仕事はじめのご依頼は、ステキなおじいさまから。 お約束どおりの展開を予感しながら、少年は依頼を受けた。
謹賀新年、寒い朝。
楽しいスリルを期待して、少年は身支度を整える。 薄いハイネックのセーターと、はきなれたスリムなボトム。 手首には去年のクリスマスに彼女からもらった腕時計をつけた。 最後に新しいコートを羽織って、さぁ出発。 新しいコートは首元まで暖かいからマフラーは要らない。 今まではほぼ毎日つけていた品だったが、しばしのお別れだ。
お気に入りのマフラーが放つ派手な色がなくなると、彼の姿はぐっと大人びて見えた。 珍しく彼の姿から消えた色は鮮やかなウルトラマリンブルー。
指定されたホテルの部屋に入り、少年は室内を見回した。
依頼人は白髪の紳士だ。瞳の輝きは健在だが、刻まれた皺は深い。
室内には依頼人と少年自身の二人しかいなかった。 だが、なぜだろう、どこからか見つめられるような感覚がある。 気配をたどった。 油断なく、しかし何気ない風に這わせた視線の先に、花瓶。
「花が好きかね?」物静かな声が問いかけてくる。 前に向き直ると、老紳士は少年の横顔を眺めながら微笑んでいた。 もう一度花に目をやり、少年は、うん、と軽く答える。
「私もだ」老紳士はにっこりと微笑んで右手を差し出した。 少年はあわてた様子で手袋をはずす。 はずした手袋はまとめてポケットに突っ込んだ。 その拍子に、手袋が落ちる。 絨毯の上に寝そべる、手の形。互いによく似た色で目立たない。
「ようこそ。……キッド君、とお呼びすればよいのかな?」依頼人である老紳士の問いかけに、少年は軽くうなずく。 握手の後、役目を果たした少年の両手は左右のポケットに消えた。 ポケットの中では、それぞれ一挺ずつの拳銃が持ち主の手を待つ。
その銃の名は『ブローニング・ベビー』。 小さな赤ん坊、手のひらサイズの相棒たちだ。 本来は護身用の豆鉄砲だが、使い手しだいではドラマをも動かす。 キッドという少年はまさにドラマを生み出す使い手の一人。 それゆえ、一部の人は彼を『ブローニング・キッド』と呼ぶ。 彼の名はキッド。 二挺のベイビーを誰より鮮やかに扱う、天下無敵の坊やである。
自分の方に体を向けなおしたキッドに、老紳士がゆっくりと告げた。
「実は、今日ここへ呼んだのは君一人ではないんだ……。気を悪くしたかね?」キッドは首を横に振る。老紳士は満足げにうなずいた。
自分の他にもう一人、同じ依頼人に雇われた男がいる。 そんなことはとっくに知っていた。キッドの情報網は半端ではない。 男は、評判の腕利きであった。 難しい狙撃もお安い御用、特に遠距離射撃の腕前には定評がある。 直接会ったことこそないものの、知らない顔ではなかった。
「君を先に呼んだのは他でもない。私の話を聞いた後、彼の顔を覚えて行ってもらいたい」何も知らない老紳士が言う。 顔なら知ってるけど、と思ったが口には出さなかった。
大人しく話を聞くキッドの前で、老紳士が一枚の紙を取り出す。 その紙はどこかの見取り図のようだった。 正面にスクリーン、並んでいる小さな四角は客席らしい。 客席の真ん中が空いていて、そこには『映写機』の文字があった。
「彼はね、この映写機を壊す。日付は明後日だ」老紳士は静かに語る。
「会場はこのホテルの三階、鴻の間というところになる。 彼の目標は、映写機のフィルムだ。 ……実はね、キッド君。少々危険なんだが、君にはこの会場にいて欲しい。 そして、彼よりも腕がいいところを、見せて欲しいんだ」老紳士はここで言葉を切った。 キッドはちょいと眉を上げて先をうながす。 険しい表情で、老紳士はキッドをすぐ側まで招き寄せた。
