っ手の方に目を向けた。 ……? 様子が変だ。 1人は肩の辺りを押さえて地べたをごろごろと転がっている。 もう1人は後ろに引っ張られたかのようによろめいて、そのまま仰向けに倒れた。 僕が青木に目を奪われている間に何があった? これでは、まるで。
まるで。
まるであの二人の追っ手が青木に撃たれたみたいじゃないか……。 僕が呆然としている間に青木はどこかへと駆け去っていった。 ゆっくりとバスが進みだす。 雪はいつの間にか止んでいた。 渋滞の道路はじわじわといつもの流れを取り戻しつつある。
10分ほど経った頃、僕は窓の外に再び青木の姿を見つけた。 バス通りからいったん離れていたらしい。 青木は細い枝道からこっちに向かって走ってくるところだった。 小猿の姿は見えない。 たぶんどこかに預けて来たか、バッグの中でも隠しているんだろう。
バスの窓を見上げて、青木はニコッと笑顔を見せた。 どうやら僕に気づいたようだ。 青木はこちらに手を振ると、すぐ先のバス停に向かってタッと駆け出した。
だが。
やつは2歩ほど踏み出したところで大きく足を滑らせた。 きっと積もっていた雪でスリップしたのだろう。 細く開けたままの窓の隙間か「うおっ!」という悲鳴が聞こえる。 青木は大きくバランスを崩し、背中側に倒れそうになった。 背中にはバッグ。 青木はとっさにバッグをかばうような動きを見せつつ、何とか踏みとどまる。
そのとき。
ジジッとバッグの口を閉めていたジッパーが開き、中からあの小猿が顔を出した。 たぶんジッパーの持ち手が中にでも入り込んでいたのだろう。 あわてる青木。 小猿を押し込もうとする。 が、なにせ向こうはすばしこい動物だ。するりとやつの手をすり抜けて外に出てしまう。 青木は何度も足を滑らせながら小猿を捕まえようとした。 ついに小猿の首から伸びていた赤いリードひもをがっちりとつかむ!
しかし。
「ああっ!」青木が声を上げた。 バスが扉を閉じて動き出してしまったのだ。
「すいませーんっ、乗りまーす!」そう叫んで1歩踏み出した途端、やつはまた大きく足を滑らせた。
ほぼ同時に小猿が暴れる。
あわてる青木。
決定的に崩れるバランス。
小猿はするすると青木の体を登り、あろうことかがっちりと顔に覆いかぶさった。 悲鳴を上げてもなお小猿のリードを離さない辺りはあいつもプロなのだなとどこか冷静に思う。
『しりもちをつくところを見てみたい』
僕の夢は叶った。