To my Pride

わたしはせんせいがだいすき。
でも、だいきらいになったことがある。
いちどだけ。
ううん、ほんとは、ほんとはあれからずっと。

夢を見た。

母親よりも年を取っていて、祖母よりは少し若い。そんな女の先生だ。強いパーマのかかった髪と明るい色の口紅が似合う人だった。さばさばとして、ひょうきんで、どの子も彼女が大好きだった。

夢の中で、彼女はおにぎりを口から『吐いて』いた。

口より大きなおにぎりが、大きく開いた彼女の口から転がり出る。丸みを帯びた三角のおにぎり。ぱっかりと開いた口、濃いピンクの口紅。そこから魔法のようにおにぎりが出てくる。次から次へと。子どもが描いた絵のような、真ん中に海苔を貼りつけた塩味のおにぎり。真っ白い米がまぶしい。


それは実際にあった出来事を思い出す夢だった。あれはまだ小学生の頃。調理実習でおにぎりを作らされた。米を炊くところから始まって、塩を付けた手で握り、海苔をまく。中身があったかどうかは記憶にない。汁物か何かも作ったのだったか、それもあまり記憶にない。覚えているのは窓のまぶしさ。おにぎりは各人が数個握り、上手にできたものは皆の前に掲げて発表されていた。

私はなかなか上手に握った。家でも握ったことがあったから。ただ、私のおにぎりは丸い形だった。ボールのような丸ではなくて、少しつぶれたような形。コンビニでもときどき見る形のおにぎりだ。我が家の握り飯はこうなのだ、と自信を持って丸くした。

白い壁と黒い調理台。先生はにこにこと皆のおにぎりを見て回った。そして私のおにぎりを見て言ったのだ。

「あら、ぜんぜん三角になっていないでしょう。こうしてごらん」

そうして彼女は、私が苦心してきれいに仕上げたおにぎりをぎゅっぎゅと握り直してしまった。あっけにとられた後、私はぎゃんぎゃん泣き出した。彼女は私がなぜ泣くのかも理解せず、そのうち上手くなるなどと見当はずれなことを言ってなぐさめた。

強く恥を感じた。理不尽だと思った。誤解されたのが悔しかった。違う、技術が足りずに丸くなったのではない、わざと丸くしたのだ。抗議したかったのに上手くしゃべれず、それがいっそうに悔しさを増やした。かわいそうなおにぎりは、力いっぱい握り直されたせいで固くなり、ちっともおいしくなかった。

教師が子どもの仕事に手を入れた、つまりはそういうことだろう。よくあることだ。けれど、私はとても傷ついた。とてもとても傷ついた。あまりにも嫌で、その後はしばらく彼女の顔を見ようともしなかった。家に帰ってからそのことを親に訴えようとしても、涙でのどが詰まって上手く話せず、より一層悔しくなった。結局あの日の誤解は晴らせないまま。


目を開けるとカーテンのない窓から薄く日が差していた。時計を見る。時刻は午前4時。

久しぶりに子どものころの夢を見た。夢の中のおばさま先生は当たり前の人間に見えていたけれど、目覚めた今となっては化物じみていたように思える。いつまで出し続けるのだろう、あのおにぎりは。途中で目覚めてしまったけれど。

夢の中の私は小学生ではなく、中学生くらいになっていたと思う。夢だから、どこまでも現実に沿うわけではないのだ。うろうろ思い出すのは普段は記憶の戸の裏におしこめている苦い記憶。私の心はきっと深く傷ついたのだろう。でなければ、こんなに時が経った今、急に夢として見るだなんてこと。

とても大好きな先生だった。私は彼女の背中におぶさるのが大好きだった。今でも思い出す、先生のいい匂い。小柄だけれどしっかりとした彼女の背中。

『私からこの人への信頼は失墜した』

そう感じた。私からあの教師への信頼は大きく損なわれた。彼女がどんなつもりであの行為に及んだのであれ、それは紛れもない事実。この感情を何と言えばいいのだろう。裏切られた? 少し違う気がする。なんと表していいのか、口下手な私には上手く言葉にできないけれど。