「いいかい?当日、どこから撃つのかは彼しか知らない。 君は弾が飛んでくる方向を元に彼の居場所を見つけ出して、彼が撃てないものを、撃て」曖昧な目標の設定に、キッドは当然の問いを返す。 老紳士は、今までと変わらぬ静かな口調で告げた。
一瞬の間。室内の空気が冷えた錯覚。
「了解。理由は?」軽い調子でキッドが問う。 老紳士は作り物めいた優しい笑みでこう答えた。
「……それを聞くかね?」0.1秒の間もないほど素早く返るキッドの声。 依頼人はからからと笑った。
「ははは、おもしろいなぁ、君は」キッドもクスッと笑いをもらす。 二人は穏やかならぬ状況の中、顔を見合わせた。
「で?」あくまでも問い続けるキッドに、老紳士は少し寂しそうに言う。
「君まで消えてもらわなければならなくなるが、聞くかね?」返事のかわりに肩をすくめた。 聞くかねとは言うが、どうやら教えるつもりはないようだ。 さすがのキッドも、これ以上問い詰める気にはならなかった。
「やめとく」あきらめの声を出すキッドに向け、老紳士が嬉しそうに言う。
その言葉が終わるとほぼ同時に、キッドの背後でドアが開いた。 ガタイのいい男が室内に入りかけ、立ち止まる。 ドアを開けたのは老紳士が雇ったもう一人の人物だった。 案の定、キッドが事前に嗅ぎつけていた男だ。 向こうは、呼び出されたのは自分だけだと思っていたのだろう。 キッドの存在に気づいたとたん、男の表情が変わった。 どうもひどく機嫌を損ねたらしい。やれやれだ。
男と入れ替わるようにして、キッドは部屋を出た。 玄関の側、周囲のほとんどが窓ガラスのロビーで足を止める。 それから、太い柱に隠れるように立ち、イヤホンをつけた。 音楽でも聞いているような風に、身体でリズムを取って。
聞こえてくる会話は先程の室内のものだ。 発信源は、わざと落とした手袋に仕込んであった盗聴器。 だが、特に詳しいことも話さないまま、会話は終わろうとしている。 収穫なしかと思った、そのときだった。
老紳士の声で、友が好きだった花でね、と付け足すのが聞こえる。
キッドの中で何かがピンと反応した。直感というか、勘というか。 よどみなく流れる音楽に混ざる一瞬のノイズ。
花束。
撃たないでくれ。
付け足された条件が耳に残った。キッドは柱に背中を預ける。
しばらくして視線を上げると、こちらに近づく人影が見えた。 後から部屋に入ってきた男だ。すなわち、今回のターゲット。
キッドは真っ直ぐに相手を見つめた。男は足早に去っていく。 通りすがりざま、男が火のついた煙草を投げつけてきた。 頬に当たる。 小さな灼熱、かすかに残る痛み。 男がホテルから出るのを見届けて、キッドは例の部屋へと駆け戻った。 ノックすると、驚いた表情で依頼人の老紳士が現れる。
「あのぉ、手袋落ちてませんでした? かたっぽ……」おずおずと、あくまでもひかえめに言う。 老紳士はおやおやとつぶやきながら室内を探してくれた。 床に転がる手袋はすぐ発見され、疑われることなくキッドに戻る。 手袋を受け取ったキッドは、にこっと笑ってぺこっとおじぎ。 顔を上げた瞬間、花瓶の花が視界に飛び込む。
ホテルを出たキッドは、そのまま某オンボロアパートへと向かった。 足音高く鉄の階段を上り、二階のある部屋を勝手に開ける。 すると、四畳半の片隅で寝ていた住人がもっさりと身を起こした。
「何時だよ……お前来んの早いなぁ…」寝ぼけまなこで文句をつけるのは、圭介という情報屋だ。
「ケイさんっ! 朝、朝! ほら、起きて!」キッドはずかずかと部屋に入り、まだ眠そうな圭介の腕を揺すぶる。 ついでに、差し入れのつもりで買ってきた缶コーヒーをくれてやった。
「うぅ…、いつもすまないねぇ……」弱々しく、お爺さん風の声で圭介が言う。
「おとっつぁん それは言わない約束よ、って続けたくなるんだよね」何でだろうとつぶやくキッドの台詞に、圭介が応える。
