良識ある上司のまっとうな主張。
耳障り。
ノイズ。
鼓膜に届かず散らばる音声。
下を向いたまま廊下を歩く。
向かうのは自分が所属する部署、さらにその中の
my desk。
入り口をくぐる瞬間、皆の視線がチロリと俺に集まった。
机に座り、捜査資料の入ったノートPCを立ち上げる。
明るくなる画面。
映し出された問題のファイル。
汗水たらして調べ上げたことが全て詰まってる。
俺はグッと口を引き結んだままDeleteキーに指を置いた。
カタッ。
敗北の一押しは薬指で。
コレデイイノカと空耳が叫べば、はらわたの奥底がどろどろと渦を巻く。
こんなことがあっていいのか?
死体が上がった。
容疑者も見つけた。
それなのに何もできないなんて。
俺は叩きつけるようにPCを閉じる。黒いノート型、最新の機種、買ったばかり。
軋む思考回路はほどなくフリーズ。
俺は無言で席を立つ。
勤務先の署を出て、繁華街へと歩き出した。
肩で風を切って歩く。
今日はもう仕事をする気にはなれない。
職務怠慢、公僕の風上のも置けぬ不届きモノ。
どうもサーセン
(=すいません) 、それ、俺です。
吐き出す鋭いため息はせめてもの悪あがき。
肺から流れるCO
2で乾いた怒りを吹き飛ばせ。
上司からストップがかかったのは捜査中の
殺人事件だった。
第一発見者は別部署の同僚たち。
仰向けになって殺られていた男は違法デリヘルの経営者だったと言う。
風営法違反の容疑で
逮捕りに来たら、その当人が
被害者になって倒れていた。
死後、数秒。
出来立てほやほやの仏さんだったらしい。
俺が犯行現場を訪れたのは、ちょうど今のくらいの時刻のことだった。
脳裏に甦る光景は閑散とした部屋。
真っ昼間、つきっぱなしの電灯、人型を描く白い線。
被害者の体には特に争った跡も犯人を示す証拠もなかったという。
額と心臓に一発ずつ、小さな弾丸がクリーンヒットしていた。
鮮やか過ぎる手際。
よほど手馴れた者の犯行だ、直感的にそう思った。
いったい誰がやったのか?
数時間前から現場の前で張り込んでいた刑事は誰も侵入しなかったと証言した。
それを裏付けるように、ビルの入り口にあった監視カメラには何も映っていない。
しかし。
同じ建物の屋上で仕事をサボっていたアパレル系の会社員が怪しいヤツを見ていた。
隣の高層ビルの窓から、映画のアクションスターよろしくひらりと飛び移ってきた一人の少年。
『見られちゃった?』
そう問いかけて、ぺろりと舌を出したと言う。
サボり魔の会社員が証言した通りなら、髪の色はアッシュグレイ。
白地に鮮やかなウルトラマリンブルーのプリントが入ったTシャツを着ていたと言う。
プリント柄はどこぞの風景、都会の写真。
目撃者の商売柄か、服装についての情報はかなり詳細だった。
俺たちはまず衣服を手がかりに怪しいヤツの影を追った。
そのTシャツは輸入ブランドの限定品だった。買った人数は少ない。
これでだいぶ絞り込めた。
あとは髪の色と背格好が頼りだ。
その正体を探ること一ヶ月。
やっとのことで条件どおりの外見と並はずれた身体能力を持つ若者を見つけた。
アタリをつけて、何日も張り込んで、もう少しで手が届く。
そこでストップ。
せいぜいでかい
組織がバックにいるからだろうと考えていた。
上の連中が止める理由なんてしょせんはそんなもん。
そう思って聞いた上司の説明が、『ヤツはプロの殺し屋だからだ』ときたもんだ。
追えない相手、だと?
サイン帳と呼ばれている
殺人請負人名簿。
そいつに名前が載った人間の殺しは
逮捕れないと言う。
なぜだ!?
そんなものが存在するなら、まずはそいつを押収し、全員
逮捕ってやればいい。
憤った俺に告げられたのは思い描ける限り、最悪の事態。
逮捕ったら、身内も
逮捕られるんだとさ。
まさか警察庁までも御用達のリストだとは。
もしかしたら警察庁どころか、国の根幹に関わる機関からの依頼もあるのかもしれない。
公に罪を問いたくない人間が大勢いるような口ぶりだったから。
ああ。
自分の知らないところで起きていたことに反吐が出る。
警察には不祥事なんて無い……なーんて信じていたわけじゃない。
そんなこと、今どき3つ、4つのガキだってわかってる。
国家の犬は正義じゃない。
現に刑事である俺だって清廉潔白じゃない。
警察だけじゃない。
他の政府機関や政治家個人、いわゆる大物たち。
皆、多かれ少なかれ、ダークサイドの顔がある。
偉ければ偉いほど。
裏で悪さをしてたって何の不思議もないんだ。
ある程度は。
専業の殺人請負人が何人もいて、国や大物、警察庁からの依頼すら受ける。
……漫画やドラマじゃあるまいし。
ひどく現実離れしていると思い、そうでもないかと考え直す。
警察や国家が殺し屋を雇って、誰かを始末する。
ありそうな話だ、よく考えてみれば。
あったって不思議じゃない。
ここが日本じゃないならば。
外国で起きた事件だと思えば納得がいく。
だってありそうじゃないか。
テレビや映画でよく聞く話だ。某合衆国とか某王国とか、某旧連邦とか。
それならイメージどおり。
ただ。
俺の前で。
手の届くところで。
そんな場所で殺人を職業とする者たちが息をしているということが信じられないだけ。
歩きながら何度も何度も頭を振った。
何も知らずに生きていた昨日までの自分をどうしてやろうか。
ただじゃすまさない。
もしも相手が自分じゃなけりゃ、立てなくなるまで殴ってやりたい。
じわりとわいてきた唾を道路の脇にベッと吐く。
すれ違った若いカップルの女の方が「キタナーイ」と小声を上げた。
舌打ちを返す。
俺はジリジリと焦りながら闇雲に歩いた。
視線は自然と地に落ちて、なぜか顔を上げられない。
繁華街の汚い中華料理店でラーメンを食う。
遅い昼飯。
無心で麺をすすり終えると心が決まっていた。
いったん署に戻る。
俺は外に出てくると言い残して部屋を出た。
向かう先は、あの場所。
俺ははやる鼓動と共に見覚えのある道を行く。
もう通い慣れた道。今度はキッと前を見すえ、顔をあげて歩く。
―― 御年16歳。
氏名は青木貴史。
最終学歴は都内の某公立中学校卒業。
帰国子女で、6歳まではイギリスにいた。
あの目撃証言と一致する銀髪のガキ。
あいつの住処へ。
ここ1週間ずっと通いつめた場所だ。
後輩と交代で見張って、逃がさぬように、次の事件が起こらぬように。
オートロック、ユニットバス、ブロードバンド完備の2DK。
真新しくて洒落たマンション。
そこがあいつの城。
ぼろくさい独身住宅にしがみついている俺とは大違いの住環境。
お前、なかなかクールじゃねぇの。
悪くない。
無意識に口元が上がる。
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