きちんと言い表すことができないでいるせいだろうか。この忸怩たる思いは一向に癒えず、大人に今も底の方にわだかまっている。普段は忘れているけれど、何かの拍子によみがえるとあの頃の感情が戻ってくる。きっときっと、今でも傷は癒えてはいない。むしろ膿んでいるのかもしれない。

悲しい悲しい嫌な気持ちが蘇ってきた。これは記憶じゃない、感覚だ。生の感覚。吹き上がるように胸の奥によどんでいたものがこみ上げてくる感覚。気分が悪い。その感覚から離れようとしたが、思考を逃がす先が思い浮かばない。

ごくり、つばを飲み込んで。嫌なものも胃の底に押し込めてしまえ。

私はやっと頭を切り替え、粗末な布団から起き上がった。足音を潜ませて木の床を踏む。壊れかけのサンダルをつっかけて玄関のガラス扉を押し開けると、外の空気が一気にのどを通っていった。ああ、どこからか薫る緑の香りが気持ちいい。爽やかな植物の匂い。何の木の匂いだろうか。

少しだけ晴れやかな気持ちになって顔を上げた。晴天ならばもっとよかったけれど、空は曇天。まぶしいくらいに白い胡粉の色の雲が一面に広がり、遥かな天上を覆っている。くもり、とつぶやいた。そろそろ夏の声を聴く頃。セミが鳴き始めるにはまだ少し早いけれど、思い切り晴れた日の昼間はやはり少し暑い。暑いのは嫌いだ。私は冬の生まれだからかな。だから曇天、喜ばしいことではないか。少し寄ってしまう眉でそう考えて、ため息を1つ。

ガラガラと音がして向かいの家の引き戸が開いた。こんな早朝だというのに起き出して来たお向かいさん。鉢合わせた理由はこれかと、かの人の手に握られた竹のほうきに微笑む。お互いに寝巻のままだが、ここは下町。どちらも気にせずおはようのあいさつを交わして私は家の中へと引っ込んだ。きっとお向かいの旦那さんはそのまま玄関先を掃き清めるのだろう。

私の日常は、だいたい午前5時を少し過ぎた辺りから始まる。本当は『5時半には起きろ』と言われているのだが、少し早めに起きないと気が済まない、と思う。たぶん。気が済まないのではなくただの惰性かもしれないけれど。昔から約束の時間には早めに応じる方なのだ。

冷たい水で顔を洗うとしゃっきりと目が覚める。洗面台の鏡に飛んだ水滴をぬぐっていると、家の奥からがさごそと物音がした。ああ、きっと師匠かその奥様が起き出したのだろう。十中八九は奥様の方だが、稀に師匠が先に起きる朝もある。酒を飲んだ次の日が多い。深酒をすれば寝起きが悪くなりそうなものだが、師匠のそれは逆だ。何でも、『酒を飲んだ次の朝は胃がざらざらしやがって嫌でも目が覚める』のだそうだ。たぶん体質的にか、失礼ながらお年のせいでか、体がアルコールに耐えられぬということなのだろう。

ガタリ。

ガラス戸が開いて、渋い顔の師匠が顔を出した。今日は珍しい方の日だったようだ。少しくお酒の匂いがする。やはり昨夜、一杯、いやそれ以上は飲んできたらしい。私が寝ようとしたときにもまだ馴染みのお客と話し込んでいたから、そのままここでいくらか飲んだのかも。

曲がりなりにも『受験生』である私は師匠の言いつけに従って、日付が変わらぬうちには必ず床に就くようにしている。だから、その後のことは師匠や仕事場の様子から推測するしかない。

「おはようございます、本日もよろしくお願いいたします」

深く頭を下げてお辞儀をする。毎日の、私の習慣。

「………ぉぅ」

しわがれた声、師匠の喉はガラガラとした音をかすかに絞り出した。

ああ、これは少しではないな。昨日のお酒は、量はともかくアルコールの割合は強いものだったの違いない。割らずに強い焼酎でも飲まれたか。師匠、もう決して若くないのですから、どうぞ深酒にはお気を付けて。


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