「フッ、それが≪お約束≫の魔力だ……」誇らしげな言葉の語尾は消え、圭介のまぶたが半分ほど降りた。 再び横になろうとする圭介を無理やり引っぱり起こす。
「何でそんなに偉そーな言い方すんのかわかんないけど、起きろ! シ・ゴ・トぉ!」キッドが用件を伝えると、寝ぼけていた圭介の目が鋭く光った。
「仕事、な。任しとけ」言い放つ圭介の表情からは眠気が消えている。これでよし。 調べて欲しいことを詳しく説明し、キッドは圭介の部屋を後にした。
結果が出たのは、なんとその日の夕方である。 朝に頼んで夕方には仕上がるハイスピード、洗濯屋の宣伝のようだ。 どうやらよほど調べやすい相手だったらしい。 圭介に呼び出され、キッドは再びボロアパートに向かった。
部屋の戸が開くと同時に調査結果が入ったA4封筒が飛んでくる。 ぱしりと受け止め、キッドは圭介が待つ部屋の奥に上がりこんだ。
まず手始めに、と教えてくれたのは依頼人についてだ。 老紳士は、元バリバリのカメラマン。 若い頃は世界を駆け回り、とにかくヤバいものは何でも撮ってきた。 戦場の真実、極道の世界、果ては密入国しての潜入ルポまで。 ここまでは誰でも調べられる内容だから、序の口といったところ。 ここから先が情報屋としてプロの領域となる。
まず、キッドが知りえなかった、例の狙撃上手な男への依頼内容。
『目標であるフィルムとその周囲を全て撃ち壊せ』ただそれだけの契約だった。 それ以上でも以下でもない。あまりにも大雑把な話だ。 キッドへの依頼で、老紳士は『知りすぎたものを消すため』と言った。 しかし、どんなに過去を探っても、あの男と老紳士に接点はない。 ついでに言えば、フィルムの中身は古い記録映画だ。 こちらとの接点もせいぜい上映会のために資金協力をした程度。 約束を交わした『古い友人』とやらも浮かび上がってこなかった。
そして。
「花だな」圭介が言った。
「説明」キッドがうながす。 圭介は、封筒の中から伝票の写しを取り出した。
「イベントが午後の場合、花が届けられるのは普通その日の朝か昼。 早く届けすぎるとしおれるだろ? ところが、と。……これ見ろ。今回はどういうわけだか前日入りしてる。 花束を注文したのはお前の言う依頼人に間違いないけどな。 問題は、届け先。ホテルの会場係やイベント関係者じゃなく、」説明の途中でキッドが口をはさむ。 無精ひげをなでつつ、圭介がうなずいた。
「そういうこと。で、もう一つ、つながりそうなのがこれだ」指し示したのはパソコンの画面。何かの表が表示されている。 のぞき込んだキッドは、あ、と声を上げた。 表の正体は、キャッシュカードの使用を記録したリストだった。 どこで何時にいくら払ったかまでわかる。もちろん不正に手にした情報なのだろう。
「あの爺さんのキャッシュカードで買われたもんを拾ったんだけどな。 ……最後から三番目のこれ、何だと思う?」問いかける圭介。キッドが返事をする前に、彼は解答を取り出す。 直径7mm程度のレンズがついた管状の物体だ。 キッドが手に取ると、圭介はパソコンの画面を切り替えた。 画面いっぱいに、キッドの顔が映る。
「カメラじゃん」つぶやきながら、キッドはレンズをのぞき込んだ。 レンズつきの管は、高性能なマイクロカメラ。 最近、といっても数ヶ月前だが、老紳士が入手したものだという。
これで予想はついた。 花束にカメラが仕込んである可能性、大。 要するに、今回の依頼自体が嘘で固めた撮影目的のものということになる。 もう一人の男やキッドの仕事をカメラに納めるのが目的なのだろう。 自己満足か、はたまた高値で売るのが目的か。あるいは両方かもしれない。 実に迷惑な話だ。こんな嘘っぱちの依頼、ルール違反に他ならない。
ならば、ただ断ればよいだけなのだが。
せっかくだから、しっかりお相手してあげようではないか。
「やっぱ一番はカメラ壊すことだと思うんだけど」スリルに首を突っ込みたがる、キッド少年の悪い癖。 わくわくしたキッドの口調に、圭介が呆れた声を出す。
「じゃ、忠告してやろうか」年上に向かってこの台詞、キッドの生意気ぶりにも呆れたものだ。 慣れっこな圭介は、腹も立てずに話し出す。
「目標にブローニング・ベビーの弾丸を残さない方がいい。 あんな小物を使うプロなんかお前だけだろ。記念になりすぎ」そう言って、圭介はぼりぼりとあごをかいた。
「普通のカメラが相手ならともかく、今回のは通信機能がついてる。 映像をリアルタイムで転送されてると踏むね、俺は。 となると、カメラに写らない場所から撃つこと。これ必須。 ただし、その場合、お前からも目標は見えない」封筒を片手に背中を見せる。同時に、声もなく笑った。 キッドの表情はイタズラを思いついた悪ガキの笑顔。
数時間後、キッドはすっかり暗くなった道を急いでいた。 目指すは朝行ったホテルのお向かい。こちらはオフィスビルである。 ビルの屋上に着くと、キッドは何事かメモを取り始めた。 おや。 キッドの脇に、夕方まではなかった包みがある。 妙な形の包みだ。長さは、1mより少し短い。
メモを取り終えたキッドが向かったのは、国道沿いに店の並ぶ場所。 道路わきに駐車しているたくさんの車のうち一台に歩み寄る。
「ハコ屋のじーちゃん、いる?」ひょいとのぞき込んだ車内で、老いた男が一人、身を起こした。 キッドがいつも世話になる運び屋。通称『ハコ屋の爺さん』だ。
「いた!よかったー。お仕事〜と、お土産♪」まずは手渡すホカホカの鯛焼き。
「あぁ、いつもすまないなぁ……」ナチュラルに言う爺さんに、キッドが笑う。
「おとっつぁん、それは言わない約束でしょっ! って言わなきゃ気が済まないのは≪お約束≫の魔力らしーよ」ハコ屋の爺さんも笑いを返す。 鯛焼きの次に渡したのは、さっきのメモと包みだ。
「コレを、メモした場所に設置ぷりーず」ばいばい、と手を振って去っていくキッド。 やがて鯛焼きを食べ終えた爺さんは、メモをにらみ、車を動かす。
そして、依頼の当日。 キッドは、約束の時刻よりもやや早くホテルにやってきた。 上映会場のある3階を通り過ぎ、最上階を目指す。
人気のない非常階段に出て、向かいのビルの屋上を見上げた。
少しの間、『目標』を探す。 あった。 1mmの狂いもなく指定通りの場所、角度、カムフラージュも完璧だ。 しっかりと固定された『目標』は、ちょっと変わった自動小銃。 先日、ハコ屋の爺さんに設置を頼んだ包みの中身がコレだった。 銃は屋上の柵と同じ色に塗られており、全く目立たない。 さすがは年の功だ。お見事。
向かいのビルを眺めていると、不意に、窓の一つが開いた。 閉じられたブラインド、室内は見えない。 きっと、あそこがもう一人の男が潜む部屋なのだろう。 本来の依頼を受けるなら、あの男がターゲットだった。 しかし今、キッドが狙うのは彼ではない。 契約違反もいいところ。 だけど、最初にルールを破ったのは依頼人の方だ。
さぁ、楽しいショータイムが始まる。
キッドの両手がポケットに飛び込み、次の瞬間、飛び出した。 両手にそれぞれ握られたのは、二挺のベイビー、かわいらしい拳銃。 連続で発砲する。6発。
重なるように、向かいの屋上から銃声が轟いた。……6発。
鋭く大きな弾丸が、会場の花束を木っ端みじんにする。 左右3発ずつ、計6発を撃ったところでキッドは身をひるがえした。 ポケットに消える両手、さっと隠れるベイビーたち。
足元から響く驚愕と混乱の大騒ぎ。
しかしキッドの意識は向かいのビル。 例の男が潜んでいたらしい部屋のブラインドが大きく揺れていた。 その奥に男の姿がないことを確認して、その場を離れる。 3階でエレベーターを降りると、辺りは騒然としていた。 キッドが行くはずだった会場からスーツ姿の青年が抜け出してくる。
「やほ。どうだった?」何気なく近づき、キッドが問いかける。 青年はにやりと笑った。
「上出来すぎるなぁ。 ばっちし命中、花束もカメラもおだぶつさ。やっぱり花束の中だったよ、例のカメラ」答えた青年は、なんと情報屋の圭介。 髪とひげを整えた清潔な姿のため、先日とはまるっきり別人だ。
圭介に別れを告げて、キッドはもう一度エレベーターに乗り込んだ。 ホテルを出る。 急いで目指す行き先は、向かいのビルの屋上だ。 きっとそこにいるはずの誰かさんに会うために。
屋上についたとき、先客は、ちょうどはキッドが狙い撃った辺りにいた。 肩に『ドラグノフ』というデカい銃を引っさげたまま。 背後に近づく。 男は振り向きざまに、妙な形の銃を突きつけてきた。
「それオレのじゃん」キッドの声が静かに通る。 言いながら、手を頭の後ろにやって敵意なしのポーズ。 男は怒りに顔をゆがめ、歯を食いしばっていた。 男の手にある狙撃銃はキッドが仕込んだ『WA2000』というもの。 この銃の装弾数は6発だから、残念ながら空っぽなのだ。
「貴様……なぜだ」低くかすれた声で男が問う。
「花を撃ったこと?」キッドは肩をすくめて見せる。
「だって俺への依頼は、『彼の撃てない物を撃て』だもん。契約内容とばっちりじゃない♪」やたら陽気なキッドの言葉に男の表情にまた怒りの色が増す。
しばしにらみ合い。
男は歯を食いしばったまま何も言わない。 せめてどういうことかと尋ねてくれたら、いろいろ教えてあげるのに。 沈黙は続く。キッドは少しだけ気まずい気分になった。
「……俺の交わした約束を、ぶち壊した」男が、声低く、怒る。 絞り出すような声に応え、キッドは封筒を投げ渡した。 男が思わず受け取ったのは、真実の調査結果がつまったA4封筒だ。 キッドは無言のまま、ジェスチャーで中を見ろと伝える。 男はキッドに意識を置いたまま、封筒を開けた。
読み終えて、見つけ出した銃をまじまじと見る男。 引き金を守るように覆う金具が切り取られた、短い狙撃銃。 むきだしになった引き金に、小さな痕がついている。 ホテルの非常階段から放たれた、キッドの弾丸の痕跡。 引き金の大きさなどたかが知れている。 キッドはこんな小さな的を撃っていたのだ。 500mほども離れた場所から、しかも、6発ともほぼ同じ場所に。 明るい日中とはいえ、なんという正確なショット。
男は改めてキッドを見つめた。 引き金の痕、向かいのホテル、しげしげと見比べため息をつく。 何が起きたのか、わかってしまったらしい。 男は無言で狙撃銃をキッドに手渡し、去っていこうとする。
「これからどうすんの?」男の背中に尋ねるキッド。
「嫌な奴は忘れることにしている」背を向けたまま、男が言った。 彼の言葉を補うとしたら、きっとこう続くのだろう。 嫌な奴は忘れることにしている。 だから、奴を消し去りに行く。そして今回のことは忘れる。
「ほっとけば? あんなじーちゃん」ルール。 男が自分自身と交わした約束。
「止めちゃう♪」キッドの声に男が振り向く。キッドの両手には『ブローニング・ベビー』。
視線がぶつかる。 男の瞳に迷いの色。キッドの目には、絶対に負けない自信の輝き。 しばしにらみ合う。 と、男の視線が後ろにずれた。
視線の先を追って振り向くと、ガラス張りのロビーに人影がある。 依頼人の老紳士だ。 遥か下で、老紳士はホテルの玄関を出ようとしていた。
キッドが見守る中、男がおもむろに銃をかつぎなおす。 堂々たる『ドラグノフ』の銃口は、キッドではなくホテルの方に向いた。
ドン、ガン、ガガン!!
ひとしきりの銃声。 弾薬のつまったマガジンを取り替えながら、男が撃つ。 下をのぞき込むキッドが見たのは、ひっくり返る依頼人だった。 依頼者の足元には、弾痕によって警告のマークが出来上がっている。 他には一切それなかった弾。 誰を傷つけることもなく、雪が覆う道路に『×』の形だけを残した。 なんともはや、こちらもお見事。
「これで、奴の顔は忘れた」再び立ち上がり、キッドに背を向けて。 嫌な奴は全部忘れることにしているから、と男がつぶやく。
「お前のことも絶対に忘れる、一番嫌いなタイプだ」そう言いながら、自分の銃を片づけ始めた。 男の表情に、もはや怒りの色はない。
「俺は覚えとく、こんなゴツイ銃であの精度、すっげー!」キッドははしゃぐ。 上気した赤い頬は、まるっきり素人の少年に戻っていた。 新年早々いいものを見た! 興奮した表情がそう物語る。 男は複雑な表情で振り返った。
「あのじーちゃんもこれを撮りたかったんだろうなあ」しみじみと、キッドが感嘆の声をもらす。
男はフンと鼻を鳴らした。
キッドは、ふと空を見上げた。白く光る冬の太陽がまぶしい。 キッドを残して去っていく男。 きっとまた、どこか出会うことになるだろう。 背中を見送るキッドの胸に、そんな予感が浮かんだ。
一方、地上で腰を抜かす老紳士。 目の前の地面に突き刺さった弾丸の迫力に声を無くしている。 その肩を、誰かが叩いた。 引きつった悲鳴をあげる老紳士に微笑みかけたのは一人の青年だ。
「さっきどっかの坊やから渡すように頼まれましたよ」それだけ告げて、青年は手紙を渡して行った。 老紳士はブルブル震える指で、何とか折りたたまれた紙を開く。
完全なる敗北に、老紳士がうめく頃。
屋上にはすでに誰もいなかった。 キッドはビルの階段を下りながら、コートの袖をまくって腕時計を見る。 時刻は正午、真っ昼間。 いくら何でも、長居するのはNo goodな状況の今日この頃。 さっさとおうちに帰りましょうと、駆け足でその場を後にする。
再びコートの袖口に隠れた文字盤は濃厚な青の色。 やっぱりお気に入りは、深くて鮮やかなウルトラマリンブルー。
かわいい少女が、キッドの頬をちょんっとつつく。 危険で楽しい一日の続き、夕暮れ時のことである。
キッドの部屋に遊びにきたキッドの恋人。 彼女がめざとく見つけたのは、小さな火傷の名残だった。 ほとんど消えかけている、投げつけられた煙草の痕だ。
「ああ、調子こいて花火振り回してたら焼けた」わけのわからん言い訳でごまかすキッド。 信じきって、彼女は困ったさんを見る表情になる。
「何でそんなことしたの〜?もう、ほんと危ないんだから」心配してくれるかわいいカノジョ。 でも、彼女は知らない。 自分と寄り添う少年が『キッド』と呼ばれる特殊な存在であることを。
「危ないことしないって約束。ね?」返事ばかりは調子よく、いつものとおりに約束を交わす。 小指を立てられ、半分嬉しく、半分しかたなく指をからめた。 彼女の澄んだ声にあわせ、楽しく歌うは約束の歌だ。 指きりげんまん、嘘をついたら針千本。
「危ないコトしないよーに気をつけま〜す」そう言いながら、キッドの胸はほんの少〜しだけ、痛い。 なぜなら、己が生きる危険な世界と危ないお仕事が大好きだから。 今この瞬間すら、ポケットの中には二挺の銃を入れたままだ。
守る気ゼロの誓いの言葉。そうとは知らずに少女が笑う。
そして彼は、これからも元気に約束を破り続ける。